豚小屋に嫁がされそうな私が、決死の覚悟で幸せをつかみ取るまで
ビタンッ!
乾いた音が絢爛豪華な部屋に響き渡る。
私の右手には、じんと痺れるような熱い感触。
そして目の前には頬を押さえ、ぱちくりと目を瞬かせる巨大な肉塊。
ポルコ公爵。
通称、豚公爵。
それが私の婚約者になる男の哀れな姿だった。
「と突然暴力に訴えるなど人としてあるまじき行為ですぞ!しかもこの高貴な朕に手を上げるなど……!」
早口でまくし立てる公爵。
しかし、半泣きで睨みつける私を見てぎょっとして言葉を失う。
私は心の底からの叫びを叩きつけてやった。
「黙れ豚!罪に問うなら問え!私もお前と結婚するぐらいならば死んだ方がましだ!」
私の言葉に公爵は完全に沈黙した。
金魚のように口をパクパクさせている。
その顔を睨みつけ、私は最後の言葉を投げかける。
「いいのか豚公爵。お前の人生、このまま蔑まれ続けても!」
これは、私、ミリー・ラズワルドが、絶望の淵から己の幸せをその手で掴み取るまでの物語だ。
◇
時は遡り、十日前。
私は実の父親であるラズワルド子爵の書斎に詰め寄っていた。
「なぜですか父上!私をあの豚小屋に嫁がせると言うのですか!人の親として、それで良いのですか!?」
私の悲痛な叫びにも、父は眉一つ動かさない。
冷徹な瞳で私を見下ろす。
「豚小屋とは。失礼なのはお前の方だミリー!相手はこの国有数の大貴族。貴族にとって政略結婚は当たり前のことだろう!」
「当たり前ですって!?これは政略結婚などという綺麗なものではありません!人身売買そのものではありませんか!」
そうだ。
私が嫁ぐことになった相手は、ポルコ公爵。
社交界では、畏怖と侮蔑を込めてこう呼ばれている。
――豚公爵、と。
その名の通り、でっぷりと肥え太った体躯。
歩くたびに床が軋む。
そして、その笑い声がまた、生理的な嫌悪感を掻き立てる。
ブヒヒヒ
まるで本物の豚のような、下品極まりない声。
会話の内容も、輪をかけて下劣だ。
聞くに堪えない卑猥な冗談を早口でまくし立てる。
常に汗と脂でテカテカと光る体からは、家畜のようなむっとする体臭が漂ってくるという。
ああ、想像しただけで吐き気が……
しかし、そんな男が、途轍もない資産家であることもまた事実だった。
その莫大な富に目がくらみ、これまで何人かの令嬢が彼との政略結婚に臨んだ。
その結果はどうだったか。
一人は、公爵と話すうちに、あまりの絶望にその場で泣き崩れた。
今では精神を病み、静かな田舎の療養所で過ごしているという。
また一人は、対面した途端、あまりの嫌悪感に耐えきれず、その場で胃の中身をぶちまけた。
そして床に突っ伏し、土下座して縁談の解消を請うたとか。
大貴族であり大富豪。
それなのに嫁の来手がないのには、相応の理由があるのだ。
そして今、その白羽の矢が私に立てられた。
「我が家の財政はお前も知っているだろう。ポルコ公爵からの資金援助は、我々が生き延びるための唯一の手段なのだ」
「だからと言って、実の娘を豚に売り渡すのですか!?父上に罪悪感はないのですか!」
「口を慎め!これはラズワルド家のためなのだ!家長の決定は絶対だと思え!」
父の怒声が部屋に響く。
ああ、そうだ。
貴族社会において、家長の言葉は神の言葉にも等しい。
ましてや、こちらからこの縁談を断るなどもってのほか。
公爵の機嫌を損ねれば、我が家など赤子の手をひねるように潰されてしまう。
もう、逃げ道はないんだ……
じわり、と目の前が暗くなる。
(最悪、自害するしか、この屈辱から逃れる方法はないのか……)
そんな物騒な考えが、頭の中をぐるぐると巡る。
私は昔から、他の令嬢たちのように刺繍やお茶会に興じるより、木登りや乗馬に夢中になるような男勝りのお転婆娘だ。
そんな私でも、この縁談だけはどうしたって受け入れられそうにない。
しかし、それでも心のどこかで、小さな希望が囁いていた。
(いや、まだだ。まだ噂でしか知らないじゃないか。もしかしたら、酷い噂は誇張されているだけかもしれない。実際に会ってみなければ何も分からない)
そうだ。
自分の目で確かめるまでは諦めてはいけない。
私はかろうじて残っていた理性を総動員し、震える声で父に告げた。
「……分かりました。一度、お会いしてみます」
そうして私は、最後の悪あがきとして豚公爵との顔合わせに臨むことになった。
約束の日。ポルコ公爵の屋敷。
門構えは大貴族というだけあって、威風堂々としている。
しかし、馬車を降りて屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間、私の淡い期待はもろくも崩れ去る。
……くさい。
鼻をつく、強烈な臭い。
それは植物に家畜を思わせる悪臭が混じり合った、筆舌に尽くしがたいものだった。
ここはジャングルか??
