197死の原
『空間扉・扉から扉へ』
半透明な扉が現れ、そのノブに手を掛けた。
緊張でその手が震える。
その瞬間、アーシアの脳裏に、鉱山に残した友の顔が浮かび上がった。
(そうよ、ソフィーたちにお別れも言っていない。
決着をつけて、早く戻らなきゃ……)
アーシアはノブを握った手に力を籠め、しっかりと回した。
扉の向こうは、乾いた岩と荒れた大地が広がっていた。
アーシアは葡萄色のハイネックのセーターに、紅色の巻きスカートの下には薄手の黒いズボンと、その上にがっしりしたロングブーツを履いた。
その上にグレーのジャケットと、砂除けにフード付きのマントを羽織った。皆、特化が付いていて、防具と同じようなものだった。
ニャンずにも何か防具をと思ったが、何かを身に付けたりするのは煩わしいと言われてしまった。
荒々しい地表には大きな亀裂が入った場所もあった。木々もほとんどなく、ただ只管に荒れた荒野が広がっていた。
遠く彼方は、砂煙に滲んで蜃気楼のようにしか見えない。
その中で左の方角からは、濛々と力強く煙が立っていた。
「……なんか、凄い匂いだね」
片腕を顔の前に寄せると、くぐもった声でヴィクトルが言った。
「ああ、これは大丈夫ですよ。硫黄の匂いだから。
ほら、あそこの煙が出ているところ、あれ温泉が出てるんですよ。
温度も丁度いいんです!」
「うん、そうなんだね。でも、入らないよ」
「も、勿論ですっ」
温泉の方角には水もあり、僅かに草も生えている。なるほど、コッコカリスが縄張りに選んだ理由も分かる。
『あの、うるさい鳥いなそうなんだぞぅ』
「ええ、居る時間と居ない時間があるのかもね」
『あの鳥は、めちゃくちゃうまいんだぞぅ』
「高級食材だからね。へえ、君の唐揚げコッコカリスだったんだね。
道理で美味しかったわけだ」
『コッコカリス……』
『なら、あたちがんばるわ』
『ヨシも』
(コッコカリスは、美味しいから多少はいてもいいんだけど……今は急ぐからな)
「ちょっと、レーダーを確認するから周囲を見張っててね」
『わかったよ』
『はーい』
『ヨシ!』
猫たちは元気に先に立って進んだ。
レーダーの点滅は同じ場所から動かず、消えても居ない。
場所はこの場所から少し南東、ゲアラド岩塩坑の方角に行ったところにあった。
砂煙の中を進む。
風はゆるく地表の岩土を巻き上げ、模様を描いた。
砂は舞い上がり、空は砂塵の色に染まり、その青さをぼんやりと薄鈍色に滲ませた。
(この風の吹き方だと、わたしの用意したモンスターを誘発する薬剤を中和する薬は、飛んで行ってしまうわ。
なら、モンスターが来てから対応しないと……念のためヴィクトルに渡しておこう)
「ヴィクトル、ちょっといいかな?」
アーシアは、一度立ち止まり傍に居るヴィクトルに昨晩調合した薬剤を渡した。
途中やはり、コッコカリスとの戦闘が数回あったが、攻撃力はあるが目の悪く傍に寄っても気づかないコッコカリスだ。
この直線攻撃しかできないコッコカリスに、子猫たちが、態と向かって行った感も否めない。
『ここは楽しいな』
『いいところね。温泉もあるし』
『……コッコカリス、おいしいんだなぁ』
こそこそと子猫たちが、口々に言っていた。
アーシアとマドカは少しため息交じりに、ヴィクトルは楽しそうにその様子を眺めていた。
嬉々として子猫たちがコッコカリスを倒し、その都度、アーシアがスキル『解体』を使い、空間収納していった。
そうしている内に、朧げに、砂雲の向こうに風蝕に形を崩れさせ、欠けた塔の姿が現れた。
「……あれかもしれない」
アーシアの手の中の発見機は細かく震え、魔石粉の残像を追うように、画面に点滅を黄色く映していた。
その黄色い光は弱々しいながらも、しっかりと、探す相手がここに居ると告げているようだ。
『多分そうよ。中には一人だけ……だと思う』
なごみも水が少ない中、懸命に周囲を探ってくれていた。
『アイツの隠蔽魔法が弱くなっているんだぞぅ。
