第9話 波のずれと、行く理由
その夜、名護の家は静かだった。
夕飯を食べ終えて風呂も済ませ、由美は早めに自分の部屋へ引っ込んだ。
璃子は、隣の部屋でボイスチャットしながらゲームをしているらしく、ときどき笑い声と叫び声が壁越しに漏れてくる。
陽翔は、自分の部屋の机に肘をつき、スマホの画面を見つめていた。
画面には、今日のトークが残っている。
『今度、久高行こ』
『日程決まったらまた連絡するから、それまでに考えなさい』
最後のメッセージから、数時間。
通知はまだ来ていない。
机の上には、コピーした写真のプリントと、白い神石。
本物の写真は、夕方のうちに備瀬の家の仏間に戻してきた。
「……行く、か」
独りごちる。
久高。
拝所。
ツルおばぁ。
父のノート。
自分と同じ顔をした、写真の中の青年。
全部ひとかたまりになって、胸のどこかをじわじわと押してくる。
コンコン。
ドアが軽く叩かれた。
「にぃにぃ、入るよー」
返事を待たずに、璃子がずかずかと入ってくる。
「ノックの意味」
「あるよ。心理的ハードルがちょっと下がる」
「なにその機能」
「で、考えた?」
ベッドにぴょんと座り込みながら、ストレートに切り込んできた。
「久高、行くか行かないか」
「まだ考え中」
「うそ。にぃにぃの顔、もう『行く』って書いてる」
「そんな顔あるか」
「あるね。エンディングに向かって歩き出す主人公の顔」
「お前の世界観、やっぱりゲームで出来てるだろ」
言いながらも、完全には笑いきれない。
璃子は、机の上のプリントを覗き込んだ。
「これ、コピー?」
「ああ。本物はツルおばぁのところに返した」
「そうだよね。あそこがセーブポイントだもんね」
「その言い方やめろ」
白黒のコピーでも、写真の構図ははっきり分かる。
若いツルおばぁ。
自分と同じ顔をした誰か。
足元の黒猫。
「やっぱ、にぃにぃにしか見えないなあ」
璃子が、青年の顔を指でつつく。
「にぃにぃ、コスプレして同じポーズで撮ってみたら?」
「誰得なんだよ、それ」
「検証動画的な。『祖母の家から出てきた写真が自分にそっくりだったので再現してみた』」
「バズっても嫌だわ、その動画」
くだらない会話をしながらも、陽翔の視線は神石へと吸い寄せられていた。
白い、滑らかな石。
手のひらに収まる、大きさ。
光を受けて、ほんの少しだけ内側から淡く光っているようにも見える。
「それ、持って行くの?」
璃子が、神石を顎で指した。
「……一応な」
「もち、私も久高行くよ」
「お前、学校は?」
「なんとかなる」
即答。
「ならないだろ。期末前だろ」
「にぃにぃの人生イベントに比べたら、テストなんてサブクエストだよ」
「そういうところだけ立派に主人公目線だよな」
「主人公はにぃにぃでしょ。私はパーティメンバー」
胸を張って言う。
「一緒に行くってもう真帆ねーねーにも送っといたし」
「は?」
スマホをひょい、と見せてくる。
画面には、さっきのグループトークが開かれていた。
まほねーねー
『久高行きの日程、決まったらまた連絡するねー』
仲宗根璃子
『私も行くからよろしくです!』
まほねーねー
『了解。にぃにぃ一人で行かせたらマブイ落として帰ってこなさそうだし』
南風原美琴
『えっ、マブイ……? あ、えっと、よろしくお願いします』
「勝手に参加表明してんじゃねえよ」
「既成事実は早めに作っとく派」
「そういう派閥いらない」
「大丈夫、母さんにはちゃんと話すから。『ツルおばぁのこと調べるために久高行きたい』って言えば、反対しないって」
妙に確信に満ちた声。
「にぃにぃが行くって決めたら、だけどね」
言いながら、璃子はじっと陽翔の横顔を見つめた。
からかうような笑顔ではなく、少し真剣な顔だった。
「怖いなら、怖いって言ってもいいんだよ」
不意に、そんな言葉が落ちてくる。
「怖くないって、無理に言う必要ないさ。私も怖いし」
「お前が?」
意外だった。
「ゲームで見たことないタイプのダンジョンだからね」
「比喩が雑」
