2 パジャマで異世界
夢の中に、今までの人生で訪れた経験が全くないのに、はっきりと存在している場所がある。
あの講義の最中に体験した、不可思議な現象が徐々に増えていった。
まるで、突然全く知らない森に瞬間移動でもしているのか。日奈子がもっと想像力に富んでいたなら、そこは異世界だと思ったかもしれない。
しかし日奈子は、つまらない現実主義者の方だ。だから初めは疲労か病気の方を疑っていた。
昼はナルコレプシーのように気絶しているのか、白昼夢を見ているようだった。だが夜になると、その世界の感覚はより生々しくなっていった。
普段の眠りが不十分であるせいか、毎日は泥の中にいるように重く、意識は頻繁に朦朧とし疲労だけが蓄積されていくようだった。
唯一、大学に入って直ぐから続けている家庭教師の授業の間だけは、しっかりと意識を保たせることが出来た。
生徒は生意気なところもあるが、教える内容に彼らの興味を引けたなら、途端に目を輝かせて熱心に聞いてくれた。
元々日奈子は何かを手作りしたり、資料を集めたりするのは好きだった。特に化学の授業をする時は熱が入りすぎてその資料が倍以上になる時もあった。
すると生徒は、「先生は変わっているなぁ」と言うのだった。
どういう意味かは分からなかったが、きっと他の家庭教師のように試験勉強中心でないからだろうか。
しかし、その言葉には少し胸が熱くなったものだった。
(……教職を取るのもいいかもしれない……)
心の中で、そんな風にも思っていたのだった。しかし、その後の過度の忙しさは、日奈子の心を濁らせた。
毎日は必要を満たすための労働と、義務であるところの学校の授業と、時間は砂のようにただ過ぎていった。
決定的に可怪しいと気づいたのは、何度目かの夜のことだった。
現実的であるからこそ、この目の前の現象を認めなくてはならなかった。
その晩も何も変わらないいつもの平凡な日であった。バイトから帰宅し、粗末な夕食を食べ、布団に入った。
しかし気が付くと、先程着たばかりのくたびれた厚めのパジャマのままで、夢の中であるはずの”あの森”に、またぼんやりと立っていたのだ。
驚いて、剥き出しの足を何度か踏み、足先で地面を擦ると、ヒヤッとした黒い土と、ごつごつした石に痛みを感じてはっとなった。
当然だ。素足だったのだから。でも夢ならば――痛くないはずだった。
なんて頼りない格好なのだろう、歩こうにも素足では痛い。
毛羽立った木の根と鋭い小石。
辺りを見渡すと、鬱蒼とした樹海の只中であり、じっとしているのも不安だったので、そろりそろりと足に体重をかけぬように足をそっと踏み出した。
≪カサカサッ≫
何か生き物がいるのだろうか。奥の木の下の茂みから音がして一瞬揺れたように感じた。
日奈子は怯え、音がした茂みの方角から必死に遠ざかった。
はあはあと呼吸は短く吐き出され、爪先は痛み、視界は涙に覆われ熱く滲んでいる。
しばらく走り、やや見通しのできる細い川に出た。途端に酷い渇きを覚えた。
――喉が乾いた。
(ああ、早く帰りたい。早く夢から醒めて!)
森の中を進み続けると、日奈子の右耳に微かなせせらぎの音が届いて来た。
気が付けば空気が木々の少しつんとした匂いに混じって水の匂いを含んでいた。
(水、は、こっち……? 飲める水だといいな……)
足裏に感じる小さな砂利と木切れは、遠慮なしに彼女を傷つける。
それでも、水の音がする方へ、日奈子は必死に進んだ。
すると、木々の向こうが明るく見えた。水音はより大きくなった。日奈子は足を引きずるようにその光を目指した。
近づけば大きな石の段の上から、飛沫を光らせ上げながら、水がさわさわと流れ落ちていた。
日奈子は手を伸ばしてその水を掬い、何かに取り憑かれたかのように飲んだ。
夢であるはずなのに、水は瞬時に喉を潤した。
しかしその瞬間、不思議な違和感を覚えた。のど越しの澄んで清らかだった水が、いつの間にか酷く不味い味に変化した。
そして急に日奈子は喉に手を置いたまま、足の裏の鈍い痛みを知覚した。
次いでその生々しい痛みは、鋭く現実を伴って襲った。
(まだ、部屋に戻れていないの? ……この痛みは何?)
それでも夢から戻るために、何かヒントはないかと川沿いを歩いていると、不意に胃の腑が熱くなり、急に差し込んだ。
(痛い!痛い!)
日奈子は地面にうずくまり、嗚咽をしながら吐いた。先ほど飲んだ分よりも、すっかり吐いて、咳き込みながら気を失った。
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気が付くといつものようにベッドの上だった。
硬い土と砂利の地面に横たわっていたはずなのに、少し硬いベッドにいることに、日奈子はほっとした。
しかし次の瞬間、日奈子は目を見開いた。
可怪しいのだ。決してあってはならないものが、そこにはあったから。
真っ黒い、乾いた泥がべっとりとパジャマの裾に付いて汚れていること。そして、不意に動かした足の裏が何故か酷く傷んだことだ。
恐る恐る足の裏を覗くと、泥と血が半ば固まり、酷い怪我を露わにしていた。
その光景に、日奈子の身体はがくがくと慄き、手は押さえなければならないほどに震えた。
「夢じゃない、これは現実なんだ――」
そしてまた、腹も痛いままだった。
足元の冷たさと泥のべっとり感触、しくしくと攣れる腹の痛みが、夢では決して味わえない現であると日奈子に突き付けた。
直ぐに続けて、一際鋭く疼く痛みが腹の奥から大波のように押し寄せる。
日奈子は腹を抱え、荒い息を吐くと、己が無力さにぞっとした。
そうして頼るべき相手もなく独りぼっちの日奈子は、感情と現実を持て余したまま、うわの空で足の怪我を自分で消毒した。
そして、止まぬ腹の痛みに、已む無く大学を休んで病院へ行くことにしたのだった。
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