思わず鼻をつまみ、後ずさりしそうになるのを必死でこらえる。
(ここで逃げたら、ラズワルド家が……!)
私を案内する執事も侍女たちも、感情を失った人形のように無表情だ。
きっとこの悪臭の中で働くうちに、嗅覚も感情も麻痺してしまったのだろう。
落ち着かない気持ちでソファに腰掛ける。
やがて、廊下からズシン、ズシン、と地響きのような足音が近づいてきた。
そして、扉がぎい、と音を立てて開かれる。
そこに立っていたのは、噂に違わぬ、いや、噂以上に巨大な肉塊だった。
うわ……本当に、豚だ……
でっぷりと突き出た腹。
短い首に埋もれた顔は、脂でぬらぬらと光っている。
小さな目は、いやらしい光をたたえて私を値踏みするように見ていた。
「ブヒブヒヒヒ!これはこれはようこそミリー嬢!朕はそなたのような可憐な美少女をこのお家に招きたくて待ち望んでいたぞよ!」
ねっとりとした声が、鼓膜を不快に震わせる。
その瞬間、私の心の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
ああ、だめだ。
無理だ。
こんなものと結婚するくらいなら、本当に死んだ方がいい。
噂は、誇張などではなかった。
目の前が、ちかちかと点滅する。
(だめだ、死のう……)
心が、完全に折れた。
私の人生は、今日、ここで終わるのだ。
◇ ◇
「ささこちらへ。朕が自慢の庭園を見せて進ぜようぞ。そなたのような愛らしい花には美しい花々がよく似合うからのうブヒヒ」
公爵はそう言って庭へ促す。
もう、どうでもよかった。
私の意識は目の前の現実から完全に乖離していた。
(どうやって死のう……。できるだけ痛くない方法がいいな……。川に身を投げるのは……冷たいから嫌)
「そなたのような瑞々しい果実は朕がじっくりと味わってやらねばなブヒヒ。まずはその薄い衣を一枚ずつ……」
公爵が隣で何かをまくし立てているがもう私の耳には入ってこない。
ただの雑音だ。
(この屋敷を出てすぐに馬車に飛び込むのはどうかしら。一瞬で終わるかもしれない。……でも最後に美味しい晩餐くらいは食べてから死にたい気もする)
そんなことをぼんやりと考えて、虚ろな足取りで歩いていたせいだろう。
大理石の廊下に、ほんのわずかな段差があったことに気づかなかった。
「きゃっ」
ぐらり、と体が傾ぐ。
ああ、このまま頭を打って死ねたら、それも一つの手かもしれない。
そう思った瞬間、ぬらりとした感触の大きな手が私の腕をがっしと掴んだ。
「おっと危ないではないかミリー嬢。そなたの白魚のような肌に傷でもついたら朕が悲しむぞよ」
支えられた衝撃で私ははっと我に返る。
腕に絡みつく汗ばんだ手の感触におぞ気が走った。
振り払ってしまいたい衝動を、必死で抑える。
――けれど、その時だった。
一瞬だけ、私を見つめる公爵の瞳に不安と心配の色がよぎったように感じた。
それは、純粋に相手を気遣う人間の目だった。
(え……?……もしかして、この豚は……ただ、緊張しているだけ……?)
