86 女心と秋の空
ドア越しだが修羅場を垣間見てしまったアーシアは、ショックを受けた心を癒そうと、寮の自室へと急いだ。寮のエントランスを通らずとも別の勝手口のような近道を通って、自室のドアを開けて飛び込んだ。
「マドカ~~」
マドカを探すも、部屋にはいないかもしれない。
(ああ。こんな時に…)切ない気持ちで、ふらふらと愛猫を探す。
「マドカ~、マドカさん~~?!」
隈なく部屋を探したものの、可愛い頼れる?従魔の姿は見えない。やはり、ヴァスキス神聖国の兄弟ニャンずの元に行ったのだろう。
アーシアは、丸いカーペットの上に両膝をついて、空間扉で『扉から扉へ』を発動しようと座り込んだ。
『空間扉・扉から扉へ』!
アーシアの声もいつも以上に張りがない。しかし、空間扉は、丁度、胸から上の位置に出来ていった。
見慣れた半透明の扉を、控えめにコンコンとノックする。
暫くしても、返事は返ってこないところをみると、神官さんたちは乳児院の仕事で出払っているのかもしれなかった。
それでもと思い、もう一度ノックをすると。
「失礼します。開けますよ」
と言いながら、アーシアは、空間扉を開いた。
すると、ガタンと音がしたかと思うと、風のように扉の外から中へ、何かが雪崩れ込んできた。
そのすぐ後ろから、なにやら呻き声を上げながら、可愛い自分の飛び猫マドカの声が聞こえて来た。
『うわああ!も~~、おまえたち~!』
簡素なグレーの壁に、木製のテーブルとベンチ型の椅子の部屋の真ん中で、マドカが空中で四肢を踏ん張るように浮かんで叫んでいた。
マドカは、直ぐに空間扉に気が付いて、パッと目を丸く輝かせた。
『アーシアーー!ご主人~~!!びえ~~ん!』
ひゅんといって、白い綿帽子のような大き目のマドカが、開いた扉に向かって、飛び込んできた。
そして、ひしっとアーシアの胸に縋り付く。
アーシアも、ぎゅっとマドカの腰の下から抱きしめて、丸い背中を反対の手で何度も撫でおろした。
マドカの尻尾は垂れて大きくゆっくり振られ、丸くなった顔の中心にある髭は嬉しさで前に出ていた。
暫く額を押し当てていたが、今度は丸い顔を上げて、さらに丸い可愛い緑の目で、アーシアを見上げて来た。
「どうしたの?」アーシアが優しく聞くと、マドカは両腕をアーシアの首の後ろに、抱きつくように伸ばして言った。
『いたずらどもが、大変なんだよう!みんなが仕事の時に限って暴れるんだあ』
そうなのね、と背中を撫で続けながら、立ち上がって周囲を見回す。さっきの暴風一過は、きっといたずらニャンずに違いない。
「ほら、子猫ちゃんたち、いるんでしょう?
出ていらっしゃい」
アーシアが言うと、ひょこひょこと、黒っぽい一匹はベッドの陰から、淡い錆び猫はマドカのお気に入りのキャットタワーのベッドの中から、そしてまんまるなグレーの八割れはアーシアの足元のすぐ近くから出てきた。
アーシアは、ため息を大げさについて顔を傾けた。
「あらまあ、困ったわねえ。どこに行ったかしら…
せっかく、おやつ出そうと思ったんだけどね~」
と言うと、三匹がパッと飛び出てきて、アーシアの目の前に揃って座った。
『こんにちは!』『あたちたち、いいこよ』『うんうん』
皆、目を丸くしてちょんと手を前について、アーシアを見上げている。
アーシアは困った顔を崩して笑いそうになりながら、
「いいこなら、じゃあ、おやつの用意をしましょうね」
簡易キッチンの代わりにしている棚付きサイドテーブルに近づいていった。勿論、マドカを撫でながら。
『ぜんぜん、いいこにしてないぞう…』
胸に顔を埋め、小さな声でマドカが言ったので、アーシアは堪え切れずプッと噴き出してしまったのだった。
抱っこしたその身体はずっしりと重いのに、アーシアの心は簡単にすっきりと軽くなっていった。
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「ねえ、お父さま、お願い、イヴァンをいじめないで!」
女の金切り声が、豪華で重厚な部屋に響いた。ふんだんに金を使って作られた部屋だ。
その金色のコントラストに壁紙の濃い暗い赤色が映える。
大きな開き窓の前には、高級そうなマホガニーのようなデスクに皮張りの椅子。
部屋の中央には、また高価そうな応接セットが鎮座している。
高級服に身を包んだ、恰幅のいい髪の薄い男性のそのすぐ前に、ピンク色の華やかなツーピースドレスの栗色の髪の女性が、毛の長いカーペットの上で泣き崩れていた。
「ワタシ…嫌われてしまうわ!どうしたらいいのよ。
お父さまのせいよ!」
毛足の長い濃い紫色のカーペットの毛を毟り握りしめるかのようにすると、件の女性、クリュメ・フリンは、キッと自身の父親の顔を見上げて叫んだ。
「変なサプリメントなんて、作らせるから!彼の才能は、香水のような繊細なものを作るためにあるのよ!
そう!芸術家なの!!彼のインスピレーションをないがしろになんてできないわ!!!」
焦点のやや定まらない瞳に、最後は恍惚とした調子になって、歌うように言った。
そんな己が娘の言葉を、苦い表情を浮かべながらじっと聞いていた父親であるガース・フリンは、小さい子供に言い聞かすように話し始めた。
「かわいいクリュメ、わしはあいつに無理なぞさせてはおらんぞ。
本人がなんて言っているかわからんが…」
娘から自然を装うように、顔を背けると小声ではき捨てるようにぼやく。「本当にわがままな男だ。どれだけ資金を、わしから引き出そうとするのだ」
娘の方のクリュメは、ハンカチを取り出すのに忙しく、父の声を聞いていない。
そしてそのピンクの繊細なレースの付いたハンカチを鼻にあてて、大きく啜った。
まだ座り込んでいる娘の栗色の旋毛を見やりながら、声を響かせるように、ガースは言った。
「そうだ、クリュメや。また、二人で旅行にでも行ったらどうだ?
前回は、ええと…楽しかったのだろう?」
すると、クリュメは父の顔から顔を一度そらして少し考え込んだ。
「ゲアラド岩塩坑よ。
…でも、私はもっとロマンチックな場所が良かったわ。
…でも、彼が、急に行きたいって言ったから…本当に、なんであんな田舎の何にもないところに…」
ハンカチを弄びながら、すっくと立ち上がると父ガースに向かって、にんまりと大きく笑いかけた。
「そうね!また、誘ってみるわ!今度は、もっと甘い…ホノリア城なんてどうかしら?!ふふふ」
そう言うとクリュメは、曖昧に笑っているガースを背後に、足取りも軽やかに部屋の外へと出てった。
残されたガース・フリンは、自分の豪華なデスクの席に着き、引き出しから葉巻の箱を取り出した。
沈黙の中、淡々と葉巻の先を切って、火をつける。先ほどとは、打って変わった冷たい目だ。
暫く指に挟んだ葉巻の先から、立ち昇る煙を見つめて、そして直ぐにその火を金の灰皿にねじ込むように押し当てた。
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