5 戻れなくなったわたし
またいつもの朝だろうか、意識が覚醒していく。身体がひどく痛い。
彼女は寝返りをしようにも布団に張り付いたように全身が動かなかった。
(痛いな。というか、全然動かない……。
かなり高いところから落ちたのかな)
「ヴェラ、クゥオントウ?
≪……|||おじょうさん、大丈夫……?≫」
(!!!!!!!)
突然、聞いたことが無い異国の言葉が日奈子の耳に入った。
飛び跳ねそうになるほど驚いたが、身体は一寸たりとも動かなかった。
(……ここは?!……まだ、戻ってないの?)
「ヴェラ、クゥオントウ?
≪……|| おじょ・うさん、……大丈夫ですか?≫」
(こ、言葉が……重なって聞こえる……)
耳慣れない発音の、穏やかな女性の声。まだ、元の世界に戻ってはいないようだ。
こんなに長い時間異世界に滞在してているのは、初めてのことだった。
自身、首を僅かに動かすことすら出来なかったので、目だけを見開いてそこに見えるものだけが彼女のたった一つの情報源だった。
見慣れない古めかしい天井に石壁、目の端に見える窓は曇った分厚いガラスで、ぼんやりと木々の緑が見えた。
「……≪|| からだ、い・た・いんじゃない?≫」
「……≪|| おばあさんが、こ……こ・につれてきたの≫
≪も・もりの入口で……見つけて≫
≪|| ごはん……たべ・ら・れる?≫」
日奈子は、混乱でパニックになっていたが、石のように動けなくなった身体では、泣きそうになりながら震えるしか出来なかった。
しかし暫くすると、動揺と不安は残っていたものの、女性の宥めるような落ち着いた声のお陰で、山賊と遭遇したという恐怖が去ったことは分かり、彼女は少し胸を撫で下ろした。
(助けて貰ったお礼を、言わなきゃ……)
必死で顔を声のほうに傾けると、中年のややふっくらした女性が困ったようにこちらを伺っていた。
やはり元の世界でないことは正しいようで、ボンネットから覗く女性の髪は、こっくりしたバーガンディか赤葡萄のような色合いで、染めたようにも見えなかった。
見える限りで、服装は落ち着いていて、大きなエプロンと緑っぽいベージュの襟が覗いていた。
「あ、ありがとうございます。たすけていただいて……」
日奈子は、掠れてよく出ない声で、なんとか婦人に声を掛けた。
婦人は日奈子の言葉に僅かに目を見開いて、不思議そうな顔を見せたが、微笑ほほんで小さく手をあげ小さく振った。
その柔らかい笑顔は、ふと大学でよく声を掛けてくれた女性のことを思い出させた。
(はっ! あ、サバイバルバッグ!
……どこにあるの!? どうしよう!)
相手に失礼だと思うより早く、
「リュッ……かばん!、かばんを見ませんでしたか?
わたしの、なんですが」
「うーん、あなた、
なにも持ってなかったと思うわ。ごめんね」
(なんてこと。わたしの持てる総てのもの……全財産だったのに)
「そう、……ですか」
婦人が部屋を出ていく音がする。
日奈子は会話の最後では、しっかり意味が分かるようになっていた。
しかし、心の奥はそれに気づくことはおろか、不思議にも感じることが出来なかった。
――ショックが大きすぎたのだ。
あのサバイバルバッグは、ただの荷物ではない。日奈子にとって“生き延びるための最後の一線”であり、この不可思議な超常現象の中で不安な心を繋ぎとめてくれる拠り所でもあった。
それが失われたという事実を、まだ受け止めきれない。
古いグレーの天井が涙でみるみる霞んだ。




