92 研究室へ
急遽、イヴァン・イアヴェドウズの捜査が始まった。
珍しい名前の通り彼は、異国のものである。履歴書になんの不審なところは見られない。
イヴァン・イアヴェドウズ:薬学部所属、薬学博士。年齢は35歳。
海外を転々としながら、薬剤の研究をしていた。
などと、経歴がずらりと書いてある。
推薦人はセドゥーナの高官のひとりなので、身元もしっかりしていると、学園側は判断して雇ったようだ。
元々自宅は、学園の近くにあったが、グレードの高い貸研究室に入るようになってからは、そこで寝泊まりもしているようだった。
就職直後に、大店のフリン商会の一人娘と恋に落ち、略奪、婚約して、現在はフリン家の巨万の富の上の支援を受けて、好きな研究だけしていればいい身分になった。
彼の経歴の洗い直しに、ただ一人手の空いていたヘルマンが向かった。少々骨が折れるが丁寧に当たれば分かるはずだろう。
丁度若手二人が、街を離れているため、伝達を飛ばして協力してもらえそうだ。
ステファンとフリムカルドは、明日に闇オークションがあるため、その準備に掛かってしまう。
カルラとアーシアは、連休中で在室しているか分からないが、イヴァン・イアヴェドウズの研究室へと向かった。
あの謎の私設秘書のこともあった。カルラは彼女だけは、尾行できないと言っていた。そのことを思い出しているのか、隣を歩くカルラの表情はいつもと違って厳しく見えた。
学園は休み中のため、灯りも少なくしんと静まり返っている。
もうすぐイヴァンの研究室という時、後ろからカンカンと足音が近づき大きくなってきた。
振り返ると、フリムカルドが駆け足で近寄って来た。
「俺も、ご一緒しますよ」
カルラは無言でうなずいて、ドアをノックしようと手を掛けた。
ガシャン、中で音がして、続いて女性の弱々しい声が聞こえ、カルラはアーシアに呆れたように目配せした。
「ああ、まただわ。多分、秘書はいないわね」
フリムカルドが、不思議そうな顔をしていたが、「自分が先に行きましょう」と言って前に出た。
「ううん、いいわ」
そのまま、カルラが強めにノックして、返事を待たずに入った。
「お取込み中、ごめんなさいね。
学園執行部の者よ。見ればわかるでしょうけど……」
言葉の終わりは呟くようになったが、学園でも上等の方の研究室が部屋の中が無残な状態で荒れているので、思わず目を疑ったのだ。
アーシアも、部屋の惨状に少し慌てはしたが、部屋の中を素早く見渡し、錬金釜がないか確認していた。
目立って大きな釜はこの部屋にはない。続き部屋のようなドアはあるから、そちらかもしれないが。
この部屋の主は、いつもの洒落た感じとは打って変わって、無残な姿でぐしゃぐしゃの白衣と乱れた髪の毛で項垂れて、亡霊のように立ち竦んでいる。
その傍らで、サーモンピンクのワンピースに、綺麗にセットされた栗色の髪を少し乱して、縋るように婚約者のクリュメ・フリンが立っていた。
クリュメは、遠慮がちのイヴァンの白衣の袖の裾を、小さく掴んでおり、そこをじっと涙ぐんだ目で見ていた。
今気が付いたかのように、イヴァンが訪問者に死んだ魚のような目を向けた。いつもの彼では決してないような姿だ。
彼らのことを個人的に知らないフリムカルドが、ただならぬ様子に警戒して前に出た。
「やあ、なにか御用ですか?
