107かまどの微笑み
『アーシア・デイス』
幾重にも響くような声が、小さく後ろから囁いた。
近くにいるのに、遠くにいるような優しく穏やかな声だった。
ゆっくりと背後を振り向くと、ウェスちゃんが大人びた微笑みを浮かべて立っていた。
『異世界からの来訪者である、アーシア・デイスよ』
そう呼びかけるものの、絶えず柔らかい笑みを浮かべる口元は、一向に動いていない。
「あなたは、どなた、……ですか?」
女性は一層、深く微笑みを増した。
『そなたは、既に知っているでしょう…
わらわは、かまどの女神、ウェスタ。火と団欒の女神と呼ばれている。
そなたに、ずっと会いたかったのです…いつも、祈ってくれてありがとう。
そして、供え物も、ふふふ…大変美味しゅうございましたよ』
ゆっくりと答えるその人物は、自身が神さまであるという。
アーシアは、驚きに目を見開いて声が一言も出なくなった。
女神の姿は、ウェスちゃんそのものだ。その身にまとっている服でさえ、先ほどのアーシアが見たものと同じだ。
しかし、そのオーラはまるで、ウェスちゃんのものではない。強く圧倒するようなオーラ、しかし穏やかな暖炉の暖のような温かさも感じる。
そして、ゆらゆらと淡く発光しているのだ。
「うぇ、ウェスちゃんは、どうしているのでしょう?」
心配になったアーシアは訊ねると、
『心配しなくともよい。
この子の名前は、ウェスタ。わたくしと同じ。
そしてこの子の一族は、これまでずっと、永きにわたって…
……このかまどの炎を使いて人々に、多くの愛を配りし者たち故…
わらわの祝福を持つ者たち、いわば、わらわに近しい存在なのです。
しかも、この娘は、わらわの”名前”を持っている…
なのでこの娘を依り代に、そなたの前に現れることができたのです…
……しかし、この子は人故、あまり時間はありません』
「あ、あの、き、聞きたいことが…
あ、あの、び、微生物が、というかそのう、小さき生き物が、あちらの世界と同じものが居たのですがが、
それにこの世界は、わ、わたしが来た世界から似たところが多い…でも、産業が…ええと、アンバランスなように見えるんです。
あっ、それに、わ、私自身、別人のような…何か変わっているみたいな感じがするんですが…」
『うむ。この世界アルディアは、極めてそなたの世界地球に似ている。
何故なら、ここはそなたの世界を模してできたもの。
そして、時折あちらの世界から来訪者を招き、馴染ませ、世界を安定させているのです。
そなたらの世界は人が多い、—―そして世界を厭うて自死を選ぶものすらいる。
……そのようなあちらを厭う自分で生きる術をこちらで持てるであろう者が自然と選ばれる…
生憎、……可哀そうに、こちらも馴染まぬ者もおったがな』
「……魔王の討伐のために、召喚されている訳ではないのですか?」
『そうじゃよ。魔王…”摂理の違反者”は…アルディアの民だけでも何とかできるもの。
初めはアルディアのパーティーに来訪者が手伝ってくれる形で入ったが…
いつの間にか、その類稀な力で、民草に讃えられ、勇者と呼ばれるようになった。
それだけならよかったが、摂理の違反者…魔王を討伐するのは来訪者と、
いつの間にか勘違いをしているようです』
そういって息を切るとまた、静かに続けて告げた。
『さて、そなたのことであるが、そう、そなたの身体はあちらのものとは違っている。
そなたは、ここに来る前に何度もあちらに帰ったでしょう、普通は一度で召喚させるが、そなたはかなり育ち上がっていたせいか、中々馴染まなかったようですね……
一度、ここの水を飲んだ時、毒のように感じたでしょう?あの現象がそう。
アルディアに訪れる度に、徐々に身体が変容して行って、こちらの食べ物が受け入れられるようになった。
あの、聖獣が勧めたアウロリナのことよ。それで変化が安定してこちらに来ることができたのじゃ』
「では、この身体はアルディア人ということですか?転移じゃなくて転生?」
『正確には転生ではないが……赤子として産まれたわけでない故、転生に近いな。
どんな種族になるかは……楽しみじゃ』
「え!!人間じゃないんですか?」
『変容はまだ完了していない、ということじゃ』
