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夏草、追憶、枯れ葉の音

作者: LeMac

 夜の河川敷、僕の横を、ひとりのランナーが追い抜いて行く。赤いスパッツに紺色のTシャツ、華奢な背中が次第に小さくなっていく。前方からは、姿の見えない自転車が、ゆらゆらと白色光を浮遊させ、こちらへやって来る。徐々に明かりは大きくなり、僕とすれ違った瞬間、ふわっと涼しい風が吹いた。僕はそこで歩みを止め、河川に向かって、背丈の低い草叢を降りた。

 しっとりとした蒸気のなか、初夏の風が吹く。湿っぽくて生ぬるいが、僕の身体を柔らかく撫でる。ざわざわと生い茂った千草が唄い、遠くの河川に架かった鉄橋の上を、幾台もの車体が交錯する。群青の夜空に浮かんだ青白い炎は、冷たく無機質で、僕はすこし寂しい気持ちになった。人工的な光というものは、必ずしも、東京の夜空を彩るものではないらしい。

 ――夏には、夏の匂いがある。

 草叢を降りながら、ふと、そう思った。

 日光の匂い。海の匂い。洗濯物の匂い。火薬の匂い。蚊取り線香の匂い――。そして僕にとっての夏の匂いは、湿気に込められた、この夏草の匂い。梅雨の空が近づいて気温が上がってくると、アスファルト道路が蒸気を放ち、夏草の香りを中途でさらって、僕の鼻腔をぷんとくすぐる。それはもう、本当に懐かしくて、なんだか切なくなる。

匂いというのは、人間にとって、もっとも有効な記憶保存の手段らしい。この匂いを嗅ぐと、僕はあの頃を思い出してしまう。反射的に、短絡的に、僕の追憶はあの頃へと向かってしまう――。


 

 僕が東京に出てきたのは、大学に入ってひとり暮らしを始めてからであり、それまでは九州地方の小さな田舎町に住んでいた。それはもう、典型的と言えるほどの田舎で、僕の部屋の窓から見えるものといえば、広大な稲の田んぼと、舗装されていない畦道と、ひどく高い電信柱と、はるか遠景の山脈だけ。市街に出て買い物をするには、バスに三十分ほど揺られなければいけない。町内には小学校と中学校しかなく、町に住む子どもたちが高校に上がるときは、実家を出て、高校が管理している学生寮に住まわなければならなかった。

 僕の追憶がぶつかる「あの頃」というのは、忘れもしない中学一年生の夏。初めは中学一年生か中学二年生か、覚えが曖昧だったのだが、みっつ上の姉が実家を出て行ったことを思うと、ほぼ間違いなく、一年生の夏なのだろうと思う。

 その日は一学期の終業式で、僕はいつものように、退屈な校長先生の話を聞いたあと、木洩れ日に濡らされた山あいの道を、友人のTと一緒になって歩いていた。僕の通う中学校には、生徒人数の少なさから、部活動と呼べるものは、書道部とテニス部を除いて他になく、筆にもラケットにも興味を抱けない僕は、学校が終わると、毎日そそくさと帰宅していたのだった。

 下校道に敷かれた片側一車線の狭い道路には、車がほとんど走っておらず、荒んだ排気音は消失しているが、その代わり、道路に飛び交う蝉の鳴き声が、森の奏鳴曲のように、木洩れ日の生彩に響き渡っていた。

「ねえ、しょうちゃんは、好きなひと、おるゥ?」

 ふと、友人のTが僕に訊いた。Tは小柄で、僕の肩のあたりまでしか背丈がない。乾いた黒髪は暑苦しいほどぼさぼさで、いつも大きめのポロシャツを着ていた。

「好きなひと? ……おらんよ」

 事実、僕の恋心は晩成で、僕が初めて異性に惹かれたのは、高校に入ってバスケットボール部に所属してからだった。僕の中学時代といえば、それはもう驚くほど非社交的で、女の子どころか、同性の男友達も数えるほどしかおらず、嫌われているわけではないと思うのだが、僕の消極性が、友人の輪の拡張を妨げていたのだ。

「嘘やろォ? 好きなひとおらんと?」

「おらんおらん。そういうTはおるとやろ? 教えてよ」

 ふたりの灰色の影が、歪曲した青葉の影に、ちらちら重なる。Tは帰路の途中で拾った長い木の枝を、土砂崩れ防止の金網に沿わせながら、しばらく黙っていた――。

  