そんな突拍子もない考えが、ふと頭をよぎった。
応接室に戻り、私たちは紅茶を前にして向かい合っていた。
相変わらず公爵は下劣な冗談を、息継ぎもせずにまくし立てている。
「朕のこのたくましい体でそなたを夜通し愛でてやろうぞ。きっと明日の朝には腰も立たなくなるであろうなブヒヒヒ!」
……うるさいな、こいつ。
けれど、先ほどの瞳が脳裏に焼き付いて離れない私は、別の考えを巡らせていた。
この、聞くに堪えない下品なマシンガントークも沈黙が怖いからではないだろうか。
私を退屈させないように、楽しませようとして、必死に言葉を紡いでいるだけなのではないだろうか。
――その方法が、致命的に間違っているだけで。
(こいつ、ただの醜悪な豚じゃなくて……もしかしたら、人を慈しむ心を持った豚なのでは……?)
そう思って、改めて目の前の肉塊を観察してみる。
確かにでっぷりと肥え太って、全体のバランスはおそろしく悪い。
しかし、幾重にも重なった顎の肉の奥にある顔の骨格は、意外と小さいのではないだろうか。
脂に埋もれてしまっているが、よく見れば瞳も大きい。
そして、何より身長が高い。私が見上げるほどの長身だ。
(これは……)
私の頭の中に、一つの仮説が稲妻のように閃いた。
(この人、痩せて、その下品な喋り方を是正できれば……とんでもないイケメンに生まれ変わるのでは?)
その可能性に気づいた瞬間、私の心の奥底で、死にかけていた何かが、再び燃え上がるのを感じた。
――そうだ。
どうせこのまま豚に嫁がされるくらいなら、死のうと思っていた身だ。
失うものなど、何もない。
だったら最後に、盛大な悪あがきをしてやろうじゃないか。
この豚を、私が変えてみせる。
失敗して、この豚の機嫌を損ねラズワルド家が潰されることになったとしても、その時はこの首を差し出せばいい。
やってやるわ。
この醜悪な豚を、誰もが振り向くような完璧な紳士に変えてみせる!
不可能?
笑わせるな!
このミリー・ラズワルドの辞書に、不可能の文字はない!
この豚小屋を、大豪邸に変えてみせる!
覚悟は、決まった。
私はすっくと立ち上がる。
きょとんとした顔で私を見上げる公爵。
その頬に、私は渾身の平手打ちを叩き込んだ。
ビタンッ!
そう、物語はここから始まるのだ。
我ながらなんて酷い暴挙だろう。
でも、こちらも乙女としての人生がかかっているのだ。
「と突然暴力に訴えるなど人としてあるまじき行為ですぞ!しかもこの高貴な朕に手を上げるなど……!」
早口で抗議する公爵。
しかし、豚小屋に嫁ぐという絶体絶命の危機に立たされた私の目にも、自然と涙が滲んでいた。
半泣きの私を見た公爵は、ぎょっとして言葉を失う。
「黙れ豚!罪に問うなら問うがいい!私もお前と結婚するぐらいならば、死んだ方がましだ!」
私は震える声で、そのまままくし立てた。
「お前も自分が社交界で何と呼ばれているのか知っているのだろう!豚公爵だ!お前は金持ちのただの豚として、みんなから蔑まれ続けているんだ!」
公爵は、金魚のように口をパクパクさせている。
突然の出来事に、控えていた家臣たちも身動きが取れずに固まっていた。
「いいのか、豚公爵!お前の人生、このまま蔑まれ続けても!」
私の魂からの叫び。
それを聞き、公爵の大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「う……うう……。朕とて、本当は蔑まれるのは嫌なのだ……。おなごも、なぜか朕と結婚しそうになるとみんな逃げてしまうし……ブヒィ……」
……おなごって言うな、気持ち悪い。
心の中で悪態をつきながらも、私は確信した。
――やはり、そうだ。
この豚公爵は、変われる。
