85 見えて来るもの
アーシアのトム・ロックについての疑惑の告白から、数日が経った。
学園は、普段通り変わらず、丁度連休前のレポートの時期と重なって、慌ただしかった。
アーシアの心の中の不安は深く杭打たれたように、そのまま残っていたものの、頼もしいカルラの存在もあって、今のところは大丈夫だった。
特に棒術のレッスンは、思いのほか、心の平安に役に立っていた。また、マドカの存在が常にあるのも大きい。自由な気質のマドカはよくいないこともあるのだが、それでも従魔契約の影響でもあるのか恒にお互いの意識が近くに感じられるのだった。
無心になって、棒を振ることのほかに幾つかの受け中心の型を習って、それも訓練の項目に加わった。
そのためか、カルラのあの舞のような見事な動きは、この型の訓練を忠実に日々行った成果なのだろう、とアーシアは気が付くに至った。
姿勢を崩さぬようにしっかり前方に視線を定め、棒を動かす。何度も続けていると、周囲にシュン、シュンと、風を切る良い音が響くようになった。
トム・ロックとダフネ・トラシオン女史の調査のことは、まだ、カルラにどうなっているのか聞いてはいなかった。
「アーシア、今日のレッスンはここまでよ」
「もうですか?」
胴着のカルラも自身の練習を終えて、アーシアに声を掛けた。今日は、久しぶりに午前だけの講義だったので時間に余裕があった。
カルラは、思わせぶりな笑みを浮かべながら、長いベンチへとアーシアを誘った。
「だって…調査の結果、聞きたいでしょ?」
アーシアは、座って曲げた膝に、両の手を握ってぐっと押し当て、身を乗り出した。
「な、なにか、分かったんですか?」
「女の方は、全然なんだけどね…どうやってるのかしら、気味が悪い……」
「カルラ先生?」
「あ…ええ、
トム・ロックのほうはね…かなり、確信的なことを掴めてるわ。
あの子ね、そもそもこの学園に入り込んだのにはね、どうやらスパイをするためみたいよ」
アーシアは、思いがけないカルラの言葉に、酷い衝撃を受けた。学園に入った時からって…彼はセドゥーナ学園に在籍して長いと周囲から聞いている。ーーまだ、もっと子供の時ではないか。
「多分だけど、アレッサンドロ・ヴィスコンティをスパイしようとこの学園に乗り込んだのね。
いわゆる、産業スパイ、ね。
初めはもっと幼かったでしょうから、組織的なものでしょう。でも、その組織の方とは現在、連絡をあまり取り合っていないのよね」
「あ、あの…母体組織と連絡を取っていないということは…
今までの彼の行動は、その組織とは別の…」
「そう、その通りよ。
アーシア、ちょっと待って。ー瑞樹、来て!」
そうカルラが言うとどこからともなく、カルラの従魔である大きな美しい鳥が現れた。
「この子の魔法で、ちょっと見せてあげられるわ」
そう言うと、従魔になにか指示すると、従魔は細かく震えたかと思ったら、はっきりとした人間の言葉を話し出した。
と言っても、口が開けっ放しなので、魔法の類なのだろう。
『ーーちくしょうっ!アイツのせいで!
ーーー
本当なら、来年までにセドゥーナの最新の軍事機密を盗むつもりだったのに!
いいように使いやがって!!---』
声色は悪いが、確かにトム・ロックの声だった。なるほど、本当にスパイでこの学園に来て、今は脅迫されて犯行に加担させられている訳か。
「なんで、そんなことになったのかは分からないんだけど、大方スパイだって気が付かれて、脅かされたのね。
あの子、やっぱりまだ子供なのね。しょっちゅう誰もいないところでは、独り言でぼやいているのよ。
そうそう、そういえば、闇オークションでも、聞かれてもいないのに自分はノシュラアト卿の使いだって、わざわざ言っているそうよ。
余程、やらされていることが不本意なのね」
「え、ええ?!そうなんですか?」
確かに、トムに関してはつめが甘い感じがあった。年齢も幼く性格的に激高しやすいこともあって、簡単にアーシアに己の不審を気付かせるほどに。
しかし、自身が偽名を使うのは闇オークションでは一応の身元確認が必要で、当然捏造しているのだろうが、態々自分の主人の名前をあえて出すだろうか?