 僕とTは親友であった。保育園から続く交友関係で、家がふたつの田んぼを隔てた近所ということもあり、家族同士も親密で、ときにTの家の庭で、彼の家族と一緒になってバーベキューをしたり、花火をしたりしていたのだ。

 Tには、今年小学二年生になるひとりの妹がおり、彼女は、しばしば遊びに来る僕とも仲が良かった。Tは妹の面倒見が非常に良く、僕と遊ぶときも、妹をひとりぼっちにしないようにと、僕たちに交らせて、一緒に公園で遊んだり、山腹の渓流で泳いだりと、兄としての愛情が感じられないときはすこしもなかった。

 ある日、僕たちの家の近所で、Tの妹が、田んぼの淵に座りこんで泣いていた。

「どうした?」それに気付いたTは、小走りで妹の傍に駆け寄り、神妙な表情で言った。

「どうもせん」

「どうもせんことない。泣いとるやっか」

「いいと。ほっといてよ」

 彼女は涙を抑制するような、上澄みの声で言った。僕は彼らから五メートルほど離れた電信柱の下で、ふたりを見ていた。どうしていいのかわからない。妹は顔を上げず、静かにすすり泣いており、Tはしゃがみこんで、妹の右肩に手を乗せている。

「なんで泣いとるか、兄ちゃんに言ってみ」

「いや、言いとうない」

 ふたりは、僕の存在なんか微塵も気にせず、半ば感情的な声色で、互いに言葉を交わす。「……僕、もう帰るね」僕は、少々居た堪れなくなったので、ふたりにそう言ったが、彼らは僕の声なんか聞こえていないらしく、田んぼの淵に固まったまま、どこか沈んだ気配を漂わせていた。僕は踵を返すと、振り返ることなく足早に家路に着いた。


 Tが東京に転校するという話を聞いたのは、その四日後だった。銀行員をしている父親の栄転と、妹が学校でいじめにあっているという理由から、Tの家族は、今年の六月を以て、この九州の田舎町を離れることに決めたらしい。

「しょうちゃん、悲しかやろうねェ」夕食のとき、母親が僕に言った。

「なんでTの妹が、いじめられんばと?」

 僕はまず、それが気になった。Tの妹には、いじめられるような理由がまったく見つからなかったのだ。彼女は無邪気で元気のある女の子だし、見知らぬひとに挨拶するほど行儀が良く、野の草花や小さな生き物までも可愛がる、優しい性格をしていたのだ。

「お母さんにもわからんよ。子どもは、なんでそげんことばするとやろうか」

 子どもは――という言い方はやめてほしかった。兄であるTが、妹を可愛がっていることはもちろん、僕も彼の妹が大好きだったのだから、母親が言った些細な言葉でさえも、すべての子どもがTの妹を嫌っているような響きがして、僕はなんだか絶望的な気持ちになった。

 僕は、自分の部屋にこもって、誰とも顔を合わせたくなかった。誰とも話したくなかった。カーテンを閉め切って、電灯を消して、ベットの上で布団にくるまり、朝が到来するのをじっと待っていた。



――「僕ね、一組のゆみちゃんが好き」

 木々の屋根から抜け出し、ふっと明るみに出たとき、Tは言った。木洩れ日は僕たちの後方に広がり、初夏の眩しい日光が、何物にも遮断されず、直接僕たちの身体に降り注がれる。僕は、額と首筋に、じっとりと汗を滲ませていた。

「ゆみちゃん? ゆみちゃんって……園田さんのこと?」

「うん」Tはこくりと頷いた。

 僕たちの学年の一組に、園田裕美という女の子がいる。彼女は異性に好感を持たれる可愛らしい顔だちをしており、性格も活発で、健康的な印象をしていた。僕は、小学校のころ一度だけ、園田裕美と同じクラスになったことがあり、そのとき委員会活動の話し合いで、二言三言だけ、彼女と会話を交わしたことがある。

「Tは、ゆみちゃんと話したことあっと?」

 僕は、自分が話したことがある事実は伏せて、彼に訊いてみた。彼の濃い影は、熱されたアスファルト道路に、鮮明に映し出されている。その影の頭の部分が、横に揺れた。「話したことない。引っ越すまえに、話したいとけど――」

「そっかァ、話せればいいね……」

 僕は複雑な心境だった。

 恋というものがよくわからなかった僕にとって、「好きなひとと話したい」というTの気持ちを完璧に汲むことができないというもどかしい気持ちと、親友の望みをすこしでも僕の手で叶えてあげたいという懸命な気持ちと、一学期修了と同時にTが去って行くという落胆の気持ちが、胸のうちで錯雑して、僕は無責任な相槌を打ってしまったのだ。