「でも、おばぁのこと、放置したままなのも嫌だし」
璃子は、ベッドに寝転がって天井を見上げた。
「にぃにぃも、そうでしょ?」
「……まあ」
否定できない。
ツルおばぁの笑い声。
草笛の音。
ニライという言葉。
全部、途中で止まったままだ。
「ちょっとはカッコつけて、『おばぁのマブイ拾いに行ってくる』くらい言ってみたら?」
「誰に向かってだよ」
「自分に、かな」
璃子は、大きく伸びをして起き上がった。
「ま、決めるのはにぃにぃだから。私は一緒に行く準備だけしとく」
そう言って、立ち上がる。
「おやすみー」
「おう」
ドアが閉まる。
静けさが戻ると、さっきまでの会話が夢みたいに遠く感じられた。
机の上の神石を手に取る。
冷たくも熱くもない、不思議な温度。
昨日、備瀬の庭で草笛を吹いたとき、波が一瞬止まった。
あれは、本当に「気のせい」だったのか。
「……」
石を握ったまま、陽翔は立ち上がった。
居間には、まだ灯りがついている。
由美がソファに腰掛け、テレビをつけたまま、ぼんやりとなにかの情報番組を眺めていた。
海の映像が映り、テロップが流れる。
『久高島近海で観測データに乱れ 専門家「観光には影響なし」』
「タイミングよ」
陽翔は、思わず口に出していた。
「ん?」
由美が振り向く。
「ああ、そのニュースね。さっきからやってるさ」
「久高のやつ?」
「そう。海の流れがちょっとおかしいとか、なんとか」
由美は、リモコンの音量を少し上げた。
「観光には影響ないって。船も普通に出てるってよ」
画面の中で、見慣れた久高の港が映る。
観光客らしき人たちが、ゆっくりと歩いている。
「母さん」
「ん?」
「もし、俺が……久高行くって言ったら、反対する?」
唐突な問いに、由美は驚いたように目を瞬かせた。
「真帆ちゃんと?」
「まあ、そんなところ」
「璃子も、ついてくって言ってるでしょ」
「もうバレてるのかよ」
「さっきライン見せに来たさ。『にぃにぃがフラグ立ったから、あとは押すだけ』って」
「余計なことばっかり」
由美は、少しだけ笑ったあと、真顔に戻った。
「本気で、行こうと思ってるの?」
「まだ、考え中」
「そっか」
由美は、テレビを消した。
部屋が、ぐっと静かになる。
「私が、行くなって言ったら、やめる?」
「……分からない」
正直に答えるしかなかった。
「母さんが理由を話してくれたら、やめるかもしれないし。何も言わなかったら、逆に行きたくなる」
「素直じゃないね」
「母さんに言われたくない」
ふっと、由美の口元に笑みが浮かぶ。
「ツルおばぁにそっくりだよ、そういうところ」
「……そう?」
「そうよ」
由美はしばらく天井を見つめてから、ぽつりと話し始めた。
「ツルおばぁね、戦争のこととか久高のこととか、ほとんど話してくれなかったさ」
「やっぱり」
「でも、一回だけ」
由美は、自分の胸の辺りをそっと押さえた。
「まだ私が若くて、陽翔が小さかった頃。夜更かしして二人でお茶飲んでたときね」
記憶をたどるような声。
「『あんたは、あんたのマブイを落とさないように生きなさいよ』って言われた」
「……」
「『もし落とした時は、自分で拾いに行きなさい』って」
由美は、仏壇の方をちらりと見る。
「『誰かに拾ってもらうのは、最後の手段さ』ってね」
「らしいな」
陽翔は、小さく笑った。
ツルおばぁが言いそうな台詞だ。
「それ、久高の話と関係あるのか?」
「分からないさ」
由美は首を振る。
「でも、そのあとツルおばぁがぽろっと言ったのは覚えてる」
「なんて?」
「あの泉のことはね、一回でお腹いっぱいさって」
真帆が言っていたのと、同じ言葉。
「『二回目は、誰か別の子が行くかもしれないね』って」
由美は、そこで言葉を切った。
「その『別の子』が誰かなんて、その時は考えもしなかったけど」
「今は?」
「今は……」
由美は、陽翔をじっと見た。
「嫌な予感がするよ」
真正面から言われると、笑ってごまかすのが難しくなる。
「でも、同時にね」