(年端もいかぬ子どもが、こんな風に使われているなんて…)
アーシアの年齢は、実際に彼より上ではある。この学園の平均は、15、16歳で入学して4年で卒業なので最高学年でも19歳で、そのままの計算ならトム・ロックは17か18歳だろう。
おまけに、19年にも及ぶ亜空間作業場での引きこもり生活の年月は、アーシアにとって自分の年齢を、どう受け取っていいか分からない不可思議なものと感じさせる要因になっていた。
だからアーシアは、無意識に唇を軽く噛んだ。こんなに幼い人間をスパイとして送り込んだ組織の恐ろしさと、そんな子どもをいいように使う黒幕の存在を。
「もともと所属していた組織なら、見当はすぐつくわ。軍事大国であるアーテー帝国でしょうね。
あそこは、弱い普通の人間や子どもを、スパイにして沢山送り込むの。そこから何か情報を、少しでも抜き出せたらいいって考えている。
だから、アーシア、そんな顔しなくても大丈夫よ。
本来は、こちらセドゥーナ学園の技術を身に着けさせて、アーテーに持ち込むのが目的なんでしょう」
そうであっても、なんとも苦い感情が、アーシアの心の内に残った。
大きな情報を得ようと、自分の意志で動いて焦った結果が、もっとあくどい悪者に使われる結果となってしまったことに。
アーシアの様子を心配そうに見つめていたカルラが、自分の従魔を見上げて、急に目を輝かせた。
「ちょっと、面白いことが始まったみたい!行ってみましょ!」
そう言うと、カルラはええ?と驚いているアーシアの手を引いて、足取りも軽く、いつもとは違うルートで魔法学部の建物へと連れだした。
(ええええ?!こ、ここは、エリート専用通路なんじゃないんですかーーーカルラせんせー?!)
アーシアは、プチパニックになりながらついて行くと、そこは薬学部の研究棟だった。
見事に人目につかないルートで、かなり早くに着いたのだった。
(ここは…ナオミ先生たちとは違うほうの研究棟…?)
アーシアが訝しんでいると、急にピタッとカルラが一つのドアの前で止まった。そして、アーシアが声を発する間もなく、人差し指を立てて口にあて、軽くウィンクした。
この廊下は暗く人っ子一人いない。静かな空間だが立てた音は鋭く反響して響くような場所だ。
案の定、ドアの中でがさがさと音を激しく立てている。何やら争っているような印象だ。
「いやだって言ってるんだっ!!
…… ……
いくら援助して貰っていたって!…いや、確かにうれしいよ。
…でもね、僕だって、作りたくないものを延々と作らされるなんて、耐えられないよ!」
「……、でね、……、わかって…わ……」
ガシャンと何か壊れる音がすると、相手を鋭く遮るように慟哭が響いた。
「耐えられ…ないんだ!!!
…しかも、世間を騙すようなものなんだよ!」
最後の言葉は弱々しく響いた。よく通る男の声に対して、もう一人の女はよく聞き取れない言葉で、途切れ途切れ宥めている。
男の声は、普段と違って感情的に聞こえるが、薬学科の イヴァン・イアヴェドウズ のものだ。
泣いて、絞り出すような声色だった。
ということは、相手の女性は、婚約者のクリュメか、ダフネ女史ということになる。そう思って、カルラの顔を見ると、小さく首を振って小声で囁いた。
「残念ながら、あの女じゃないわ。…あの女、本当に逃げ足が速い……
婚約者のクリュメ・フリンのほうよ」
アーシアは頷いた。部屋の中では、男が激しくすすり泣く声が聞こえ、それを優しく宥め続けている女に声が小さく聞こえている。
カルラはアーシアに合図すると、二人でもと来た道を素早く戻って、いつもの裏庭へと向かった。
ドアの向こうの情景は、実際には見えてはいないが、充分の修羅場のようで、アーシアには刺激が強く、呆然となって歩いていった。
今日寮に帰ったら、ぎゅっとマドカを抱きしめさせて貰おう、アーシアはそのことだけを考えていた。
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