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最期の晩餐  作者: 中め
1/5

鯖の味噌煮

「どう? 奈々未。仕事、楽しい?」


同じ大学の一学年上だった仲良しの先輩・美知さんに「パスタ食べに行かない?」と誘われ、仕事が終わるやいなや、ウキウキしながら最近オープンしたばかりのオシャレなイタリアンへ行き、長すぎてメニューを閉じた瞬間に忘れた名前のパスタを「何だかよく分からないけど美味しいね」「オシャレな味がするね」などと言いながら食べていると、未知さんが私の仕事の様子を伺ってきた。


「至って普通ですね」


 大学を卒業して以来、私は管理栄養士として給食センターで働いている。仕事内容に不満はないし、人間関係も悪くない。『給料がもう少し良ければいいのに』とは思うけど。


「そっか……」


 美知さんが、つまらなそうな表情を浮かべながら、パスタをクルクルとフォークに巻き付けた。


この人、私の仕事が上手くいっているのが面白くないのか? さては……。


「美知さん、仕事で何かありました?」


 美知さんも管理栄養士の仕事をしていて、ホスピスで働いている。きっと職場で嫌なことでもあったのだろう。


「大アリ‼」


 美知さんが、パスタを纏ったフォークの先端を、パスタよりも存在感を発揮している、トッピングのはずだが主張の激しい厚切りベーコンにグサリと刺した。


「話、聞きますよ」


 爆発寸前の美知さんの愚痴を聞いてあげるべく、「呑みながらにします?」とドリンクメニューを手渡す。


「大事な話だから飲むならソフトドリンクで。故に奈々未もソフトドリンクで」


 美知さんが【結構です】と言わんばかりに、手のひらを私の方に向けた。


【ソフトドリンク】を二回も言うあたり、「間違ってお酒頼んじゃったー。エヘヘ」などというおふざけは絶対に許されないのだろう。


「私、今の仕事は物凄く好きなのよ。食ってやっぱ幸せじゃん。最期に患者さんの食べたいものを作って差し上げて、喜んでもらえるって、めっちゃ尊いじゃん」


 熱く語り出した美知さん。


「完全に同意ですが、だったらベーコンをあんなに乱暴に扱わないでくださいよ」


「失敬失敬。尊い仕事って、精神的に辛いこともあってさ。また新人の管理栄養士が辞めちゃってさ。新卒二人入れて、二人とも辞めた。看取りケアすることが多い職場だからさ、自分が関わった患者さんが亡くなっていくのが辛いって。常に【最期の食事】を意識して、患者さんひとりひとりの要望をじっくり時間掛けて聞くからさ、患者さんの思い出だったり人生だったりに触れてしまうと、どうしたって情が湧いちゃうからね」


 辞めていった後輩の気持ちを悟りながらも、辞めて欲しくなかっただろう美知さんは、「ふぅ」と残念そうに小さな息を吐いた。


「でも、やりがいある仕事だと思いますけどね」


 ホスピスで働いたこともないくせに、知ったかぶって相槌をしてみると、


「そう‼ めっちゃやりがいある‼ だから、奈々未もウチのホスピスで一緒に働こうよ‼ 今、信じられないほどに人手不足なの‼」


 美知さんが食事の手を止め、両手で私の手を握った。


「イヤイヤイヤイヤイヤ……」


 椅子を後ろに引きながら後ずさり。確かに酒など飲まなくて正解だった。酒なんか飲んで、気が大きくなって「はいはーい。了解でーす」なんて安易に返事してしまったら大変なことになっていたわ。危ない危ない。


 美知さんの仕事に興味がないかと言われればそうではないが、今の仕事に苦を感じていないのに、転職する気になれない。ここは断っておいた方が良いだろう。なのに、


「お願いお願い‼ 私、奈々未の頼み事、いっぱい聞いてきたよね⁉ 今度は奈々未が助けてよ‼」


 両手を合わせて懇願してくる美知さん。


 確かに美知さんには滅茶苦茶お世話になっている。大学時代、幾度となく試験プリをもらったし、今付き合っている彼氏も美知さんの紹介だ。


「……えぇー」


 