人を慈しむ心を持った、不器用な豚なのだ。
私は泣きじゃくる公爵に、そっと手を差し伸べた。
「……先程は手を上げてしまい失礼いたしました、公爵。……あなたの心の声、しかと聞き届けました」
そして、その震える巨大な肩に、ぽんと手を置く。
「ポルコ公爵、あなたのその気持ちがあれば、きっと変われます。私と一緒に変わりませんか?」
「え……?」
「今まであなたを蔑んできた奴らを、あなたの力で、見返してやるのです!」
きょとんとする公爵に、私はまくし立てる。
「このまま豚と笑われ続ける人生と、血の滲むような努力の果てに誰もが羨む『ハンサム公爵』として生まれ変わる人生、どちらがいいですか!さあ立ちなさい、ポルコ公爵!あなたの逆襲劇を、この私に見せてみなさい!」
私の言葉に、ポルコ公爵の涙に濡れた瞳に、決意の光が宿った。
「や、やってやる……! 朕は、やってやるぞよ!」
(……その言葉遣いも、早急に是正しないと)
私は心の中で静かに頷きながら、にっこりと微笑んだ。
「それでは、今すぐできる、簡単なことから始めましょうか」
「か、簡単なこと?」
聞き返す公爵に、私は応接室の外を、ビシッと指さして言い放った。
「いつから入っていないか知りませんが、今すぐ風呂に入りなさい! その中途半端な香水で、臭いをごまかすのはもうおやめなさい!」
◇ ◇ ◇
小一時間後。
風呂場へ向かった公爵が応接室に戻ってきた。
先ほどの脂ぎった肌とは違い、多少は人間らしい血色を取り戻している。
(おお……家畜の豚から、まあまあ小奇麗な豚になったじゃないか)
私の心に、わずかながら達成感が芽生える。
と、同時に、冷静になると、自分の言動のあまりの酷さに、今更ながら罪悪感が鎌首をもたげてきた。
(いや、冷静に考えると、初対面の相手を豚呼ばわりして、ビンタして、風呂に入れと命令するなんて……さすがに失礼が過ぎるわよね、私)
内心で苦笑いしていると、公爵がおずおずと口を開いた。
「ミリー嬢。朕はこの後どうすれば」
「決まっています。これから毎日、朝と夕の二回必ずお風呂に入ること。いいですね?」
「に二回も!?」
「当たり前です。今日のところは以上です。私は一度、屋敷に帰ります」
有無を言わさずそう言い放ち、私は公爵の屋敷を後にした。
ラズワルド子爵邸に帰宅すると、玄関ホールで父が心配そうな顔をして待っていた。
娘が豚公爵に会いにいって、無事に帰ってくるか、気が触れて帰ってくるか。
一応は心配してくれていたらしい。
「ミリー、どうだった……。その、やっていけそうか……?」
普段の厳格な父からは想像もつかないような、優しい声色。
その気遣いが、少しだけ胸に染みる。
しかし、今の私には感傷に浸っている暇はなかった。
「父上、心配には及びません。今からやるべきことが山のようにあります!」
私がそう力強く宣言すると、父は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
意気消沈して帰ってくると思っていたのだろう。
やがて、その表情は、『この娘なにか変なことを企んでいないだろうな……』という、あからさまな怪訝なものに変わった。
失礼な。
私は至って真面目だ。
その日から、私の猛勉強が始まった。
屋敷の書庫に籠り、栄養学、健康、運動生理学に関する書物を、片っ端から読み漁る。
あの巨大な肉塊を、どうすれば効率的に人間に近づけられるのか。
食事制限、運動メニュー、考えなければならないことは山積みだ。
そして、一週間後。
私は再び、ポルコ公爵の屋敷の門をくぐった。
門を抜け、屋敷の玄関に足を踏み入れた瞬間、私は驚きに目を見張った。
(おお!あの鼻が曲がりそうな悪臭が嘘のように消えている!)