 高く懸かった太陽は、清澄な空気を透過して、ふたりのうなじを煌々と焙っている。いま思えば、僕の協力を経て、Tが園田裕美と会話を交わすことは、まったく不可能というわけではなかった。思春期にも到達していない僕にとっては、異性に話しかけることも、大して緊張を誘うものでもなく、軽く挨拶をするような口調で「Tがきみに用があるって」と、何食わぬ顔で言ってあげることも、別段問題ではなかったのだ。

 しかしその気持ちも、僕が繊細な恋心を知らなかったという拙い無知に、いとも簡単に淘汰され、歩くうちに話題は推移し、僕たちは久しぶりに寄り道をして、山の神社に行こうということになってしまった。

 そのとき、僕の気持ちは、非情なものだった。思い遣りのないものだった。今になって気付く、稚拙なエゴイズムだった。Tと離ればなれになってしまうという目の前の事実だけに心情を奪われ、大袈裟なくらい気丈に振る舞うTの横で、ひとり口数を減らし、地面に貼り付く自分の影をじっと見つめながら、僕は俯いていたのだ。僕がのちに恋というものを知ったとき、ひとりではどうしようもできない煩悶と、絶えず胸に去来する得体の知れないもやもやとした感覚が、夜な夜な僕を悩ませ――その度に、早くから恋に悩み苦しんだTに、何の助言もできず、何の協力も与えられなかった自分自身に、気疎さを覚えることもあるのだった。


 その神社は、通学路から逸れた細い畦道を抜けて、雑木林のトンネルを抜けたところにある。稲荷の穀物神を祀る小さな境内には、社務所はなく、神主もおらず、くすんだ朱色の鳥居がひっそりと構えられ、それをくぐって、枯れ葉に覆われた御影石の参道を渡ると、広場の奥に、小さな祠が佇んでいる。境内の空を覆う木々は、綿密に交わり、陽の光を、地上にほとんど通さない。そのため、枯れ葉が散乱した広場は薄暗く、不気味なほど幽玄な雰囲気を漂わせているのだ。

「相変わらず暗いなァ」

「うん。ここに来たの久しぶりやね」

 僕たちは、小学校の頃は、しばしばこの神社に遊びに来ていた。僕たちが通っていた小学校は、現在通っている中学校から、鬱蒼と松林が生い茂る小山を越えて、その向こう側にあり、正規の下校道を外れたこの道を通って帰宅していた僕たちは、度々この神社で、日が暮れるまで遊んでいたのだった。

 僕たちはぱりぱりと乾いた音を奏でながら参道を歩き、奥の祠へと向かった。その横に、荒く削られた巨大な岩々があり、手ごろな岩を見つけて、そこに腰を下ろした。

「この岩、冷たくて気持ちいい」

 Tは、ざらざらとした岩の表面を撫でながら言った。逆光で暗澹とした木々の隙間からは、切り裂くような鳥の甲高い声が洩れ、ときおり吹く軟風が無数の梢を揺らし、ざわざわと深淵な音を轟かせる。

「次の学校、楽しかったらいいね」

 僕はTに言った。大脳で細かく咀嚼された言葉ではなかった。自身がしばらくのあいだTに話しかけていなかったことに気付いた僕は、何の理由もなく、とりあえずと仮初めの言葉を放ったのだった。

「楽しいわけないよ」Tは急に沈んだ声で言った。「何も楽しいことなんてないと思う」 持っていた木の枝で、地面の枯れ葉を払いながら、Tはどこか寂しそうに呟いた。

「そんなことはないよ。東京やったら、何でもあっとばい。遊ぶとこもたくさんあるし、有名人もたくさんおるし、友達もたくさんできるって」

 惰性の言葉というのは、なんて疎ましいのだろう。僕はあとになってそう思った。保育園から一緒に育ってきたTは、僕のかけがえのない友人だったし、名前も知らない遠くの誰かにTを奪われるかもしれないという、嫉妬心にも似た思いが胸のうちに沸き上がってきたのだが、幼かった僕は、自身の弱みを見せないようにと、必死に虚栄のメッキを取り繕い、別れを惜しまない自分に仕立て上げ、そういったような空洞の言葉を口走ってしまったのだ。

