195因縁とわたしの可愛い神獣
亜空間作業場の自宅のダイニングの小さな魔石灯の下で、アーシアは『ビィドメイヤーの錬金術の本』の余白に書き込みをかなり長い時間をがけて書きこみを続けていた。
この使い古された皮の表紙の手書きの本は、ウィンドウがあるアーシアにとって今でも一番の宝物だった。
『ご主人~!』
突然宙から白いもふもふしたマドカが現れ、その声で顔を上げたアーシアに、びたんとぶつかった。
(あ~ やわらか~い……やっぱり腹派。大きな猫さまの腹は至高……)
顔面に不意に極上の柔らかい温かさを感じ、アーシアは危うく意識を飛ばしそうになっていた。
(このお腹のたぷたぷ……極楽……。この脂肪、猫ちゃんって太ってないのにある子いるのよね)
実際、スレンダーな黒灰猫のエンはこの下腹の脂肪が少ない。
そのアーシアの顔に、ふかふかのお腹を張り付けていたマドカが、両手でアーシアの頭にぽふっとした手を当てた。
すると、目の前にドアップでいるマドカが、目を煌めかせて元気に宣言した。
『ご主人、おいら、詠唱、全部覚えられたんだぞう!』
「……ん、ええ?」
マドカはアーシアの顔から離れると、テーブルの上に座った。
アーシアは少し名残惜しそうにそれを見ていた。
『おいらとご主人の必殺技だ。
詠唱が祈りの文言なんだけど、とにかく長いんだ。
すっごい神聖力も使うから、修行に時間がちょっと掛かったんだぞぅ』
「わあ、それは凄いね! マドカ、頑張ったんだね!」
そう、マドカは聖水と解呪薬の配達だけでなく、頻繁にヴァスキス神聖国の神殿に行き来をしていた。
その理由は、どうやら、新しいスキルを習得するために通っていたらしいのだ。
『うん、そうなんだぞぅ』
「……一体どんな魔法なの?」
アーシアはマドカの白い滑らかな肩を両手で包むように撫でた。
『でもその前に……話さなきゃならないことが……あるんだぞぅ』
マドカの元気な言葉がしゅんと力を失くし、小さくなった。
「え? どうしたの、マドカ……?」
アーシアはその様子に急に心配になった。
目の前の静かに両手を揃えているマドカは、何でもはっきり物事を話す普段とは違って、
かなり躊躇するかのように言い淀んでいる。
その緑の硝子のような大きな目は、ふとアーシアから外されテーブルの端を見ていた。
中央から移り変わる瞳の虹彩に金の光がちらちらと瞬いて見えた。
『はじめは……
おいら……あの海のモンスター事件の時に、
その犯人の気配が……どこか覚えがあるものだって気になったんだ』
言いにくそうにマドカは口を開いた。
「え、そうだったの?」
(そういえば……マドカは時々、港の方を見ていた。
初めは、ただ川の向こう――ヴァスキス神聖国の方向を見ているだけだと思ったけど……)
マドカは、緑の目をきらめかせ、尻尾を立てると真剣な表情で話をつづけた。
『うん、二十年以上前のことなんだぞ。
ちょうど前魔王が魔王として変化した前後……
討伐から帰ってきた神獣からの残り香と同じ種類だったから。
神獣は特にその気配に敏感なんだ』
「……前の勇者が……倒したっていう?」
(そんなところに、話が……繋がるの――?)
