60 ソレッレ≪姉妹の≫美髪店
ひと月を過ぎる頃、各授業の進行の速度も上がって来た。授業のメインはマリック先生が多く、分かりやすくて無理を言わない先生なので、4年生皆が内心喜んでいる。
恐らく、最終学年だからだろう。他学年は、助手などの講師が行うものも多いそうで、何を言っているか分からないような、所謂ハズレがあるのだそうだ。
オットー先生の腐敗と発酵は特に、興味深く、菌におけるアプローチなどがよく分かるようになった。
(亜空間での発酵の役に立つ?……)
亜空間作業場は、ただの空間収納とは明確に違い、作業場というだけあって、物質の変化がないという訳ではないのだ。だが実際のところ、詳しくまではよくわからないのが現状だった。もっとレベルが上がれば、何らかの変化もあるのかもしれない。
アーシアは、ノートにペンを滑らせながら真剣に聞くのだった。
学部長のヘレン先生には、まるですでに一人前の錬金術師であるかのように言われたが、授業内容はアーシアの知らないことも多く、理解を深めるのに十分な有益さを持つことを感じていた。
まだまだ、勉強しなくては、と思うアーシアだ。
午後は、念願のニーちゃんに会いに行くことになっている。マドカは、兄弟たちの顔を見に行っている。
廊下を歩いていると、アレッサンドロ先生の助手のクレッグさんが、ぶつかる様な急ぎ足で追い抜いて行った。
クレッグ・ホーソンは、昨年、アレッサンドロ先生の助手になったばかりの若い人物であるが、常に眉間に皺を寄せ険しい顔をしていることが多く、歳より老けて見えてしまっている。
なんでも、他に助手に引き取ってもらえず、受け入れたのはアレッサンドロ先生だったため、不満そうに見えるのだとか。
確かに、アレッサンドロ先生は、助手を私用で使うこともあり、仕方ないともいえる。
「マムーリアン!…ハンス・マームリアン!」
大きな声で前方の男性を呼び止める。
(マムーリアン?!あの有名な発明品の………)
背の高めの栗色の髪をした白衣の男性が振り返った。
穏やかな顔立ちに、珍しくイラついた表情を浮かべている。とはいえ、呼びかけに答え立ち止まった。
丁度その場所が、アーシアが歩いてきた目の前で、クレッグが急に止まったためぶつかりそうになり、ばったり顔を見合わすこととなってしまった。
マムーリアンと呼ばれた人は、自分も知っているアレッサンドロ先生のもう一人の助手のハンスさんだった。
気まずくなっていると、
「やあ、アーシア、こんにちは…」
と、気を取り直したようにハンスさんが言った。
「こんにちは。下の名前、マムーリアンさんって、おっしゃるんですね」
聞かないのもなんだか気まずいのでアーシアはそのことにさり気なく触れた。
「ああ…」声が小さくなる。
「凄い発明家のお宅ですね!尊敬しています」
アーシアは、態と元気よく言った。
言った言葉は本当だった。あの再生可能汲み取り袋は、本当に、本当に素晴らしい発明品だ。
現代の感覚をもっているせいか、社会に強く貢献をした評価すべき発明であると、アーシアは常々考えていた。
それにマムーリアン家は、他にもいろいろな発明品を生み出している一家だ。
「ああ、…僕は…何もしてないけどね…うん、ありがとう」
ハンスさんは、緊張の取れた顔でほっとしたように破顔した。
クレッグは、ふんというようにすました顔を浮かべている。
(やな人…きっと、態とだわ。大きな声を上げて。嫌がらせじゃない……)
そんな二人を後に、アーシアは、玄関口へ急いだ。
ソレッレ≪姉妹の≫美髪店
ソレッレ≪姉妹の≫美髪店は、ポルタベリッシモの中心街の真っ只中にある、おしゃれで有名な美容室で、都会であるのに窓からポルタベリッシモの海が見える、素敵なお店だそうだ。
人気があって、いつも混んでいるのだが、サムくんが約束を取り付けて、丁度今日となった。
アーシアは、お店にお邪魔するなんて、ご迷惑じゃないのかな、と心配する気持ちもあったが、可愛いニーちゃんに会えることがとても嬉しくて、気持ちが弾んでしまうのが抑えきれなかった。
お店は、商業ギルドよりももっと先で、大通りのを横切る太い道を南に進んだところにある。
大きなオリーブの鉢を置いているお店の横を少し入ると、ブーゲンビリアのような鮮やかなピンク色の花が通りの上にアーチを作り、そこを潜ると、落ち着いた雰囲気の通りがある。
そこに入ってすぐだった。建物の間から下に海が見えて、なかなかおしゃれな場所だ。
ソレッレ≪姉妹の≫美髪店の、洒落た看板が見えた。ガラス張りだが中は明るめのスモークガラスで上手いこと、はっきり見えないようになっている。