 断れなかった。こうして私は、美知さんが働いているホスピスに転職することになった。




「ここが私たちのデスクがある、栄養管理室でーす」


 転職初日、美知さんにホスピス内を案内してもらう。


「アレ? 他の管理栄養士さんはどこに?」


 美知さんによって開けられた栄養管理室のドアの向こうを覗くと、誰もいなかった。


「【信じられないほどに人手不足】って言ったじゃーん。管理栄養士は、私と奈々未の二人体制でーす」


 美知さんが、二人の【二】なのかVサインなのか分からないが、人差し指と中指を立てて私に笑いかけた。


「イヤイヤイヤイヤ、言ってたけども‼」


 驚愕のあまり、目を見開く。そして、「そりゃ、少々強引にでも私を連れてきたくもなるわな」と変に納得した。


「で、調理場がここね」


 次に案内された調理場には、


「どうも、料理長の林田です」


 仁王立ちで何となく頑固そうな五十台後半の男性と、


「こんにちはー。調理助手の森山です。よろしくお願いします」


 優しそうでとても感じの良い四十台半ばの女性がいた。


「……美知さん、まさかとは思いますが……」


 調理場を隅々まで見渡しても、いるのは林田さんと森山さんの二人だけだった。


「ウチは少数精鋭‼ 今日からこの四人で頑張っていきましょう‼ 大丈夫‼ このホスピスは二十床だし、やれるって‼」


 美知さんが、パシンと私の背中を叩いた。嫌な予感は、やはり的中だった。


「……あの、ブラストチラーはどこですか?」


 まぁ、病床数が二十なら、クックチルだったら無理な話でもないかと、キョロキョロと調理場を見回して急速冷凍庫を探すが見当たらない。


「ないよ。ウチはクックサーブだから」


 首を振る美知さんの隣で、


「アンタ、患者さんに作り置きを出そうと思ってたのか?」


 林田さんが睨みを効かせた。


「クックチルは色んな病院や介護施設で取り入れられてますし、味が落ちるわけでもない。その上、急速冷凍すれば細菌の繁殖も防げて安全面の心配もない。食事の時間に合わせて調理をするのではなく、予め作っておいた料理を食事の時間に温めなおす方が、無理なく仕事が回ると思います。この少人数だったら、クックチルを導入した方が良いと思います。院長に打診してみませんか?」


 四人で一日六十食はそんなに多くはないけれど、学校給食と違って、一般食だけを作れば良いわけではない。患者さんに合わせてきざみ食・ミキサー食・ゼリー食なども作ることになるだろう。学生時代に行った病院実習の大変だった記憶が蘇り、「人員確保が難しいのであれば、クックチルは必須だ」と三人に訴える。


「今日来たばかりの新参者が偉そうに何を言ってるんだ。料理は毎回真心を込めてその都度作って提供するもんなんだよ。たった六十食で泣き言言いやがって」


 不快感を露わにした林田さんは、「便所行ってくる」と調理場を出て行ってしまった。


 転職初日にして、盛大に嫌われてしまった。


「クックチルはねぇ、前に一回提案されたことがあるのよ」


 森山さんが「気にしない気にしない」と言いながら私の肩を撫でた。


「ありましたねー。林田さん、腕は確かだし仕事も真面目なんだけど、ああいう性格だからねぇ、他の調理師さんとぶつかっちゃって、続々と調理師さんが辞めて行っちゃって。その時にクックチル導入しようか? ってなったんだけど、林田さんが大反対して」