『うん、そうだ。その時のことをもう少し調べるためもあって『ステアの庭』に、
――勇者に仕えて役目を終えた“引退した神獣”たちが住む場所があって――引退した神獣がいるからさ、
詳しく聞いてこれたんだぞぅ』
「引退した神獣?!」
『うん。おいらはご主人のことが大好きでずっと一緒に居たいと思ってるけど、
多くの神獣たちは、勇者が旅から戻るとさよならすることが多い。
それに神獣の寿命は長いからな。
鹿之丞なんかは、長く一緒に居た方なんじゃないかな』
(ああ、そうか。神獣ってそんなに長生きなんだ。
だから、最期まで一緒に暮らしても、主人が亡くなれば、居場所を選ばなければいけないのね。
鹿之丞さんは、故郷の『聖なる森』に帰っていたんだ)
マドカはぴょんと顔を跳ね上げ、説明を続けた。
『それでね、その前魔王に近しい気配について調べたんだぞ。
つまりね、残ってしまった魔王の欠片のせいだったんだ。
どこに行ったか巧妙に隠されて来たんだけどね』
その話は、カルラたちもあまり詳しく触れない話だった。
討伐から十年ほどで、新しい魔王が生まれてしまったという因縁の……
アーシアは話を聞くうちに、瞬間、僅かに顔を強張らせた。
(そうか丁度……わたしが召喚された世代なのか。
マドカが遅れて来たのと……わたしが生産職を選んだせいで……)
『神獣たちには、魔王の気配は、魂に刻まれているようなものなんだ。
彼らも元は……。不幸な……アルディアの生けるものの一人だからなんだぞぅ』
マドカの声は穏やかに、不思議な響きを持った。
(神さまの前では、善きも悪しきも、等しく生きとし生けるもの。
……なのかもしれない。でも……)
『少しその当時の話をしなくちゃいけない』
マドカはまた言い淀み辛そうな表情になった。
『前勇者パーティーが、魔王の欠片を取り逃がしてしまった後のことなんだぞ。
疲労困憊になっていた一行は欠片を追うことが出来なかった。
魔王城は魔王が誕生すると、そのたびに生成される。
だから、勇者一行はその根城を探さないといけない。だから時間が結構かかるんだ。
魔王自体は倒したとみなした神獣の言葉で、魔王城から撤退を始めたんだけど……
欠片のせいでモンスターが沈静化しなかったから、戻るのに苦労したんだぞぅ』
(……魔王の居場所は、その度に違う。
……魔王を倒したら周辺のモンスターが沈静化するということかな。……でもこの十年は……)
『……その帰路の戦いで、六人いた勇者パーティーはほとんど壊滅状態になったんだぞ。
三人はそこで死亡してしまって、さらに神獣の一頭も消滅した。
逃げられた残りの三人も、逃げる途中で二人が行方不明になってしまったんだ。
結局、戻って来たのは最後の一名だけだったんだけど……
そいつも話せる状態じゃなくてな。
相方だった神獣は帰ってきたけど……しばらく寝たきりだったんだ。
今はその最後の一名の勇者も行方不明で、連絡が取れないんだぞぅ。
だから、人間たちが知っていることはほんの一部だけなんだ。
今の話は、おいらが神獣たちから直接聞いてきたことなんだぞ』
マドカは視線を逸らせたまま、噛みしめるように勇者たちの軌跡を話した。
アーシアは話を聞き終えてぽつりとマドカに漏らした。
「ねえ、その前勇者たちって……二十年前の来訪者なら……」
アーシアは先ほどの疑惑を、震える声を抑えつつ、マドカに平静を装って聞いた。
『ああ、だからおいら話せなか……ったんだぞぅ。
……そうだ。ご主人と同じ時期に召喚された来訪者だ』
(ああ、やっぱり……)
『おいら、ご主人が気にすると思って……
ご主人は、モンスターでさえ殺めるのを厭うじゃないか』
(うん。そうだよね……)
『……おいらは、そんな――優しいご主人が大好きなんだ!
勇者になるのは強制なんかじゃ、本当にないんだ!
ご主人は行く必要がなかった。
おいらがそうさせなかった!
だから、少しもご主人が気に掛けることなんてないんだぞぅ』
アーシアは、マドカの心からの気持ちに胸が熱くなる。
だが一方で、気づいてしまえば、心が残るのも本当だった。
それは、僅かに苦く、それでいて深いもの――後悔。
「うん。でも、因果っていうのかな、感じちゃうよね。
そうか、わたしがずっと心の中であのドゥッケ=リリたちが気になっていたのは……
因縁の相手のようなものだったからなんだ」
『……ご主人』潤んだ緑の丸い瞳が見上げる。
アーシアの胸の、もやもやとした理由の分からなかったパズルピースの空欄のような場所に、
すとんとその結論がきれいに収まった。
「それで、どんな技なの? わたしも一緒にやるんでしょ」
吹っ切るように、アーシアは尋ねた。
『ああ。それは、ご主人の心を守るために、おいらが学んで来た技なんだぞぅ
そう、おいらたちじゃない――神さまにやってもらう方法なんだ』
「か、神さまに……?」
『そうなんだぞぅ。直接処して貰うための術。”裁き”なんだ』
「そんな、神さま自らになんて……そんなお手間を取らせて、いいのかしら?」
『大丈夫なんだぞぅ。冥府の神さまは、一番忙しいのに、優しくて働きものなんだぞぅ』
(冥府の……って……地獄の閻魔様、みたいな感じ……?)
マドカは、今まで秘めていたことを告白できたことに、溌溂とした表情を浮かべた。
(え、本当に、いいのかしら……忙しいって、仕事が増えるんじゃ……)
アーシアだけは、まんじりともしない気持ちを残していた。
その時、部屋の片隅のキャビネットの天板にひっそり置かれた大型追跡機の画面が小さな黄色い点滅を始めた――
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