愛した人のために全てを捧げた女の子の話
初恋、というものでした。おそらく。
あの、刹那とも呼べる瞬間が、わたくしの中のどこか大切な部分に焼き印をつけた。
今は全て崩れて、なくなってしまったけれど。大切な思い出にすることもできなくて。記憶の奥底にしまい込んで埃をかぶってしまうことを祈っていたのに、それも出来ずにいるけれど。きっと、いつか忘れられると信じて。
学園に入学してまだ間もないとき。散ってしまった桜を恋しく想いながら、窓からの風に吹かれて、廊下を歩いていた。ホームルームが終わってすぐだったことで、同じように教室から出てきた生徒が沢山いて、「わたくしにもお友達、できるかしら」と手を震わせていた。
そんなとき、その人混みの先が鮮明に見えた。太陽の光が射して、揺れる黒髪を照らす。無邪気に大口を開けて、ご友人と笑いあっている、なんでもないその光景が、その時のわたくしには、どうしようもなく輝いて見えた。
一目惚れ、だったのだと思う。
そしてその日。わたくしはもうひとつ、運命的な出会いを果たした。木から落ちてしまいそうになっていた、絹のような黒髪の少女。無謀にも、それを咄嗟に受け止めようとした。結局支えきれずに、お揃いの情けない声を出して、ふたり同時に地面と仲良くなる。血を流す膝も掌も痛かった。だけれど、お腹の底から笑いが込み上げてきて、はしたなく大口を開けて笑ってしまっていた。その後事情を知った保健室の先生から、軽傷で済んだのは奇跡ですよ、とこっぴどく叱られてしまった、わたくしたち。
それは、初めての友達との出会い。艶やかな黒髪に、雪のように白い肌。彼女の頬はマシュマロのように柔らかく、触り心地が良くて、こちらの頬が蕩けてしまいそうになる。暇を見つけてはその頬に触れるわたくしに、呆れたように笑う、大切なお友達。そんな日常に、わたくしは満たされていた。
空が赤く染まって、睡魔が抜けてきた頃、ふたりきりの教室。少し目を泳がせたあと、口を開いた彼女。「ミリィ……好きな人は、いる?」と、小首を傾げて聞いてきた。
その言葉に、わたくしは瞬時に顔を熱くして、言葉を詰まらせる。だけれど彼女、ルリの期待するような視線に観念し、「ええ……」そう白状した。興奮したように頬を染め、鼻息を荒くし、相手は誰だと問い詰めるルリの勢いに負けて、「……ルークさん」と消え入るような声で告白する。
そんなわたくしに彼女は目を見開き、口を両手で押さえたあと、黒水晶のような瞳を細めて、柔らかく笑って見せた。「応援するね!」と、鈴の鳴るような声で。
それが真っ赤な嘘だったことに気づくのは、それからすぐのこと。あの空の色も、それを示唆していたのかもしれない。
放課後、急ぐようにどこかへ向かうルリが目についた。いつもこの時間、いなくなってしまうルリ……どこに行っているのか、気になって聞いたこともあるけれど、いつもはぐらかすばかりで、真剣には答えてくれなかった。「ごめんなさい」そう心の中で呟いて、その後を追った。興味本意だった。もしかしたら、ルリも誰かお好きな殿方が……そう考えると頬が熱くなるのを感じ、口元を緩めて、愛おしい少女の背中を見失わないように追いかけた。着いたのは裏庭。そこに立てられた大きな木の幹の後ろに隠れて、期待に波打つ胸に手をあてて、そっと顔を覗かせる。
そこで見たのは、恋人同士のように抱き合うルリと——ルークさん。その光景から目を離せず、震える手を口に押し当て、必死に声を押し殺していたそのとき、絹のような黒髪が揺れた。
「あ……」
——ふたりの影が、重なる。その瞬間、わたくしの中の大切な何かが弾けた。そこから逃げるようにして、人が沢山いて、騒がしく、そして青春の汗が流れる校庭に向かって全力で走った。乱れる髪も流れる汗も、歪な表情もぼやける視界も、なにも気にせずに。
あの地獄から逃げ、息を切らして見上げた空の色は、黄卵のような色をしていた。この空を、あの黄身のようにぐちゃぐちゃにできたらいいのに。そしてわたくしも……。
「ぐちゃぐちゃにされて……いなくなってしまえたらいいのに」
心だけじゃない、身体もぐちゃぐちゃにされて、何も考えられないようにされて、そうしたら……この胸の痛みも、忘れられるのかしら。そうして込み上げてきた涙を抑えられず、声を出して泣いた。
「もう恋なんてしないもの!」と、子供のように、人目も憚らず、泣き喚いた。そんなわたくしを、おかしな人間を見るような目で遠巻きに話している運動着姿の彼ら。きっと、冷静になったとき、恥ずかしさで死んでしまいたくなるのでしょう、後悔するのでしょう。だけれど今は、今だけは、みっともなく涙をこぼしてしまうことを、お許しください。
——今思い返せば、あの時の涙のおかげで、わたくしは今も壊れずに生きていられているのだと思います。
時間薬、とはよく言ったものですね。ルリとルークさん、あのおふたりと関わることはあれ以降なくなり、学園卒業後は顔も合わせていません。あのとき、もう恋なんてしないと誓ったわたくしですが、卒業後暫くして、わたくしを婚約者にと熱烈な愛を語ってくださる殿方が現れ、今では幸せな結婚生活を送っています。子宝にも恵まれ、愛しい我が子、そして愛しい夫と共に過ごす全ての瞬間が、愛おしくて仕方がありません。あの辛く悲しい記憶が埃をかぶる日がくるのも、そう遠くはないのかもしれません。
それを遠くから見つめる、ひとりの女がいた。糸の出た、色褪せた粗末なワンピースを身に纏っている。ミリィの住む豪邸の大きな硝子窓の向こうを、眩しいものを見るように見つめる。その黒水晶のような瞳を細めて、こう言った。
「幸せに、なったんだね……」
そう一筋の涙を流して満足げに笑うと、晴天の青空を見上げてひと息つく。
「これで、よかったんだ。きっと」
どこか諦めの滲んだ、掠れた声で呟いた。
くるっ、と背を向けると、ゆっくりと歩き出した、艶やかな黒髪の女。いたずらな風がその髪を攫って、雪のように白いその肌に掠れる。揺れて視界を遮る黒髪をすくって、耳にかけた。それによってあらわれた、その頬には大きめのガーゼ。ワンピースの袖から覗く腕には、無数のあざが見える。
そのとき、更に強い風が吹いた。懐かしい花の香りを運んでくる。それを嗅いだ瞬間、なにかを思い出したかのように足を止め、後ろを振り返った彼女。その速さに、黒髪が音を立てて舞う。八の字になった眉に瞳を潤ませながら、硝子の向こうのミリィに震える手を伸ばした。
(母親になったミリィ。子供と笑い合うミリィ。幸せになったミリィ。わたしを……いつか、忘れてしまうミリィ)
その手を力なく垂らすと、こう言った。
「さよなら、わたしのたったひとりの、愛した人。……時間薬、わたしには効き目が悪かったや」
かつて、鈴の鳴るような声で話したその女性は、今は掠れた声で困ったように笑う。