 美知さんが「ねー」と森山さんに同意を求めると、森山さんがしょっぱい顔をしながら「ねー」と頷いた。


「ちょっと待ってください。新卒の管理栄養士が辞めたのって……」


 オイオイ、話が違うじゃないか。林田が原因なんじゃないのか? と美知さんに白い目を向けると、


「新人が辞めたのは、本当に前に話した理由。嘘吐いてない。それに林田さん、頑固で取っ付き難いから誤解され易いけど、悪い人じゃないよ」


 美知さんが「そんな目で見るな」と私の視線を遮るように、私の目の前に手のひらを翳した。


「印象最悪ですけどね、林田さん」


 荒めの息を鼻の穴から盛大に吹き出していると、


「まだごちゃごちゃ言ってんのか? さっさと仕込みするぞ。手を動かせ、新人」


 用を足し終わり、手指の消毒を済ませた林田さんが戻ってきた。


「…………」


 返事をするのが癪に障り、生意気にも無言で作業に取り掛かる。そんな私の態度に、美知さんと森山さんが困った顔をしていたのは勿論気づいていたが、林田に腹が立ってにこやかに仕事が出来る心情ではない。


 四人で朝食の支度をし、その後は病棟訪問、調理場に戻って昼食を仕込み、手が空いたところで食材の在庫管理等の事務処理、また調理場に戻って夕食の準備……。


「……ふぅ」


 あまりの忙しさに、デスクに突っ伏し転職を若干後悔し始めていると、


「奈々未、もう上がっていいよ」


 美知さんが私の肩に手を置いた。


「何言ってるんですか? まだ全然献立作ってないじゃないですか」


 調理場で作業をしながら、『献立を作る時間っていつなの?』と首を傾げていたら、就業時間がやってきて、初日から残業が決定するという悪夢。


「私が作っておくから、奈々未は帰りな。お疲れ様」


 美知さんが「また明日ね」と手を振った。


「一人でやるなんて大変すぎるでしょ。一緒にやりますよ」


 両手でほっぺをパチンと叩き、気合を入れ直すと、


「いいって。帰りなって。折角奈々未に来てもらえたのに、働かせすぎて身体壊されたり、このホスピタルに嫌気が刺されたりして辞められたら辛いもん。奈々未が転職してくれて本当に助かった。ありがとうね。後は私がやるから気にしないで帰って」


 美知さんが「いいからいいから」と私の頭を撫でた。


「……美知さん、毎日こうなんですか? 毎日残業してるんですか? こんな働き方、やっぱり変ですよ。ダメですよ。大体、労働基準法の残業時間、軽く超えるでしょ、こんな仕事の仕方じゃ。どうしてるんですか?」


「……まぁ、サービス的な?」


 美知さんが言いづらそうにボソボソ話す。


「ブラック企業かよ。闇すぎる。取り合えず、一緒に献立作成するので帰りません。美知さんの負担を減らせなかったら、私が来た意味ないので」


 パソコン手を伸ばし、「さっさと片づけてやる」と画面を睨みつける。


「ごめんね。助かる。ありがとう、奈々未」


 美知さんが私に向かって手を擦り合わせた。


 こんなんで良いのだろうか。イヤ、良くない。良いわけがない。でも今はそれどころではない。献立を作るのが先だ。


 猛烈に働き、帰宅した途端に力尽き、お風呂にだけは辛うじて入ったが、夕食も食べずにベッドに飛び込み爆睡した。めちゃめちゃ疲れた。これが毎日なのかと思うと、心が折れそう。


 翌日職場に行くと、やはりとんでもなく忙しかった。こんなの絶対におかしいよ。と思いながら、今日も病棟訪問をする。


今日の病棟訪問は、明日のオーダー食の聞き取りをしなければならない。ここのホスピスは週に一度、栄養価を無視して患者さんの食べたいものを夕食に出すオーダー食がある。亡くなる前に、患者さんの食べたいものを提供しようという試みだ。元々は月に一度、お寿司やうな重など普段より豪華な食事を出すイベント食をやっていたらしいが、林田さんが週一でリクエスト食を出しているホスピスの特集をテレビで見て感銘を受け、何故か【オーダー食】と名前を変えて取り入れたらしい。森山さん曰く『林田さん、【リクエスト食】に著作権があると思ってるんじゃない? あはははは』とのこと。そんなオーダー食のメニューを聞きまわり、林田さんと森山さんに伝える。