たかが一週間、毎日風呂に入っただけだというのに、効果は絶大だったらしい。
屋敷の空気が、明らかに澄んでいる。
すると、奥から執事をはじめとした使用人たちが駆け寄ってきて、私を丁重に迎え入れた。
長年、この屋敷に染み付いた悪臭に耐え忍んできた彼ら。
この一週間での劇的な変化は、まさに奇跡だったのだろう。
この若き子爵令嬢ならば、我らが主君を、この屋敷を、本当に変えてくれるかもしれない。
そんな切実な期待が、彼らの眼差しからひしひしと伝わってくる。
その目は救世主を見るかのように熱っぽく潤んでいる。
(いやいや、自分の主人をビンタして張り倒した女になんでそんな熱い視線を送っているのよ、あなたたち……)
内心でツッコミを入れながら応接室へ向かう。
そこには、そわそわと落ち着かない様子の公爵がいた。
相変わらずの豚男ではあるが清潔感が出てきただけで、不快感はかなり軽減されている。
「よよよくぞきたぞえミリー嬢!次は朕に何を教えてくれるのかえ?」
子犬のように期待に満ちた瞳を向けられた。
私は公爵の前に立つと、その突き出た腹を、人差し指でぷに、と突いた。
「まずは、この体型を何とかするところから始めましょう。これだけ立派に蓄えたのです。一朝一夕になくなるとは思わないでください」
私の言葉に、公爵はごくりと喉を鳴らす。
私は、彼の目をまっすぐに見つめて問うた。
「覚悟は、よろしいですか?」
公爵は、神妙な顔で、しかし力強く、こくりと頷いた。
こうして、豚公爵を人間の公爵へと改造するための、私の地獄の集中訓練。
――そう、ミリーブートキャンプが、幕を開けたのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
「いいですか、公爵。今からあなたはカエルです。豚からカエルになるのです」
私は、公爵家の広大な庭園の一角にあるプールの縁に仁王立ちして宣言した。
言った後で、すぐに内心で自分にツッコミを入れる。
(いや、豚でもカエルでも、どっちにしろ失礼な女よね、私って……)
目の前のプールでは、巨大な肉塊がぷかぷかと浮いている。
その姿はカエルですらなく、打ち上げられたクジラのようだ。
公爵の体重は、常人のそれを遥かに凌駕している。
こんな状態で下手に陸上で運動などさせたら、膝や腰を壊してしまうのは目に見えていた。
そこで私が考えたのが、水中での運動だった。
「これから毎日、最低三時間。このプールで泳ぐか、歩くかしていただきます」
「さ、三時間も!?」
私の非情な宣告に、公爵の顔がサッと青ざめる。
「覚悟は良いと言いましたよね。さあまずは一時間、あちらの壁まで歩いて往復してください!」
私はプールサイドに椅子を運び、監督さながらに腕を組んで公爵の動きを監視する。
最初は文句を言っていた公爵も、私の鬼のような形相に観念したのか、渋々水中を歩き始めた。
水の抵抗は思った以上にあるらしく、その動きはひどく緩慢だ。
一時間後。
ぜえぜえと肩で息をする公爵に、私は声をかけた。
「はい、一時間経過です。一度休憩して、水分補給をしてください」
「おお……! み、ミリー嬢は鬼のようで仏でもあるのだな!」
ほっとした顔の公爵は、すぐさまプールサイドに控えていた使用人に叫んだ。
「おい、朕にいつもの甘いココアを持ってまいれ! キンキンに冷えたやつをな!」
その言葉を聞いた瞬間、私は椅子から飛び上がっていた。
「待ちなさい! さすがにそれは水分補給とは言いません!」
「な、なぜだ! 朕は三時間に一度は甘い飲み物を飲まないと、死んでしまうと教わってきたぞよ!」
「そんな馬鹿なことがあるわけないでしょう! あなたをそんな風に甘やかしてきたのは、どこの誰ですか!」
私は用意していた水差しから、レモンを数切れ浮かべた水をコップに注ぎ、彼に突きつけた。
「飲むのは、これです! 水です!」
砂糖たっぷりのココアを飲めないと分かった公爵は、世界の終わりのような顔で絶望している。
(まさか、飲み物を用意してあげて、こんなに絶望した顔をされるなんて……)
私の善意は、どうやら彼にはまったく届いていないらしい。
夕方。
三時間の水中運動を終え、くたくたになった公爵は、プールサイドで完全に伸びていた。
その姿は、やはりクジラにしか見えない。
「よく頑張りましたね、公爵。それでは、お楽しみのお食事にしましょうか!」
私がそう声をかけると、「食事」という単語に反応した公爵は顔をぱあっと輝かせた。
しかし、食堂に運ばれてきた食事を前にして、その表情は再び絶望に染まる。
テーブルに並べられたのは、蒸した鶏胸肉と山盛りの野菜サラダ、そしてスープ。