もう、ここを出ないといけないとでも?荷物が多いんでね、
全部別の部屋に移せるかどうかわからんのですよ」
「何のことをいってるのかしら?」
イヴァンは訝し気に一瞥すると、「お客さんの方か、どうぞ、散らかってますけど」
と言って、応接用の椅子を勧めた。そうは言うが椅子の上は散らかっていて、割れ物の破片でもありそうだ。
イヴァンは、傍にある自分の椅子にバタンと乱暴に腰かけると、だらりと腕を伸ばし、ぼんやりとデスクの隅の方を見ていた。
「そうね、なにから聞いたらいいかしら」カルラが暫く言いよどむ。
「今巷で、美容食品として出回っているものを、開発して作っているのは、貴方よね」
ずっと動かないでそのままの体勢でいたクリュメが、ビクンと急に身体を起こして、顔を上げ戦慄いた。
「そ、それは…」婚約者の声を遮って、イヴァンは背を伸ばした。
「その美容食品なら、ワタシが作りましたよ。それがなにか?」
「それ自体は、内容も調べてあるわ。
問題は…製法よ。錬金術を使っているでしょう」
イヴァンは、軽く目を見開いた。
「別に不思議なことじゃ、ありませんよね。薬剤師が錬金術も使えるなんて珍しいことでもない」
「ええ、でも、こういった製品を作るには相応の届出が必要なのよ。
まあ、どうやってギルドを通したか知らないけど…
それに、あなた自身錬金術師としての登録を、この国と学園側にする義務があるの。
外国人だからって、知らない訳じゃないでしょ」
「…錬金術師の登録なんて…知らなかったな、うっかりしてたました」
「じゃあ、貴方は…錬金術師なのね?」
「………」イヴァンは、顎を突き出して背中をまた丸めて、虚ろな表情で目を逸らした。
クリュメは、手を握りしめて、顔を真っ赤にして、イヴァンの前に立ちはだかった。
「そんなことどうだっていいわ!
あの美容食品は、彼は嫌々やらされていたのよ!
悪いのは、お父さま。ガース・フリンなの!
お父さまったら、援助を急に切ると言って…この研究室からも立ち退けって!」
「なにかあったんですか?」
フリムカルドが、仕方なさそうに聞くと、
「ええ、お父さまったら、昨日急に怒り出して、
夜のうちに学園に、彼への援助を減らすって言いだしたの」
カルラたちは、顔を見合わせた。昨日とは、闇オークションの近くで爆破未遂の事件に関わっているのだろうか。
引いては、ラッチ・リーの逮捕に。
「話は変わりますが、貴方は、錬金術師ならば当然、爆弾も作ることができますよね。
今我々は、特殊な爆弾を作る錬金術師を探しているんです。なにかお心当たりは?」
通常特殊な爆弾は、銘が記されている。しかし鑑定に出しても、徴収した爆弾からは銘が見つからなかったのだった。
二人以上の錬金術師が分業で関わると、銘はなくなる。恐らく、そのことを利用したものだろう。ラッチ・リーことトムは錬金術の学生だった。
クリュメの陰に隠れて、姿の見えないイヴァンは、片目だけをじっとこちらに据えて、沈黙した。
すると突然、指を開いて顔を覆い、髪を振り乱して打ち震え、泣き出した。
ぶるぶると身を揺らし、堰を切ったように肩を震わせ、蹲り、嗚咽を零し始めたのだ。
すかさず、クリュメが気が付いて、心配そうに振り向いて彼の肩に手を当てた。
「うあ、あああ……ああ……」
一瞬、気のせいか──空虚な瞳の底に、氷のように冷たい光がのぞいた。
しかし次の瞬間には、大の大人が信じられないほど、まるで駄々っ子のように泣きじゃくっていた。
婚約者のクリュメ・フリンは、一度キッとフリムカルドを睨んで、イヴァンの肩を抱いて撫でた。
「ところで、秘書さんは、どちら?」
カルラが、呆れたよう、広い部屋を見渡した。
「あの女、当然、援助が切られたらいなくなったわ。
給料が出ないって、わかったらすぐよ!なんて女!」
酷く憤慨した様子で、クリュメが吐き捨てるように言った。
「どなたかの、紹介なんですか?」
「知らないわ。求人を見て来たんじゃない?」
イヴァンの方を見ると、何も聞こえていないかのように、泣き続けていた。
もう、これ以上は喋らないだろうと、カルラ一行は已むを得えずも理解した。
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