梁やドアの飾りもおしゃれだ。
カランカラン……
ドアの上についている小さなベルが、柔らかい音を立てた。手前に待合の茶色いソファと籐のパーテーションがあり、そこを過ぎると、観葉植物の鉢、右手側に鏡とセット椅子が並んでいる。
お客さんも奥の席から埋まって、施術してもらっていた。
「あ、の、ごめんください…」
「いらっしゃいませ。ああ?!」
パーテーションの横から、クリーム色に小花模様のエプロンに、ふんわりときれいにウェーブのあるボブカットの若草のような色の髪と陽気そうなグリーンがかった目をした、キレイな女の人がでてきた。
そして、その女性がアーシアを見るなり、花が咲くように、ぱあっと笑った。
「アーシア、アーシアお姉ちゃんでしょ?!」
飛んできて、アーシアに抱きついた。その背中はアーシアより少し低いがしっかりとした大人の女性だ。
「ニーちゃん、ひ…ひさしぶりね……」
「うん、元気だった?さあ、こっちのどうぞ」
そういうニーちゃんもアーシア同様、涙声になっている。待合にも誰もいないのが幸いだ。
「ニーちゃん、本当に可愛く…綺麗になって!」
アーシアは言葉を詰まらせながら、ニーちゃんの後ろを歩いた。
ニーちゃんは、しばらく歩いてピタリと止まると、一つの鏡の前の椅子を勧めた。
「どうぞ、座って!」
そう言って、アーシアの背中を軽く押した。
アーシアは、茶色い革張りの背の高めの椅子に座ると、ニーちゃんを鏡越しに見つめた。
鏡の枠にもアンティーク調の飾りがついている。
「ふふ、ずっとね、アーシアお姉ちゃんに…あ、もう、わたしの方が年上かもね」
「ううん、そのまま呼んでくれたら、うれしい」
「うん、ありがとう。
それでね、このお仕事をしてからずっと、アーシアに会ったら、髪の毛を手入れしてあげたいって、キレイにセットしたいってね、…思っていたの。
うれしいわ、夢が叶った。いいかな、お姉ちゃん?」
「う、うん、もちろん。わ、わたしなんかでいいの?」
「もちろんだよ!好きにやっちゃうから、楽しみにしていてね!」
そう言って、ニーちゃんは、アーシアの肩にタオルを掛け、一つ結びの髪を解くと、毛先から丁寧にブラッシングし始めた。
そして、長いケープを掛けると、しばらく鏡越しにアーシアを見つめ、髪をブロッキングして、片手に鋏と櫛をもって襟足の毛を梳き始めた。
「ずいぶん伸びたね~
でも、アーシアお姉ちゃんは、長いの似合うから、痛んでるところと、後ろは揃える感じでカットして、全体がまとまりやすくしていこうかな?」
そう言って、軽くリズミカルな音を立てながら髪を切っていった。
鋏の音の心地よさにうとうとしてしまい、折角のニーちゃんとの再会が台無しと思った頃、
「こんな感じでどう?あとは髪の毛のトリートメントしようね」
解くとぼさっと膨れてしまう髪の毛が、いいボリュームでまとまっている。長さは丁度アーシアの胸の辺りで、自然に内側にカールしてゆるいウェーブを描いている。
「すごい、こんなにまとまったの初めて…」
ふふん、と言って、ニーちゃんは慣れた仕草で、アーシアを髪の毛を洗うブースに連れて行く。
また、気持ちの良いリラックスタイムだった。ニーちゃんは、本当に腕が良いのだろう。
いつの間にか、どうぞと声がして体を起こされていた。ぼんやりした面持ちで、先ほどの席に案内される。
席に着くと、ニーちゃんが得意の温風を手から出して、乾かしてくれた。優しい手触りで心地いい。
次に大きなブラシを出してブローされていると、後ろの席で聞き覚えのある声がした。
先ほど隣の場所で、洗髪してもらっていた人の連れのようだ。続いて洗髪を終えて来た女性も、至極眠そうだった。
喋りかけている女性の話も半分と言った態だ。
お相手の女性が鏡に映る。
ソレッレ美髪店は、ゆとりのある作りで待合とは別に施術スペースの後ろにも、おしゃれなサイドテーブルと大きなソファが置いてある。
件の女性はアーシアの後ろのソファに、斜めに足を組んで座っていた。
「あら!アーシアじゃないの?!奇遇ね」
鏡越しに声を掛けられた。澄んだよく通る、魅惑的な声だ。
「あ、カルラさん、こ、こんにちは。すごい偶然ですね」
「本当ね。今日はね、友人の付き添いできたの。
仕事にかまけて全然!なんだもの」
耳が痛い限りだ。
お相手の友人さんは頭に大きなタオルを巻いて、半分魂が抜けたみたいに、アーシアの隣の席に案内されていた人だった。
ニーちゃんに、会えました!
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