102心は菌と共に
進級試験を終えて、緊張からかどっと食欲が湧いた。何か食べたい。甘いものなら尚可だ。
早くできるものはないかと考えて、もち米らしいものがあることに気が付いた。
物産店で買ったものの中にあったのだった。因みに、お煎餅(仮)は塩味だったが、それはそれで美味しくいただいた。
もちろん、初めに食べる前には、とくに自分が作ったものは、神様にお供えすることが習慣となっていた。
おはぎか、みたらし団子か、はたまた桜餅か……道明寺の地域もあるんだよな〜などと思いながらぼんやりしていると、マドカが傍にやってきていた。
『どうしたんだあ? 変な顔して』
はっとなったアーシアは、すぐさま気を取り直してマドカを見上げた。
「なんでもないわ。ちょっと、なにか和菓子でも作りたくなったのよ。
でも、材料が足らないのよね……」
『おお、あっちの世界のお菓子か? いいなあ』
「うん、でも足らないものが……特に調味料とかがないのよね」
(なんとかならないかな〜)
週が明けると、最初の時間は二限続きで、オットー先生の「腐敗と発酵」の実習授業だった。
実習は器具の数が限られているので、少人数のグループでローテーションを組んで行う。
オットー先生の講義は外部生も多く、知らない人だらけでも気にする学生はいない。
マドカは教室に入ると、すぐ従魔が待機できる場所、──壁際のロッカーの上に移動した。
実験室の見た目は古びた雰囲気以外は、現代のものに似ている。
机の上にいくつか据えられたそれは、アーシアにとって見慣れないが「顕微鏡」に違いなかった。
理科室で見た白く頑丈な機械とはまるで違う。遠目ではよく見えないが、もっと小さいようだ。
(顕微鏡って、もっとごつかったよね……)
いよいよアーシアの番になった。
近づいてよく見てみると、真鍮の枠に小さなガラス玉がはめ込まれ、針のような台に試料が突き刺してある。
横のネジを回して焦点を合わせる仕組みらしい。本体もネジもあまりに小さく、操る指が緊張で震えてしまう。
「わたしの師が工夫した古き顕微鏡じゃ。さあ、覗いてみるがよい」
そっとアーシアの後ろに立ったオットー先生が、ひげを揺らして微笑んだ。
アーシアは片目をそっと近づけた。小さな小さなガラス玉だ。
視野は驚くほど狭く、目玉を押しつけるようにしなければ像が見えない。
そして――暗い丸い窓の奥に、ついに何かが浮かび上がった。
透明な小粒が、いくつも寄り添って並んでいる。
あるものは二つに分かれかけ、あるものは大きく膨らんでいる。
粒同士が連なり、小さな群れをつくっていた。
(……これ、酵母だ。イースト菌……!
ええと、サッカロマイセス・セレビシエ……?)
教科書や実験写真で見た姿が、そして、この世界に持ってきた昨晩読んだ本『発酵生活の科学』の記憶と、頭の奥でぱっと重なった。
光がにじみ、輪郭が揺らぐせいで、粒が脈打つように生きているように見える。
ふっくらした丸い玉の中にいくつかの玉が入り、まるで昔読んだ漫画のキャラクターのように、酒樽の底で泡を吹いている小さな丸い職人たちが働いているように見えた。
姿も何となく似て見えて、アーシアは思わずくすっと笑った。
「どうじゃ? 見えたかの」
「……はい。小さな丸い粒が…
…その、動いてる。生きてますね」
「うむ。これぞ小さき生き物。酒を醸し、泡を立て、
わしらに糧を与える友よ」
先生の声はまるで祝福のようだった。
主人公はもう一度、狭い視野を覗き込む。
わずか一粒の酵母が分かれ、また増えていく。
その営みは、かつて理科の授業で習った「単細胞生物」という言葉よりも、ずっと鮮やかで確かな生命の証に思えた。
先生は、真剣に顕微鏡を覗き込んでいるアーシアをそのままにして、他の学生の元へ指導に行った。
しばらくゆっくり見せてもらえるらしい。
この顕微鏡はかなりよく見えると思うけど、写真ではもっとはっきり見えていたから、倍率はどのくらいだろうか。
『鑑定』『分析』スキルを使ってみたら、そんなふうに思い付いた。
別に、鑑定スキルを授業で使うことは禁止されていないので――
(よい機会だ、やらせてもらおう。分析も解析も“アナライズ”でいいよね。
……確かあちらの世界では、この酵母の名前はサッカロマイセス・セレビシエ。
学名が、サッカロ(砂糖)+ミセス(菌)+セレビシエ(ビール)だったはず)
『鑑定・解析』
[倍率を180から1000倍に上げました]
音声ガイドが流れた後、急に覗いているビジョンがクリアになった。ぐんと視界が近づいてきたような感覚だ。
(……うっわ、痛い? いや、気持ち悪っ……)
酵母菌の様子が、丸の中にある丸が重なり合う様子まで、はっきりと確認できるようになった。
びくんと身体が反応しそうになったが、努めて姿勢を保った。視界の横にはウィンドウが表示されている。
(わぁ!!すごい!)
