7 わたしの名前は
その日の夕方、ここの家主であるオーツ夫人が日奈子のいる部屋にきた。
「ほうっておいてしまって、ごめんなさいね。身体はどう?」
「はい、おかげさまで。大分痛みが引いてきました」
オーツ夫人は、治療院を営んでいるのかと思ったらそれだけでないらしい。この小さな村で色々な頼まれごとをして、それを仕事にしているらしい。治療院よりも薬屋に近いそうだ。
日奈子を見つけてくれたのは、近所のおばあさんで、村の人に頼んでオーツ家に運んでもらったらしい。
オーツ夫人とは、あまり顔を合わせていないが、ニーちゃんが甲斐甲斐しく世話をしてくれていた。消化の良い病人用の食事を運んでくれたり、当初ここで着ていた地球の服も靴も全て洗って小型箪笥にしまってくれていた。ニーちゃんも小さいながらほかに仕事があるらしく、忙しそうだ。黄緑というか合鼠色の綿毛のような髪をフワフワさせ、いつもくるくる動いている。
麻のような木綿のような肌触りの生成りの寝巻も着るのを手伝ってくれ、体を拭くためのたらいと手ぬぐいも用意してくれた。動けなかったとはいえ、子供のニーちゃんにやってもらうのは少し恥ずかしかった。
「こんなに何日もたって、あれなんだけど、お名前を聞いていいかしら?どこから来たのかも教えてくれる?時間がかかるかもしれないけど…家族に連絡を取ってあげるわ」
日奈子は急にいつものコミュ症が顔を出した。
「ええと、あ、蘆屋、です」
「エイーシア・デェイス?」
「蘆屋!です!」
「アーシア・デイスさんね。どうぞ、よろしく。私はこの村の何でも屋をやってるカタリナ・オーツっていうの。子供たちはもう知ってると思うけど、ニーとサムよ」
(何度か訂正したが、アーシアになってしまう)日奈子自身も、テンパって苗字しかいってないのだが。
「ねぇ、アーシアさん、どこから来たの?あの森のお奥は『聖なる森』につづいていて……普通なら、なかなかたどりつけない場所なの」
『聖なる森』…日奈子が勝手に先輩扱いしていた青鈍色の鹿は、確かに神々《こうごう》しかった気がする。ほかの場所で遠くから見た小動物よりも、頭もずっと良さそうだった。
(奈良の鹿も、神様の使いって言うものね。パイセン呼びしてしまった~~)
「わ、わたし、何もわからなくて、入っちゃいけないところだったんですか?ほんとに、ほんとに、わからない。ここがどこすらもわからないんです!!」
「記憶がないっていうこと…名前はわかっているみたいだけど…」
正確には異世界から来たのだが、優しそうなオーツさんに言うのははばかられた。
オーツさんによれば、この世界は『アルディア』と言うらしい。
「ここはビッコロ村といって、エゲリア森公国の奥にあるさ。エゲリアは『聖なる森』を有する国で林業が盛んなの。ここは田舎だけど、とってもいいところだよ」
オーツさんは日奈子に、確かめるようにこの世界の説明をした。
「アルディアには、エゲリア森公国の隣はセドゥーナ国、大きな湾と大陸一の学園のある栄えた国よ。東はアーテー帝国。ほかには、ヴァスキス神聖国、ホノリア王国、ジュェワ国なんかがあるわ。なにか思い出せないかい?」
日奈子は、首を振るばかりだった。崖の事故から地球に帰れる兆しもない。不安でいっぱいだった。
(……白くなった髪、持ってきた鏡で見た自分の顔は見慣れているはずなのに違って見えた。
…それに、あの魔法
…わたし、普通の地球人じゃないみたい。地球人は魔法なんか使えない。まるで別人になったみたいだ)
親との関係に悩まされ、大学の学費を稼ぐ日々、いつも逃げ出したいとギリギリだった。
ああ、寧ろやっと解放されたのだ、と。
そして、この世界『アルディア』に降り立った運命と、自分を拾ってくれたオーツ一家の暖かい素朴な優しさに深い感謝の念を、自然と抱くのだった。
(アーシア、アーシアン、❝地球人❞、
アジア、うん、いいじゃない!わたしのルーツじゃないか。似合いじゃないか!)
地球人で、アジア人というアイデンティティを持つ自分にぴったりである。
こうして、蘆屋日奈子は、
『アーシア・デイス』として生きることを静かに決めたのだった。