「これは……? 朕の食事はどこにあるのだ?」
「目の前にあるでしょう。私があなたの栄養を計算し尽くした、完璧なメニューです。これからの食事はすべて私が管理します!」
「そ、そんな……。こんな量では、が、餓死してしまう……」
「餓死なんかしません! これが人間の適正な量です! 今までが異常だったんですよ!」
私の言葉に、公爵はがっくりと肩を落とし、涙目でサラダを口に運び始めた。
そして、その日の夜。
私は「明日の朝、また伺います」と言い残して、公爵の屋敷を後にした。
……と、見せかけて。
私は馬車を屋敷の陰に隠させると、こっそりと庭園の茂みに身を潜めた。
案の定、だった。
私が帰ってから一時間も経たないうちに、公爵の部屋の窓明かりが灯り、使用人が慌ただしく出入りするのが見えた。
私は音を忍ばせて屋敷に侵入し、厨房へと向かう。
そこでは、料理人たちが公爵の命令で、大量の肉を焼いていた。
「――何をしているのですか、公爵」
私の静かな声に、つまみ食いをしようとしていた公爵の巨大な体が、びくりと跳ねる。
「み、ミリー嬢!?なぜここに!帰ったはずでは!」
「あなたがちゃんと節制できているか見に来ました。案の定料理を追加で食べようとしていましたね」
私の冷たい視線に、公爵の顔がみるみるうちに青ざめていく。
私は有無を言わさず彼の腕を掴むと、その巨体を引きずるようにして彼の寝室へと押し込んだ。
そして、ドアの外から、あらかじめ用意させておいた外鍵をガチャンとかける。
「こちらも命がけでやっているんです! 今晩は、ここから一歩も出しませんから!」
「そんな!ひどいぞよミリー嬢!本当に餓死してしまう!開けてくれえ!」
餓死なんかするか、餓死なんか。
部屋の中から聞こえてくる絶叫を無視し、私は厨房にいた使用人たちに向き直る。
「いいですか、皆さん。今後、公爵様が夜中に食事を要求しても、決して応じてはいけません。これは公爵様ご自身のためなのです」
私の気迫に押された使用人たちは、青い顔でこくこくと頷くしかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それからというもの、私は毎日、朝から晩まで公爵に張り付いた。
私が四六時中、鬼の形相で監視していると知った公爵は、さすがに夜中に「餓死するぞよ!」と喚き散らすことはなくなった。
その代わり、日を追うごとに公爵の目はうつろになっていった。
時折、私の顔を盗み見ては、びくりと肩を震わせ、その瞳は怯えたように彷徨う。
まるで、蛇に睨まれたカエルだ。いや、豚か。
私のスパルタ教育は、確実に彼の精神に恐怖を刻み込んでいるらしい。
上々の滑り出しだ。
ある日の水中訓練の後、私はプールサイドで休む公爵に告げた。
「さあ、公爵。肉体改造も順調に進んでいるようですし、次の改善といきましょうか」
その言葉に、公爵は「まだ何かあるのか」と言いたげな、絶望に染まった青い顔で私を見た。
「公爵の、そのおかしな喋り方を少し治しましょう。そもそも、『朕』とか『ぞよ』とか、一体どこで覚えてきたのですか、その言葉は?」
私の問いに、公爵は少しだけ遠い目をして答えた。
「それは、今は亡き母上が……。『あなたのような選ばれし人間は、特別な言葉を遣うのです』と、そう教えてくれたぞよ」
「では、私と初めてお会いした時のあの下品な会話は?とても高貴な人間の会話とは思えませんでしたが?」
「それも……母上が、朕が少し下品な話をするととても楽しそうに笑ってくれたのだ。だから、女性は皆、ああいう話が好きなのだと……」
聞けば、三時間に一度甘いものを飲まないと死ぬとか、食事は満腹になるまで目一杯食べるのが幸せだとか……
そういった奇妙な教えのすべてが、彼の母親からもたらされたものだという。
(うーん……この現状は、愛情という名の、偏った教育の賜物だったというわけね……)
これでは、頭ごなしに怒っても仕方がない。
むしろ、根本的な認識から変えていかなければ。
そう考えを改めた私は、その日から、新たなメニューを訓練に加えることにした。
「公爵、今日はお仕事の話を聞かせていただけますか?」
水中訓練の後。
私は公爵と二人きりで、庭園のテラスでお茶をする時間を設けるようにした。
もちろん、彼が飲むのは砂糖の入っていないハーブティーだ。
最初は戸惑っていた公爵も、私が彼の領地の産物や財政について質問をすると、少しずつ、ぽつりぽつりと話してくれるようになった。
「朕の……いや、私の領地では、鉄鉱石が採れるのだ。それを隣国に輸出することで、莫大な利益を……」