由美は、ソファの上で姿勢を変えた。
「その子が自分のマブイ拾いに行こうとしてるなら、止めちゃいけないのかなって」
「危ないかもしれないって分かってても?」
「危ないからこそ、自分で見てきなさいって、ツルおばぁなら言いそうでしょ」
たしかに。
目を閉じれば、その声が想像できる。
『あんたは、自分の目で見なさいよ』
いつか、本当にそう言われたことがあった。
「父さんは」
ふと、別の名前が口からこぼれた。
「宮里の父さんは、久高と何か関係あったのか?」
由美の表情が、少しだけ曇る。
「仕事で、ちょっとね」
「母さんもよく知らない感じ?」
「うん。あの人、仕事の話はほとんどしてくれなかったさ。『つまんなーい話だから』って」
由美は、少し懐かしそうに笑った。
「でも、夜中に電話で誰かと専門用語ばっかり話してたのは覚えてる。久高とか、データとか、観測とか」
「観測ね……」
真帆の顔が浮かぶ。
「それ、りこの父さんの仕事とも関係ある?」
口にしてから、「あ」と思った。
由美の目が、少し伏せられる。
「璃子の方の父さんは……また別の話」
「別の?」
「危ない仕事してたってことだけは、同じだけどね」
由美の声は、どこか遠くを見るような響きになっていた。
「二人とも、行き先だけ違うところで、同じものを見てたのかもしれない」
「同じものって?」
「それが分かれば、苦労しないさ」
由美は、苦笑いを浮かべる。
「ごめんね。ちゃんとした答え、何もあげられなくて」
「いや」
陽翔は首を振った。
「十分だよ」
ツルおばぁの言葉。
母の記憶。
父たちの仕事。
久高。
全部が、分からないままでも、ひとつの方向を示している気がした。
「母さんは、行ってほしい?」
「母さんは、帰ってきてほしい」
少し間を置いて、由美はそう言った。
「どこに行くにしても、ちゃんと帰ってきてくれたら、それでいい」
「……了解」
思わず、仕事みたいな返事になってしまう。
由美はふっと笑い、立ち上がった。
「もう寝なさいよ。久高のこと考えるのは、明日でもできるさ」
「うん」
居間の灯りが消え、廊下が暗くなる。
部屋に戻ると、璃子はもう寝息を立てていた。
……と思ったが、ドアを閉めた瞬間、壁越しに小さな声が聞こえてくる。
「……にぃにぃ、絶対戻ってこいよ……」
「起きてんのか」
思わず苦笑いが漏れる。
返事代わりに、壁を軽く二回叩く。
トントン。
向こうからも、同じリズムが返ってきた。
「……」
机の上の神石を手に取る。
窓の外から、遠くの海の音がかすかに届いていた。
潮騒。
車の走る音。
誰かの笑い声。
全部が混ざって、夜の名護の音になる。
神石を握りしめたときだった。
一瞬だけ、音が抜け落ちる。
世界のボリュームが、すっとゼロになる感覚。
窓の外で揺れていた木の影が、ピタリと止まる。
時計の秒針も、動きをやめる。
「……また、これか」
声を出したつもりなのに、自分の声も聞こえない。
時間が止まったような、空気だけが固まったような、不気味な静寂。
何秒か。
あるいは、一瞬。
握っていた神石の表面が、ほんのりと温かくなった。
次の瞬間、音が一気に戻ってくる。
秒針が動き出す。
窓の外の風が、木の葉を揺らす。
遠くのバイクの音が、遅れて耳に入ってきた。
「……」
手のひらには、じんわりと汗がにじんでいる。
スマホが震えた。
画面には、新しいメッセージ。
まほねーねー
『久高行き、日程出た。来週の土曜。朝一の船で日帰り予定』
さらに一行。
『行くかどうか、とっとと決めなさい。ツルおばぁが笑ってる気がするから』
笑っているのか、笑っていないのか。
想像がつかない。
陽翔は、しばらく画面を見つめていた。
神石を、ぎゅっと握り直す。
胸の奥で、何かが決定された感覚。
指が、文字を打ち始めていた。
『行く』
送信ボタンを押した瞬間、なぜか外の波の音が、少しだけ大きく聞こえた。
まるで、どこか遠くで、何かが笑ったような。
あるいは、何かが目を覚ましたような。
その違いを、まだ誰も知らない。




