1 白昼夢
――――毎日が忙しすぎる。
蘆屋日奈子の日常は、周囲の大学生からは外れ、全く違い華やぎの一つもない。
奨学金を受けているが、生活はぎりぎりで、一人暮らしでもあった。
授業料の入金が近づき、今月からは家庭教師のほかに、隙間バイトも始めざるを得なくなった。
そのせいで必要以上に疲れ、折角入学した大学の講義にも集中できずにいた。
もともと希望の学部は親の反対で受験すらできなかった。
さらに事情があって祖母の籍に入っているため、親からの援助も最小限だった。
大学に入っても身が入らず、無理に気合を入れなければならないのが、正直つらかった。
その日は、いつも以上に講義が頭に入ってこない。
自身の講義に対する興味の度合か、それとも疲労のせいか。うだるような暑さから、冷房の効いた涼しい室内に入ったせいなのか。
或いはその全てが、日奈子の意識を悉く奪っていく。
講師のマイク越しの、籠ったようなざらついた声が、不意に遠くなる。
目の前に靄がかかり、湿った空気を感じた。
(あれ、……薄ら寒い?)
身体は意識に逆らって、ほんの僅かでも寒さに身を震わすことも出来ない。
着席していたはずなのに、ぼんやりと立っているその足元の、冷たいような床の感触を感じる。
俯いて下を見ると、靄の中に履き古した愛用の黒っぽいスリッポンが見えた。
不思議に足の裏に床ではない、でこぼこした硬さを感じる。
(なぜ? 講義室の床こんなだった?)
視界はまだ霞がかかったまま。
リアルだと感じるのは足の裏のこの感触だけだった。
感覚を研ぎ澄まし集中すると、自分が想像した通りの湿った黒い土と硬い石と伸びて節くれた木の根を感じた。
ひどくリアルな感覚だった。
そして、冷たく湿った霧と、水分を多分にはらんだ森の葉の匂い。
日奈子は急に不安になった。
(なぜ? なぜ? ……暗い。
森の中にいる? ……夢なの? ――白昼夢?)
極度の不安と緊張でパニックになりながら、日奈子は自問自答を繰り返す。
(森の匂い……。そして、水の……小川? 違う)
耳を澄ましても、せせらぎは聞こえない。
ゆっくりと恐る恐る、足元から順に視線をあげてみた。
そこには、――鬱蒼とした日の光が細く入るだけの森の中にぽつねんと立っている自分があった。
互いを縫うように生える木々と、丸みを帯びた緑の葉。奥の木の鱗状の幹の間には、霧が立ち込めて遠くは見ることが出来なかった。
足の下には、湿気を帯びた太い木の根の節が当たり、少しでもバランスを崩したら、倒れ込みそうだった。
不安になればなる程、気持ちとは裏腹に、冷静に周まわりが見えてくる。
日奈子の分析好きの性分ゆえか、混迷に陥る気持ちを余所に、彼女の脳細胞は、目の前の現実を正確にしようと、忙しなく自動計算するように動いていた。
(うそ、うそだ!夢、はやく起きなきゃ!)
日奈子は心の内で必死の叫びをあげた。
ジジジジー。
人工的な光がパッと広がった。
胸がハッと苦しく、肺を乱暴に摑まれたように感じた。
冷めた汗がじっとりと感じる――4限の終了を告げるベルが鳴り響いた。
「蘆屋さん。顔色が悪いけど、大丈夫?」
後ろの肩越しに顔だけは知っているの女性の学生が、日奈子をそっと覗き込んでいた。
「蘆屋さん、体調悪いんじゃない? ……顔色もよくないよ」
この同じ学科の女学生は親切な性質のようで、度々挨拶もしてくれるし、何度か話しかけてくれたりもした。
しかし、日奈子は極度のコミュ障なのと、バイトの掛け持ちで日々忙しいため、未だにあまり話しできないでいた。
日奈子は慌てて、がたがたと不格好に立ち上がり、声は震えてしまったが、彼女の言葉に思い切って答えた。
「……あ、ああ……、大丈夫、です。
ありがとう」
と、日奈子は答えたものの、相手の顔もろくに見れないまま、机に脚をぶつけながら、走るように教室から出て行った。
(あ、あ、彼女に、もう少し気が遣えたらよかったな)
苦い後悔の念が、喉元に貼り付いたように苦しかった。
教室の中を振り向くと、ドアの向こうに、彼女が顔を少し傾け微笑んで、小さく手を振っているのが見えた。
カバンを前に抱え、教室を後に、日奈子は複雑な表情を浮かべたまま、床板だけを見ながら足早に歩いた。
(やはり疲れているのかもしれない。講義中に意識を飛ばすなんて初めてのことだ。
……急に森の中に居たように感じたのだって、疲労と寝不足のせいに違いないのだから……)
しかし、この些細で奇妙な現象は、この後の毎日を不安に落とし、蘆屋日奈子を頻繁に悩ませるようになるのだった。