「僕も、みんなと一緒がよかった」

 Tの澱んだ声は、梢の轟きに掻き消されそうなほど小さかった。

幼かった僕は、事の実体を、丸々呑み込めていなかったのだろうと思う。転校するとは、いったいどういうことなのだろう。遠くへ行ってしまうとは、いったいどういうことなのだろう。Tとはもう会えないかもしれない。だけど今ここにいるじゃないか。もう会えなくなる友達が、いま目の前に座っているじゃないか。僕はいま、何をするのが正解なのだろうか。転校の事実を転覆することも、僕にはできない。友達を辞することも、僕にはできない。だからと言って、別れを理解することも、当時の僕にはできそうになかった。

 雑木林の隙間を抜けて、ときおり風が吹いた。ひやりと涼しくて、シャツに滲んだ汗を乾かしてくれた。僕たちは立ち上がり、境内の隅にある手水舎に向かって歩いた。石造りの水瓶に、枯れ葉の浮いた水が並々と張っており、柄杓で枯れ葉を掬ってみると、濁った水が同心円状の波紋を広げた。僕たちは、まるで小学生に戻ったように、夢中になって遊んだ。陽の射し込まない境内の中は、不快な発汗を誘わないほど涼やかで、僕たちは楠木に上り、松ぼっくりを投げ合い、日が暮れるまで遊んだ。

 帰り路、田園に挟まれた道路を歩く僕たちを見下ろすかのように、西の空は茜色に滲み、ふたりの影は長く引き伸ばされて、目の前のアスファルト道路に張り付いていた。見つめる先の東の空は、早くも群青に染まっており、暗く沈んだ路傍からは、蛙や鈴虫の鳴き声が、絶え間なく零れていた。Tの家に到着すると、Tは「ちょっと待ってて」と言って、早々と家の奥へと入って行った。一分もしないうちにTが戻って来ると、彼の手には数冊の本が抱えられていた。

「そういえば、しょうちゃんに本借りとったとやった」

 Tは門の外で待つ僕の元へやって来て、僕にその本を手渡した。渡された本は、数ヵ月前にTに貸した三冊の漫画本だった。僕自身もそのことを忘れていた。面白い漫画があるからと言って、僕はTにその本を貸したのだった。両手に乗せられた三冊の漫画本は、見た目に反して、ずっしりと重く感じた。

「東京に持って行くとこやったよ」

 Tはそう言って、にっこりと微笑んだ。茜色の落日が、Tの小さな顔を半分翳らせる。僕は両手に本を抱えたまま、Tの眼を見つめた。薄暗い大気の中、射し込む光の加減で、彼の表情が、優しげにも見えたが、次の瞬間には、どこか寂しげにさえ見えた。

「僕も忘れてた。ありがとう」

 ふと、門の奥にある扉のところに、Tの妹が立っているのが見えた。半身が扉に隠れているので、初めは気付かなかったのだが、玄関の天井に吊るされた白いランプが、彼女の小さな身体に降り注ぎ、仄かにその姿を浮かび上がらせていたのだ。

 僕が妹の姿に視線を奪われているのに気付いたTは「妹も、しょうちゃんと別れるの、寂しいって」と言って、玄関の方を振り返った。Tの妹は、何も言わず、僕をじっと見つめている。僕の眼には、ふたりの姿が、悲しげな陰影を以て映った。夏草の香りと、茜色の落日が、世間にさらわれる小さなふたりを包みこみ、その輪郭をゆらゆらと霞ませた。もう会えなくなるふたり。山で遊ぶときも、川で遊ぶときも、空が笑う日も、空が泣く日も、夏も冬も、昼も夜も、僕たちはいつも一緒で――。

 急に現実が呑み込めたような気がした。ふたりの淡い真影が、遠くの世界へ染み込んで、消えて無くなるような気がした。僕たちは本当に離ればなれになるんだ。ふたりは東京へ行ってしまうんだ。神様はなんて酷いことをするのだろう。僕たちはまだ子どもなんだ。離ればなれなんてなりたくない。悲しみたくなんかない……。

 なんだか急に逃げ出したくなった僕は「……僕、おなか減ったけん、もう帰るね」と空音を吐いて、その場を去ろうとした。湿った涙腺からは、今にも涙が零れそうだった。

「また、遊んでね」

 帰路のアスファルトに足を踏み入れた瞬間、Tの妹の声が聞こえた。振り返ると、玄関から出てきた彼女は、Tの横にぴったりとくっつき、僕の方を悲しげな表情で見つめていた。露骨にも悲しげな表情。悔しくも悲しげな表情。眉をひそめ、小さな口をへの字に曲げ、すこしだけ俯いていた。隣を見遣ると、Tも同じように、下唇を噛んで黙り、どこか幽愁な雰囲気を漂わせていた。ああ、そんな悲しい表情、今はしないでほしい――。