「下川さんが鯖の味噌煮で、楠木さんがハンバーグで……岡村さんがサモサ。サモサ? 何だ、サモサって」


 林田さんが、私が書いた聞き取りメモを見ながら眉間に皺を寄せた。


「給食に出てきませんでした?」


 指で大きさを表しながら「このくらいの三角の揚げ物です」と林田さんに伝えるが、


「知らん」


「時代が違うのよー。私たちの頃はそんなハイカラなものは給食に出なかったわ」


 森山さんも存じ上げない様子。


「これです。インド料理らしいです」


 美知さんが、ググってタブレットにサモサを表示した。


「そんなに難しくなさそうだな。作れそうだ」


 林田さんがタブレットを凝視しながらふむふむと頷いた。


 このオーダー食はいつも以上に気を遣わなければならない。患者さんが死ぬ前に食べたいものだから。ただ単に患者さんの好物というだけではなく、思い出が詰まっていることもあるだろう。美味しくて患者さんのイメージに近い味付けの料理を、予算内で作らなければいけない。


普段の業務でてんやわんやの大騒ぎ状態なのに、オーダー食の調理……。どうなってしまうのよ。と、気が最底辺まで沈む。




 そして迎えたオーダー食当日。


 患者さんの昼食を作り終わり、夕食のオーダー食の仕込み前に、自分たちの昼食を済ますべく、四人で厨房の隣の小部屋に集まる。


 ここは有り難いことに、林田さんが賄いを作ってくれるので、持参する必要がない。ちなみに今日は、野菜の切れ端で作ったかき揚げ丼だった。


「うーまー」


 疲れた身体に染み渡る、林田さんの料理。林田さんは、美知さんが言っていたように腕は超一流だ。患者さんにも評判が良い。ただ、自己中というか我が強いというか、他人の意見に耳を貸してくれない。私がクックチルの【ク】の字でも発しようものなら、米粒よりも大きい唾が飛んできそうなほどの舌打ちをかまされる。でも、こんな生活を続けるのはしんどい。


クックチルがダメなら増員して欲しいけど、林田さんが堅物すぎて難しい。森山さんが残ってくれたことが奇跡レベル。森山さんは本当に有り難い存在。私は森山さんのことを天使だと思っている。こんな激務の中で、いつもニコニコ笑ってくれている森山さんのおかげで、ピリつく気持ちが少し和むのだ。ここに森山さんがいなかったら……ゾッとするわ。ブルっと背筋を震わせながらもかき揚げ丼を喫食すると、


「ちょっと電話してきまーす」


 今日も笑顔の森山さんが、スマホを片手に部屋を出て行った。


「ちょっと歯磨き行ってきまーす」


 何の気なしに私も席を立ち、森山さんを追うように小部屋を出た。


 職員トイレに行こうと通路を曲がると、誰かと電話をしている森山さんの背中が見えた。


「ごめんねー。やっぱりお母さんは一緒に行けないわ。有休、取れそうにないもの。みんなで旅行楽しんできて。お土産、期待してるね」


 盗み聞きをしようと思ったわけではないが、森山さんの会話が耳に入ってしまった。察するに森山さんは、仕事の為に家族旅行を断ったのだろう。


 明るい声で話していた森山さんが、電話を切った途端に「はぁ」と残念そうな溜息を吐いた。


「森山さん。ごめんなさい、立ち聞きしてしまいました。旅行、行ってきてください。有休は労働者の権利です。遠慮せずに使うべきです」


 聞かなかったことになど出来なくて、思わず森山さんに声を掛けた。


「あらららら。聞かれちゃってたのね。行きたいのは山々なんだけど、前に働いてた社員さんが旅行に行こうと三日間の有休を取ろうとした時にね、林田さんが『アンタは健康で元気なんだから、旅行なんかいつでも行けるだろ。ここにいる患者さんは余命あと僅かなんだよ。そんな患者さんの食事を何だと思ってるんだ‼ 蔑ろにするんじゃない‼』って激怒して……。そんなこと言われたら、何も言い返せないよね」