ウェスちゃんの姿をした女神は、急にふわりと浮かぶと強く輝きを放った。
両腕を翼のように広げ、浮かび上がり、周囲を一面に輝く光の海で満たした。
『わらわが、そなたにしてやれることは、あまりないが…
そなたは以前も小さなかまどで人々に微笑みを配り、
そして今回もこのように…
このかまど、すなわち人々の団欒に多大な貢献をしてくれた、それ故の褒美です。
神々は多くいますが、人間の営みに興味を払う者はそう多くありません。
しかし、厄介な神なら存在する。少し仕事熱心過ぎるだけと、神界では片付けられているが…
そのものは、秩序を守ることに異常な執着を持っておる。
そなたら人には面倒な神じゃ。
…その面倒な神から、そなたをしばらく、隠してあげましょう』
周囲が真っ白になると、あまりのまぶしさに目を閉じたアーシアは、身体を抱えるように両腕を回して立ち竦んだ。
しばらく経って、淡い潮の匂いを宿した風が、アーシアの頬を擽った。
「アーシア、もう、できたかしら?」
デシャップ(配膳台)の向こうから、若々しい娘の声がした。
カウンターから、顔を遠慮がちに覗かせて、ウェスちゃんが心配そうに見ていた。
「大丈夫?もしかして、一人で大変だったんじゃない?
もう、そっちに行っていい?」
「ええ、どうぞ。
ああ、ハートさんたちも呼んで…」
すると、閉まっている店の玄関から、コンコンコンとノックの音がした。
丁度、ホールに降りて来たハートさんの奥さんが、その声を聞いて出て行った。
「こんにちは。丁度、できた時間じゃないかと思いまして」
案内されてきたのは、商業ギルドのいつものペプロー氏だった。
大きな書類鞄を持って、丁寧な態度で店内に入って来た。
「こんにちは、ペプローさんも、態々、来てくれたんですね」
「当然ですよ」
「どうぞ、みなさん設置ができましたので、お入りください」
ぞろぞろと皆で厨房に入っていく。アーシアの案内で、勿論一番先頭は店主のハート夫妻だ。
背の高いカウンターを通ると、そこには立派なストーブが整然と並んでいる。
皆はその見慣れぬ綺麗なストーブの4基とその裏の大きな平らな柱のような物と頭上の大きな四角い漏斗型の物が吊り下がっているのに驚愕していた。
「まあまあ、何て素敵なキッチンなんでしょう……」
ウェスちゃんのお母さんのハート夫人が、ハンカチで目を押さえ泣き出した。
お父さんの方も、目を潤ませて、奥さんの肩に優しく手をまわした。
「本当ね、お父さん、お母さん」ウェスちゃんもその温かい輪に加わっていく。
この暖かい家族の輪は、このコル・デル・クオーレに訪れる多くのお客さんの美味しく暖かい幸福になり、やがて、大きくなっていくだろう。
「凄いですね! こ、これは……暖炉室……これは、排気用の物ですか! な、名前は?……」
ハートフルな情景を醸し出しているハート一家の傍で、今にもストーブセットに飛び掛かりそうになりながら、ペプロー氏が機関銃のような早口で独り呟き続けている。
「一度、火入れをしてみてもいいですか?まだ、動作確認をしていないので」
(そこはきちんと動くか確認するまでが、わたしの仕事だからね……)
アーシアが、困ったように言うと、ハートさんが進み出てきて、
「わしがしても、いいですか?」
アーシアは少し考えると、
(安全面は大丈夫だから、いいよね)
と、思って、是と答えた。
ハートさんは、消し炭を用意して、少しの火種用の乾燥した木の枝と共に入れ、指から火を灯した。
(あら、便利!)
アーシアは、火魔法が使えないので、火を入れるのに苦労する。なので、早々に火の魔石でチャッカマンのようなものを作っていた。
取り出して、用意していたそのチャッカマンのようなものに、ペプロー氏がキラーンと一人だけ、目を光らせていた。
炎は火室の中でしっかりと燃えて明るくなった。空いた調理穴から薄く立ち上る煙は、大きな囲炉裏の笠に自然と吸い込まれていく。
皆、その光景を深い微笑みを浮かべながら見つめた。
ストーブの中から見える炎の光は、これから先の未来の幸福の象徴のようだった。
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