「……うん、また遊ぼう」

 僕はそれだけを言うと、振り返ることなく、Tの家をあとにした。短い帰路だったが、その間に、例えようのない濃厚な感情が胸に湧き上がってきた。なぜ僕たちは別れなければいけないんだ。それなら最初から出会わなければよかった。友達にならなければよかった。楽しく遊ばなければよかった。涙を堪えていたTの残像が胸を掠め、僕は泣くのを我慢した。僕だけ泣くわけにはいかない。唇と鼻翼がぴくぴくと痙攣する。視界がぼんやりと潤ってくる、鼻を強くすすり、下唇をぎゅっと噛みしめ、僕はひとり声を殺していた。


「しょうたもいい経験になったんじゃないか」

 その夜、僕が眠りに就こうと、自分の部屋に歩みを向けたとき、父親の声が後方から聞こえた。父親としては、僕がもう部屋に入ったと思い、そのような言葉を口走ったのだろう。僕は一瞬立ち止まったが、すぐに自分の部屋へこもり、部屋を暗くして布団にくるまった。

薄暗い部屋の中、身体を丸め、ぎゅっと目を閉じて考える。いい経験になった――とはどういうことなのだろう。これから先もこんなことが起きるのだろうか。そんなの僕には耐えられない。まったく耐えられそうにない。きっと喜びというものは、いずれ来たる悲しみの予兆なのだろう。どこかの世界にいる神様が、そう仕向けているのだろう。出会うたびに別れ――そのたびにこんなに苦しい思いをするのなら、僕はひとと仲良くなんかしない。遊んだりなんかしない。楽しい思い出が僕を苦しめるならば、楽しい思い出なんか初めから作らない――。


 Tの家族が東京に発つという日、僕の母親は、別れのあいさつも兼ねて、Tの家に訪れることになった。「しょうちゃんも一緒に行くよ」と言う母親の言葉に、僕は耳を貸さず、自分の部屋に閉じこもり、「行きたくない」の一点張りで、布団から出るようなことは決してしなかった。

「しょうちゃんが行かなかったら、T君かなしむよ」

 母親はドア越しに、そのような言葉を僕に浴びせたが、そのときの僕はいわゆる盲目的な感慨に陥っており、自分を守ることに必死だった。Tに会ったら、悲しくなる。Tと話したら、悲しくなる。きっと別れたくなくなる。それが嫌だった。自分が苦しむことだけを避けたかった。Tの悲しげな眼も、Tの妹の悲しげな眼も、思い出すだけで、僕は十分苦しんだし、もう立ち上がれないほど悲しんだし、今でさえ、暗く沈んだ穴の底から這い上がれるか不安なのに、これからTの声を聞きでもしたら、僕は、僕は――。

「じゃあ、お母さんだけで行くね」

 その言葉を最後に、母親の声は聞こえなくなった。

僕はなおも黙って布団にくるまっていた。しばらく目をつむろうと思っていたのだが、僕はいつの間にか眠りに堕ちていた。

 目を醒ましたあと、布団からすこしだけ顔を覗かせ、壁に掛かった白時計を見た。午後二時三十分。母親がTの家を訪れると言ってから、早くも二時間が経過した。もうTは町を出て行ってしまったのだろうか。薄暗い部屋の中、レースのカーテンがゆらゆらと揺れている。僕は布団から抜け出し、小さな窓に歩み寄ると、しゃっと鋭い音をいななかせ、カーテンを開けた。澄んだ空気を透過して見える、夏の空だけが、僕の眼には映っていた。


 それからというもの、僕は一度もTに会っていない。後日、何気にTの家を訪れると、玄関には「貸家」の張り紙が出されており、ひとの気配は感じられなかった。Tが使っていたシルバーの自転車も、Tの妹が使っていた赤い一輪車も、玄関先には置かれておらず、ひっそりと静まりかえった夏の午後に、蝉の鳴き声だけが、遠い幻のように響き渡っていた。

 

 僕は、町に住むみんなと同じよう、中学校を卒業し、高校生になり、実家を出て生活するようになった。社交性というものは、幸か不幸か、時間とともに培われるもののようであり、僕は高校に入ると、親友と呼べる何人かの友人を作った。その多くが、違う中学校を卒業した生徒たちであり、元々、中学生時代の交友関係が狭かった僕は、同じ中学校を卒業した旧友たちとは、事務的な会話を除く、他愛のない会話などはしないようになっていた。それこそが、時間が僕に与えた成り行きであるし、僕はそのことに微塵も後ろめたさを感じないようになっていた。

