4 異変
何度か行き来しているうちに、意識がはっきりしている時は、あちらに飛ばないと分かった。
寝ている時は必ずあの鹿先輩がいる場所なので安心安全だった。
やはり、意識を失う場所によって異世界の場所も決まっているという仮説は正しそうだった。
そして、異世界に飛ぶタイミングだ。
恐らくそれは、日奈子の心が原因だ。初めは疲労のせいだと思っていた。
だが、家庭教師や他のバイト中は、全くあちらに行ったことがないのだ。
では、いつ。そして、原因は。
飛ぶ瞬間は、自分の存在が限りなく薄く溶けていくような感覚を覚えた。
少しずつ異世界に滞在する時間が伸びている。サバイバルバッグが、その都度、きちんと役に立った。
場所の見当が付くと、その異世界の不思議の森をうろうろし、散策を始めた。
安全なところから慎重に行動の範囲を広げた。時折見える人影を避けるように。こんなに時間を掛けて行動するのも日奈子の慎重すぎるほど控えめな性格のためなのだろう。
歩くうちに岩のように重い荷物が、不思議と少しずつ、ふっと軽く感じる瞬間があった。リュックが背中に当たる圧迫する感触も減っている。
不思議には思ったが、初めは慣れて来たのだろうと勝手に思っていた。
しかし、現実の世界では相も変わらず酷く重い。徐々にあちらの世界とこちらで重さの感じ方が違うことに気づき始めた。
それでもバッグは、ふらつく程には重かった。
家庭教師のバイト中は特に気が張ってはいるものの楽しい気分でいる。異世界に飛ばされることはないという安心感もあった。
安心して荷物を下ろし、生徒に教えることが出来た。生徒は、少し不思議そうな顔をしたが、直ぐに授業に集中した。
ほかのバイトの時は何故向こうに飛ばないのかは分からないが、就寝時以外で学校や家で飛ばされるときは決まって、意識がぼんやりとやる気が起きないだるい時だった。
授業中は、心が重く鉛のようで、居場所が無く感じた。
ほかの学生や熱心に教鞭をとる先生に申し訳なさで恥じ入りそうな気持ち。
そう、ここではない。ここは、蘆屋日奈子が居ていい場所ではない。
異世界に飛ぶ度に、強く強く、重く重く気づかされる感覚。
飛ぶ瞬間は、感じるのは……
異世界よりも相応しくない、今いる場所に対する、言いようのない居た堪れなさを感じる瞬間だった。
そして遂に、ある日の家庭教師の日、理科が特に苦手という生徒用に雑学的な科学本と実験見本とを、大量に持って帰宅していた最中にそれは起こった。
気づけば、見知らぬどこか森の中を歩いていたのだ。
まだ一度も来たことのない場所だった。あのいつもの森の傍ではあるのだろう。
ほんの少しの気の緩みで、あっという間にこちらの世界に飛ばされた。
――事故というには、あまりにも自然に。それど同時に、不思議な確信めいた感覚を覚えていた。
後方の木々の向こうで、何かが動く音がした。獣というには大きな音だった。
ずずず、と何かを引きずるような音と誰かががなるような声。
(ひ……ひと? どうしよう……声は、どこから?
隠れておかなきゃ!)
「ュウヴ!≪おい!≫」
低く唸うなるような男の声だ。
そのざわつきから二、三人はいそうだった。
日奈子はハッとして振り返った。
(どうしよう、思ったより近くにいたみたい……)
ガラの悪そうな男たちだった。木々の間の獣道のような場所に、日奈子の影を見つけたのか、足早に付いて来たようだった。
二人はよれよれの汚れた麻のシャツに皮の胸当て、もう一人は毛皮のチョッキのようなものを羽織っている。
髪がくすんだ橙色が二人と一人だけ緑の男。この緑の方の男は時々見かけたことがあるかもしれない。
身体も大きく、捲り上げた腕は太く古傷が見えていた。手には粗末なこん棒のようなものを持っている。
しかし、分かったここが一つあった。その顔立ちや体型は、決して日本人や東アジア人ではないということだ。
(どう見ても、山賊にしか見えない……怖い。どうしよう)
男の方からは、サバイバルバックの影で、日奈子の顔は見えていないだろう。しかし、彼らの目は獰猛だった。
男たちの真ん中の橙色の髪の、えばった態度を取っている男が、日奈子の背中を粘着質な目で見つめた。
ほかの男たちもにやにやして背中の大きな荷物を指差した。
「ヂェイーヤ、リツゥグアンネ!≪にも||つ、||せよ!≫グァラア」
(どうしよう、やっぱり物取りだ!)
なぜか言っている意味が分かった。
ノイズのようだが、調度同時通訳したように、部分部分重なって聞こえるのだ。
日奈子は身体を捩じるように駆け出した。
この世界にはなさそうな履きやすい靴も履いてる。必死で、それこそ死に物狂いで逃げた。
(冗談じゃない。このバッグだけでも死守したい!
だってわたしの――ほぼ全財産だ)
重たいものを背負って、重心がおかしいせいか、日奈子の逃げる足取りは妙に早かった。
(ハ、ハアハア……このバッグだけは取られちゃだめ!!
――見えなくなれ、見えなくなれ、見えなくなれぇ!)
背中のサバイバルバックはその日奈子の心の声に呼応するように存在を薄くする。
しかし当の日奈子は極限状態のためか、真摯な願望を心の中で必死に叫び逃げ続けた。
――すると運が悪かったのか良かったのか、崖が崩れ落ちたのだった。
(ああ、わたし終わった?
でも……荷物取られなくてよかった)
また目が覚めたら、いつもの生活に戻っているかもしれない。
徐々に薄れゆく意識の中、日奈子はぼんやりと思っていた。
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