 森山さんが切ない顔をしながら笑った。


「イヤイヤイヤ、こんな状況になったのは林田さんの暴君が原因じゃないですか」


「暴君……。林田さんね、奥様を癌で亡くされてるのよ。何とかして助けたくて、キツイ抗がん剤治療を選んだそうなの。そしたら奥様、あっと言う間に食欲失くされて、栄養補給は最期まで点滴だったんだって。林田さん、『自分は料理人なのに、最期に美味いもんを食わせてやることも出来なかった』って凄く後悔してらして……。だから林田さん、奥さんが亡くなるまで持っていた自分の店を畳んでここに来たんだって。奥様のような患者さんが亡くなる前に、せめて自分の好物を作って差し上げたいって一生懸命なのよ」


 心優しき森山さんは、林田さんの気持ちを汲み取り、有休が取れないことに納得しているようだった。


 林田さんの気持ちは分かる。でも、このままでは森山さんが我慢をし続けなければならない。


 何だかなー。と腑に落ちないまま夕食の時間になった。


 誰かコピーロボットを作ってくれないだろうか? 若しくは、実は生き別れた双子の妹がいて、その子も栄養士か調理師になっていて、「お待たせ‼ 助けに来たよ‼」とか言いながら突然現れたりしないだろうか? などという妄想が脳内を駆け回るほどに忙しい。  オーダー食を出し終わった頃には白目を剥いた。それほどまでに頑張って作ったオーダー食の食べ残しチェックをすると、


「下川さん、一口も食べてない」


 鯖の味噌煮が丸々残っていた。


「体調良くなかったのかな? 箸をつけてないってことは、口に合わなかったってわけではないだろうしね。心配だね」


 美知さんが、眉間に皺を寄せながら鯖の味噌煮を見つめた。


「……そうですね」


 ホスピスは、積極的な治療をする場所ではないから、患者さんの病気が治ることはない。食べられなくなるということは、迫りくる死を感じて喉の奥がツンとする。


 翌日、気に掛かっていた下川さんの部屋へ訪問すると、


「小腹が減ったなー。今日の昼飯なぁに?」


 下川さんがお腹を摩りながら私に笑いかけた。私の心配を余所に、下川さんは元気だった。


 下川さんは、『この人、八十年間誰にも嫌われたことがないんだろうな』と思うくらいに、優しくて笑顔がチャーミングな可愛いおじいちゃんだ。


「今日は肉じゃがですよー。お元気そうですね、下川さん。昨日、鯖の味噌煮を残されてたから、どうしたのかなー? って気になってたんですよ。もしかして、生臭かったですかね? ごめんなさい」

 きっと臭いが原因で食べられなかったのだろうと、下川さんに両手を合わせると、


「違うよー。昨日、なーんか体調悪くてね、二時間くらいしたら回復したんだけど、その頃にはもう夕食下げられちゃっててさー。夜、お腹が空いて我慢出来なくて、娘が置いていったカステラ貪り食っちゃったよー。食べたかったよー、鯖の味噌煮ー」


 下川さんが、しょんぼりと肩を落とした。


 私だって下川さんに鯖の味噌煮を食べて欲しかった。喜んでもらいたかった。


 悔しくて悔しくて、下川さんの病室を出た後、調理場へ急いだ。


 調理場に入ると、美知さんと森山さんいは目もくれず、林田さんへと一直線に向かう。


「林田さん、クックチルを導入しましょう」


「何回言えば気が済むんだ。しないって言ってるだろうが‼」


 やっぱり突っぱねられる。


「下川さん、昨日は具合が悪くて鯖の味噌煮を食べられなかったそうです。でも、二時間後には体調が良くなったそうです。当然その頃にはもう夕食は下げられている。下川さん、仕方なくお子さんの手土産のカステラを食べたそうですよ。ここは急性期病棟じゃないから食事の時間の融通は効くじゃないですか。クックチルなら食べたい時に解凍して食べられる。解凍するのに資格はいらない。誰がサーブしても問題ない。誰でも手軽に食べたい時に食べられるんですよ。ここには、患者さんが食べたい時に随時サーブして差し上げられるほどの人員がいない。作りたてを提供したい林田さんの気持ちは分かります。でも、ここはホスピスです。患者さんの平均余命は約三週間です。私たちの善意や好意を押し付けて患者さんのタイミングを逃すなんてことはあってはならない‼」