やっぱり、敵が弱体してるに違いない!』
マドカは気を付けて小声で言い、皆は確信を深めた。
緊張がぴりぴりと掠めるように走る。
砂雲は薄布のように周囲から岩塔を隠して居る。
周囲に薄く漂うその魔力の流れは、雪の民のものとよく似ていた。
(もしそうなら、この砂の向こうへ行ったら、入ったことに気づかれてしまう可能性が高い……)
アーシアは落ち着いた声を出そうと、静かに低めの声を出して告げた。
「ここを通り抜けたら、多分相手は気が付くから、直ぐに戦闘に入ると思う。
気を付けてね」
ヴィクトルは、雪の民との出会いを思い出したのか直ぐに頷いた。
『これは……魔族の張る隠蔽結界の一種みたいだぞぅ』
(そう、雪の民ヴァルド族は大勢で張っていた隠蔽の結界。
それを一人で張るなんて。
弱ってはいるけれど……流石魔王の臣下、凄い実力者なんだ……)
そのマドカの言葉にアーシアは頷いた。
『なんだか武者震いがするね』
『あたちがんばるわ』
『……なんだなぁ』
エンの言葉に子猫たちは互いを見つめ、顔も気合に引き締まった。
皆で横一列に並び、その砂のヴェールに手を翳した。
砂雲から薄く魔力の流れが移動していくのを感じた。あたかも幾万もの蛇がグルグルと周囲を巡回するように。
その蛇のような感触を感じた瞬間、冷や汗が意図せず滲んだ。
「……大丈夫。行こう」
自分に言い聞かせるようにアーシアが言うと、皆が一同にぴたりと揃い、深く頷いた。
互いの息遣いと動悸が重なり、敵の懐である砂雲に触れる。
そして、しっかりと一歩を踏み込んだ。
砂雲を潜るのはほんの僅か一瞬、
その間、ねばつく様な魔力の蛇の感触がひたりと、
アーシアたちを舐めるように撫でた。
ぞわりと嫌な感触。――憎悪、悪意、憐憫、そして執着。
これがアーシアたちが初めて、残像でしかないはずの、魔王という存在を生々しく体感した瞬間だった。
砂雲の向こうは周囲の景色とはあまり変わらず、低く削れた岩肌があった。
そしてただ、崩れかけた大きな岩の塔があるだけだった。
しかしその塔は、とても人工物とは思えぬ姿で、ただの寂れ果てたものなのに怪しい存在感があった。
――その傾くように佇む岩塔は、抱えきれぬほどの昏い闇を抱き、その残りの禍々しい靄を塔の先から微かに漏らし、ゆらゆらと立ち昇らせて、陽炎のように揺れめかせているようにすら感じた。
入り口がたった一つ、闇の穴がぽっかりと開いているように真ん中に見えた。
その暗闇の中から、鮮やかな赤茶色の服の裾をはためかせるように、ゆらりと人影が現れた。
小さかった影は、徐々にアーシアたちの前に進んで明瞭になっていった。
アーシアたちも、その人影に向かって静かに歩く。
ゆらめいた人影は、女性の形を取り、赤茶色のドレスは炎のようにゆらめいた。
女は長い髪を周囲の砂と同化させたようになびかせ、くすんだ土色の顔を浮かび上がらせた。
その顔は、セドゥーナ学園で見た、
ワースの偽名イヴァン・イアヴェドウズの私設秘書だった
ダフネ・トラシオンと同じだった。
ただ、その時よりも瞳は昏い色を灯し、荒れた険しい表情になっていた。
ゆらゆらと身体を左右に揺らし、近づくその姿は、吐く息も荒く苦しげで、乱れた服装にも拘らず、鬼火のように、激情だけを爛々とその昏い目に燃やしている。
(これが、ドゥッケ=リリ。本当の彼女の姿……)
アーシアは息を呑んだ。
よく見るとドゥッケは、雪の民ヴァルド族の面影が多くみられた。
生壁色の髪と血の気を感じない灰白の顔立ち、少し違うとしたら、背格好が他のヴァルドの民より僅かに細いくらい。
寧ろ、容姿はそのものだった。
しかし他のヴァルド、魔族よりも魔力が強く、どこか不純で歪な波動を出しているように感じた。
それに、一族特有の翡翠のように凪いだ色をしているはずの瞳が血走り、酷く濁ってみえた――
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