「まあ、素晴らしいですわ。そのお話、もっと詳しくお聞かせ願えませんか?」
私は、彼が『朕』と言いかけたら、すかさず『私』と訂正させ、言葉に詰まったら助け舟を出す。
好きな楽曲や花の話、幼い頃の思い出。
私たちは、毎日、本当に他愛もない話を何時間も続けた。
それは、彼の言葉遣いを矯正するため。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、彼の話を聞くうちに、私も少しずつ、彼のことを知っていった。
彼が本当はとても思慮深く、領民のことを第一に考える、心優しい領主であることを。
私の地獄の集中訓練は、こうして、少しずつ形を変えながら続いていくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
泣き言一つ言わず、来る日も来る日も公爵家へと通い続ける私。
月に一度、我が家に帰ると父が不思議そうな顔で私を出迎える。
「ミリー、お前、なんだか活き活きとしていないか?」
そうだろう。死を覚悟した絶望の淵から、今は「豚を人間に変える」という、とんでもないやり甲斐を見つけてしまったのだから。
「それで、公爵との縁談は……その、どうなっているんだ?」
父が探りを入れてくるが、私はいつも笑顔ではぐらかした。
「公爵との仲が深まるまで、もう少しだけ待ってくださいませ!」
そう言って、有無を言わさず話を切り上げ、また公爵家へと向かう。
公爵家からの潤沢な資金援助のおかげで、我が家の財政も持ち直したらしく、父はそれ以上何も言えずにいるのだった。
そんな日々が、一年近く過ぎようとした頃。
痺れを切らした父を伴い、私は正式な婚約の話を進めるべく公爵家を訪れた。
応接室で待っていると、すらりとした長身の紳士がにこやかな笑みを浮かべて入室してきた。
その姿を見た父は、驚いたように立ち上がり、深々と頭を下げる。
「これは、これは……。公爵閣下にはいつも娘がお世話になっております。閣下は、ポルコ公爵の弟君でいらっしゃいますかな?」
その言葉に、私は思わず噴き出しそうになるのを必死でこらえた。
目の前にいる、見違えるように精悍になった男性こそが、ポルコ公爵その人なのだから。
「ち、父上、何を……。この方こそが、ポルコ公爵ですわ」
「え? そ、そんな馬鹿な……。私がお会いした公爵は、もっと、その……」
父は言葉を失い、目の前の男性と私を交互に見比べて、金魚のように口をパクパクさせている。
そう、一年間のミリーブートキャンプはそれほどの変貌を彼にもたらしたのだ。
その日の打ち合わせで、公爵は、久方ぶりに社交界に復帰し、そこで私との婚約を正式に発表したいと言い出した。
しかし、私はその提案に、一つだけ条件を付け加えた。
「その社交界で、もし公爵のお眼鏡にかなう女性が現れたなら、いつでもこの婚約を破棄してくださって構いませんわ」
「な、ミリー!お前何を!」
慌てる父を横目に、私は公爵を見つめる。
公爵は、なぜか少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
けれど、私には確信があった。
そして、迎えた運命の社交界。
会場の扉が開かれ、ポルコ公爵がその姿を現した瞬間、会場中のざわめきがぴたりと止んだ。
「え……誰……?」
「まあ、なんて素敵な方……。今まで、あのような方がいらっしゃったかしら?」
周囲の女性たちが、うっとりとため息をつきながら、その視線を一身に集めている。
そう、今の彼は、もはや豚公爵ではない。
無駄な脂肪が削ぎ落とされた体は、騎士団のように引き締まり、長身をさらに際立たせる。
頻繁な入浴で髪はサラサラと輝き、清潔感が溢れていた。
私は、壁際で一人、その光景に満足げに頷く。
(そうよ。私の見立ては、間違っていなかった。彼は美形に生まれ変わったんだ)
やがてその人物があの豚公爵だと知れると、会場は再び大きな驚きに包まれた。
彼は、次から次へと言い寄ってくる令嬢たちに、にこやかに、しかし、丁寧な態度で応じている。
そのちやほやされている様子を壁際から眺めながら、私は思う。
(これだけイケメンで大富豪。当然の結果だわ。彼が血の滲むような努力をした証よ。これだけ引く手あまたなのだから、男勝りの私なんかよりもっと可憐な女性と結ばれるべきだわ)
会話を重ねる中で、彼が不器用なだけでなく、領民を想う心優しい領主であることも知ってしまった。
だからこそ、彼にはもっと相応しい人がいるはずだ。
――訓練の途中で、彼に恐怖すら感じさせてしまった私よりも。
しかし、そんな私の感傷を打ち破るように、公爵は私の元へ歩いてくる。
なんだろう?