 林田さんを説得したい思いが余ってしまい、演説のようになってしまった。


「……下川さんに悪いことをしてしまったな」


 好きなものを食べさせてあげられなかった奥様を思い出したのだろう。表情を曇らせた林田さんが悲しそうな目をしながら視線を床に落とした。


「クックチルに向かない料理も確かにあります。だから、今後はクックチルとクックサーブを上手く折り合わせてやっていきませんか?」


 私は決して自分の意見だけを押し通したいわけではない。林田さんの意向も取り入れてみんなが納得した形で、全員が気持ち良く働ける職場にしたいのだ。「だからちょっとは妥協してくれ、林田さん」とばかりにお伺いを立てると、


「クックチルに向かない料理……。揚げ物とかか?」


 話を取り合ってもくれなかった林田さんが、クックチルについて質問をしてきた。


「そうですね。あと、焼き魚とかもパサついちゃうんで。でも、カレーとかシチューは超美味いですよ。私、ここに来る前は給食センターで働いていて、クックチル使ってたんですけど、クックチルして一晩寝かせたカレー、絶品でしたよ。林田さんにも食べて頂きたい‼」


 今だ‼ とばかりにクックチルを猛プッシュ。深夜のテレビショッピングばりのプレゼンに、美知さんと森山さんがクスクスと笑った。


「……クックチル、入れるか」


 必死な私の姿を見て、林田さんも笑い出してしまった。


「……下川さんの体調、今日は良かったのなら、夕食に鯖の味噌煮を追加出来ないか? ルール違反だろうけど。でも、来週のオーダー食の日に体調が良いとは限らないし。昨日食べられたのにそのチャンスを奪ってしまって申し訳ない」


 林田さんのクックチル容認は、私の熱弁の力ではなく、下川さんへの懺悔の気持ちから


だったらしく、急に真面目な顔で相談してきた。


「それ、凄く良いと思います。ここはホスピスです。何でもアリではないけれど、柔軟に


やりましょう。患者さんが喜ぶことをしましょう‼」


 美知さんが林田さんに親指を立てたので、


「ナイスアイデアです、林田さん‼」


 私も便乗して両手の親指を立てると、


「じゃあ、急いで近所のスーパーに鯖を買いに行ってきますね。主婦の厳しい目で一番新鮮な鯖をゲットしてくるわ‼」


 森山さんは親指を立てながら調理場を出て行った。


「あぁ‼ ちょっと待って‼ 森山さん‼」


 慌てて森山さんの後を追う。


「森山さん、森山さん‼」


 職員玄関に向かう森山さんを呼び止めると、


「何か追加で必要なものあった?」


 森山さんが足を止め、クルリと振り返った。


「イヤ、そうじゃなくて。私、速攻で稟議書作って院長にクックチル導入してもらうので、


家族旅行を断念するんじゃなくて、延期にしてもらえませんか? クックチルが入れば時間に余裕が出来ます。気兼ねなく有休を取って頂けます。行ってきてくださいよ、家族旅行」


「嬉しいな。ありがとう。旦那に電話してみるね。よーし‼ なんかやる気出てきた‼ 張り切って鯖買ってくるね‼ 行ってきまーす‼」


 森山さんはいつも以上にニッコニコな笑顔を振りまいて、スキップをしながら買い物に出かけて行った。


 その日に出した鯖の味噌煮を、下川さんは綺麗に平らげてくれ、『とても美味しかったです。ありがとう』と書かれた手紙を返却トレーに添えてくれた。その手紙を林田さんに渡すと、目に涙を溜めて喜んでいたので、『何て美しい男泣きなのでしょう』と胸を打たれながらそっとハンカチを差し出してみたら、「泣いてねぇわ」と弾きとばされ、こっちが泣きそうになっているのに、美知さんと森山さんには「調子に乗って余計なことしすぎ」「林田さんとそんなに簡単に打ち解けられるわけないじゃない」と笑われた。


 クックチルはというと、すんなり稟議は通り、すぐに導入された。

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