 しかし、幼き日に体験したTとの狂おしい別れから、僕は心のどこかでは、ひととの距離を二歩も三歩も退いて測るようになっており、高校で得た何人かの友人とも、常に身体半分しか同化させず、いつでも身を退けるようにしていたのだった。彼らともいずれ別れるのだからと思い、僕は目に見えない予防線を身の周りに張って、舞い込んでくる別れの恐怖に備えていたのだ。

 それが正しいのか間違いなのかは、今の僕にもわからない。学生時代が楽しかったのは、まったく以て嘘ではないし、濃密な思い出も心にたくさん刻まれている。ただ、心の隅には、Tが玄関先で見せた深淵な表情が根深く巣食っており――それが純粋無垢だった中学生時代だったということもあるのだろうが――僕は、呼び方によっては、純粋にひとを愛せない、自己愛主義者になっていたのだった。

 高校を卒業すると、東京の私立大学に入学し、そこでもたくさんの出会いを経験した。気の合う友人と酒を飲み、同じ大学の女の子と恋人同士になり、僕はいつの間にか、Tのことをまったく忘れるようになっていた。持て余す時間がそうさせたのか、似合わない煙草を吸い、騒々しいパチンコ店に入り浸り、酒の刹那に身を沈め、頽廃的な学生像と、僕は同一化していた。かつての曇りない悲喜を、遠く忘却の彼方へと追いやり、僕は来る日も来る日も、空白の世界で、一寸の刺激もないぬるま湯に浸かって、空っぽな享楽を得ていたのだった。

 今日もまた、夜の道を僕は歩く。つい先ほどまで無数のひとが蠢く夜の歓楽街で、友人たちと酒を飲んでいたのだ。時間を忘れるうちに終電を逃がし、僕は仕方なく歩いて帰ることにしたのだ。酒で火照った顔を冷やすかのように、川縁には涼しい風が吹く。東京の空は漆黒の闇に染まり、ところどころ、白いネオンで仄かに明るむ。街の狂騒から離れた夜の河川敷、遠くの方で、車の排気音が聞こえる。

 湿った夏草の匂いが、今の僕には芳しく思える。それは僕だけの追想の鍵であり、重い扉を開けて、長い通路を抜けると、数年間手つかずの淡い情景へと辿り着く。積もり積もった埃を払いのけ、月の光にかざして眺めてみる。

 そして僕は、思い出してしまう。純正な淡色で彩られた幼き日のことを、思い出してしまう。美しくもあり、儚くもあった、幼き日の思い出。心から笑い、心から楽しみ、心から信じ、心から愛し、心から――心から――。心を亡くすと書いて忘れる。ああ、もう亡くしてしまったと思っていた。あの頃の純情なんて、亡くしてしまったと思っていた。目の前の娯楽に手を伸べて、それを手に入れることだけに価値を見出し、真っ当な感傷を失くした僕だけど、今、夜の河川敷を見ながら、ぷんと香る夏草の匂いを嗅ぐと、追憶の限りに、淡彩な思い出を見つけ、はっとして息を呑んでしまう。

 まだ、あの日の残滓があった。何事にも純粋に立ち向かい、それゆえに限りない喪失感を味わった、あの頃の記憶。そんな微かな記憶に浸り、僕の視界は、涙で滲みそうになる。回顧的になっている自分と、今を空漠に生きる自分に、すこしだけ嫌気が刺すのだが、現実逃避の慰安地を見つけたことに、ほっとして脱力してしまうのが、僕の正直な気持ち。

 もう戻ることはできない遠き日だけど、僕には、つい先ほどのことのような、瑞々しい感傷を招く。ふいに風が吹き、夏草がざわざわと唸った。遠くの空に懸かる東京のネオンは、青白く無機質で、僕にはやはり寂しく思える。白い三日月が水面に映り、その輪郭は不安定に溶けゆく。僕は目を閉じて、耳を澄ませながら、夏を抜ける風の音を、静かに聞く。

 心有る生き方をしてみようと、ちょっとだけ思った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 一つ一つの文章が暖かったです。 [気になる点] もうちょっと短くしてもよかったのではないでしょうか…… [一言] 先日は感想ありがとうございました。
[良い点] 特にない。 [気になる点] 見せ場が弱い。 [一言] ありきたり。
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