令嬢たちの輪を抜け、まっすぐに私の元へと歩いてきた。
そして、私の手を取り大勢の聴衆の前で深くひざまずいたのだ。
「ミリー嬢。この一年、本当にありがとう。君は、私の幸運の女神だ」
え、なんで?幸運の女神?私が?
豚と罵り、鬼のように訓練を強いてきた私が?
「君がいなければ、私は一生、蔑まれた豚のままだっただろう。こんな私に根気強く付き合ってくれた君以外、もう考えられないんだ」
だって、私はあなたを……。
「君からすれば、私はまだ、あの頃の豚のような印象が抜けないかもしれない。だが、私の妻になる人は、君しか考えられないんだ。……駄目だろうか?」
その真摯な言葉に、私の目から涙がこぼれ落ちそうになった。
一時は、彼に恐れられているとさえ感じていたのに。
(あれだけ失礼なことをしたのに……意外と、嫌われていないのね……)
だめだ、泣くな、ミリー!
ここでちゃんと返事をしないと、彼に失礼だわ!
込み上げる感情を抑えきれず、俯いて涙を堪えていると、不意に横から甲高い声が割り込んできた。
「まあ、ポルコ公爵とのご婚約がお嫌で泣いていらっしゃるの?でしたら私ではいかがかしら?」
それを皮切りに、周りにいた令嬢たちが次々と公爵の伴侶に名乗りを上げ始めた。
……なんだ、こいつら?
その瞬間、私の頭の中で何かがカッと音を立てて燃え上がった。
私は、まだひざまずいている公爵の腕をぐいと引き寄せ、その唇に、自分の唇を重ねた。
そして、彼の体を片腕で抱きしめながら、周囲の女たちに向かって、高らかに言い放つ。
「この人は、私と婚約しているの! 誰にもあげませんわ!」
――ああ、今思い出しても、なんてはしたない返事だったのだろう。
この日のことを思い出すたびに、私の顔はきっと熟れたトマトのように真っ赤になっているに違いない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの劇的な社交界の後、私たちは周囲からの温かい祝福を受け、盛大な結婚式を挙げた。
お転婆娘と私を揶揄していた父が誰よりも嬉しそうに涙ぐんでいたのは、ここだけの話だ。
そして、幸せな日々が過ぎていく。
「ミリー、少し休憩するよ」
庭園のプールサイドで読書をしていた私に、夫となった彼が声をかける。
あの一年間、毎日毎日泳ぎ続けたせいか、すっかり水泳が趣味になった彼は、休日になるとこうしてプールで過ごすことが多くなった。
水から上がった彼の体は無駄な肉が一切なく、しなやかな筋肉に覆われている。
「ええ、ありがとう。あら、あなた。また少し痩せたのではないかしら?」
「君の管理する食事が美味しくて、つい食べ過ぎてしまうからな。その分、運動しないと君に叱られてしまう」
そう言って悪戯っぽく笑う彼の顔には、もうかつての豚公爵の面影はない。
私は彼の隣に腰掛けると、用意しておいたフルーツウォーターを手渡す。
「ふふ、当たり前です。あなたの健康管理は妻である私の役目ですもの」
あの地獄の訓練の日々が終わっても、彼の生活習慣を管理するのは変わらず私の仕事だった。
でも、それはもう義務なんかじゃない。
愛する人がずっと健康で、格好良くいてほしいという、ささやかな願いからくるものだ。
彼は私の手を取り、その甲に優しく口づけを落とす。
「君と出会えて、私は本当に幸せだ」
その言葉と、どこまでも優しい眼差しに、私の心は温かいもので満たされていく。
豚小屋に嫁がされそうになった、あの絶望の日々が、今となっては遠い昔のようだ。
決死の覚悟で掴み取ったこの幸せを、私はこれからも、ずっとずっと大切にしていこう。
そう、心に誓うのだった。