[サッカロマイセス・セレビシエ(菌類):
アルディア名 麦の小さきものとも呼ばれる/ビール・パンの発酵などに使われる/個体数3/良好/特性 かもす、アルコールでちゃう]
(すごい……これは、ちょっとやばいかも……かなりのチート能力?
それにしても、あちらと同じ菌なんだね……
ちょっ、特性が二つ……どど、どこかで……。
それに、その特性はアルコール出てほしくないときは困るんじゃ……)
そう思っていると、ジャーナルが流れる。
[この菌類は、アルディア固有のもの。限りなくサッカロマイセス・セレビシエに近い。地域によっても異なる/正確にはボスカリオロ地方のセレビシエ]
ボスカリオロ地方とは、セドゥーナ国の東半島の周辺地域である。セドゥーナでは東西でそれぞれ特産の酒があり、この子たちは東の方から来たのだ。
なるほど、奥が深い……うんうん、と呻りながら見入っていると、周囲が静かになってしまっていた。
はっとして立ち上がり、見渡すと学生がいなくなっていて、小柄なオットー先生がにこにこと少し遠くから見ていた。
「す、すみません!! わたしが遅くなってしまって」
「かまわんよ。ずいぶんと、小さき生き物たちが好きなのだなあ」
「はい! か、かわいいですよね」
ははは、とオットー先生は高らかに笑った。待っているマドカは「何言ってるんだ?」みたいな顔をしている。
でも、今日分かったことは、とても重要なことだった。そう、あちらの世界と同様に、菌たちもいるのだ。
きっと、醤油や味噌やみりんなどを、いつか自分でこちらの世界の菌たちと作ることができるかもしれない。
そう思うと、アーシアは胸のわくわくを押さえられなかった。
「でも、次の講義があるんじゃないかね? なにかな?」
「あ、そうです。ええと、錬金術Ⅳの……あ、金属の錬金実習でした」
しかし、金属の実習は複数回、別日に設定されているので、次に受けることにしようとアーシアは思い直した。
「おや? 急がなくていいの?」
「はい、次の回にしておきます」
「ははは、きみは『金』より『小さき生き物』の方が好きそうだねえ。
今度、ほかの小さきものも見せてあげよう」
オットー先生は笑いながら教室を出て行った。
アーシアは、オットー先生は醸造で有名だけど、この授業はことのほか楽しそうにしていたから、小さき生き物がよほど好きなのだろうと思った。
「わたしもだわ。『金』より『菌』が好き。確かに……」
自分自身のことも一緒だとおかしく思って独り言を言っていると、マドカがふいっと横に現れて不思議そうな顔をした。
『どっちもキンじゃないのかあ? 何言ってるんだ?』
私物を片付け終えたアーシアは、マドカを抱きしめて、
「うん、なんでもない。
……そうそう、蒲焼きとか和菓子も作れるようになるかもよ!」
『聞いたことない名前だけど、そういうならおいしいんだろうな! 楽しみだぞう!!』
二人は仲良く食べ物の話をしながら、教室を出て行った。
なかなか楽しい学生生活だと、アーシアはしみじみ思っていた。
そして偶然にも、更新日の今日は金曜日。
どうしても思い浮かんでしまいますね――菌類を描くと、ゆるキャラが……。
お読みいただきありがとうございました。




