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マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
8/31

第8話 幼馴染と民俗学者

 メッセージを送ってから、そんなに時間は経っていない。


 ソファにもたれたまま、陽翔はスマホの画面を眺めていた。


 送った文面は、たったこれだけだ。


『ツルおばぁの家で見つけた写真。場所、分かる?』


 添付したのは、桐箱の中にあった一枚の写真。

 久高の拝所らしき場所で、若いツルおばぁと、自分そっくりの青年と、黒猫が写っているやつだ。


 既読がつくまで、ほとんど間がなかった。


『どこで、この写真を?』


 真帆からの返信。

 短くて、昔から変わらないそっけない文面。


 そのすぐ下に、もう一行。


『……久高の拝所だよね、これ』


「やっぱり、久高か」


 声に出した瞬間、隣のクッションから頭を出していた璃子が、にやっと笑う。


「はい出た。久高。分かりやすすぎ」


「お前、なんでそんな楽しそうなんだよ」


「だって完全にイベントフラグ立ってるし」


 ゲーム用語で全部片付けようとするの、ほんとやめてほしい。


 陽翔は、画面に指を走らせた。


『ツルおばぁの家の桐箱から出てきた。詳しい話は、会って話したい』


 少し間を置いて、送信。


 すぐに「入力中」のマークが点滅し、また新しいメッセージが届く。


『今どこにいる? 名護?』


『うん。実家』


『明日、名護行く。午前中は図書館で調べものしてるから、昼過ぎなら時間取れる』


『急じゃないか』


 と打つと、数秒の間のあとに返信。


『もともと名護寄る予定だった。タイミングが合っただけ』


「ちょうどいいってさ」


「嘘くさい」


 璃子が即座に切り捨てる。


『バスターミナル近くのファミレスでいい?』


『いいよ』


『時間決まったらまた連絡する。写真、絶対なくさないで』


 最後の一文だけ、少しだけ感情がにじんでいるように見えた。


「デートの約束だね、これは」


「違う」


 即答すると、璃子はじとっとした目で陽翔を見た。


「まほねーねーに会うって聞いたら、にぃにぃのテンションちょっと上がったよね」


「上がってない」


「はいはいツンデレ」


「誰がだ」


 そんなやりとりのあと、由美にも話すことになった。


「真帆ちゃんに会うの? ちょうどよかったさ」


 キッチンで洗い物をしながら、由美が言う。


「あの子にもツルおばぁのこと、ちゃんと話しておきたかったし。行ってきなさい」


「母さんも来る?」


「私はいいよ。二人と璃子で会ってきなさい」


「私、確定なんだ?」


 璃子がちゃっかり口を挟む。


「そりゃ行くでしょ。監視役として」


「監視される覚えがない」


「あるさ。にぃにぃ、まほねーねーのこと絶対まだちょっと好きでしょ」


「お前なあ……」


 否定しきれないのが、また腹立たしい。


 ◇ ◇ ◇


 翌日、昼前。


 名護のバスターミナルの近くにあるファミレスは、観光客と地元客が半々くらいの賑わいだった。


 窓際の席からは、駐車場と、その向こうにちらっと海が見える。


「にぃにぃ、落ち着きなよ」


 向かいでドリンクバーのメロンソーダを吸いながら、璃子が言う。


「別に落ち着いてる」


「メニュー三回めくったからね。頼むもの決まってないの?」


「決まってる。ハンバーグ」


「小学生か」


 そんなことを言っていると、ガラス戸が開く音がして、涼しい風が一瞬だけ店内を撫でた。


 入口に目を向けると、見覚えのある顔があった。


 肩までの黒髪をひとつに結び、眼鏡をかけた女。

 ラフなシャツにジーンズ。

 片手で車のキーを回しながら、もう片方の肩にはくたびれたショルダーバッグ。


 喜屋武真帆。


「……おお」


 思わず、変な声が出た。


 真帆もこちらに気づいて、いったん目を丸くしてから、ゆっくりと近づいてくる。


「久しぶり」


 テーブルの横まで来て、その一言。


 声は昔のままだった。

 少し低くて、よく通る。


「久しぶり」


 陽翔も同じ言葉で返すしかない。


 真帆の視線が、すぐに璃子へ向いた。


「もしかして、璃子?」


「え、覚えてるの、まほねーねー」


 璃子がぱっと顔を上げる。


「覚えてるよ。昔、陽翔と一緒にツルおばぁの家で、こっちの畳からあっちの畳まで走り回ってた暴れん坊」


「暴れん坊は盛ってる」


「うるささは盛ってない」


 真帆は、それきり口元だけで笑った。


 少し気まずそうな素振りを見せながら、陽翔の向かいの席に腰を下ろす。


「喜屋武さん」


「その呼び方やめなさいって、前から言ってるでしょ」


「じゃあ、真帆」


 名前を呼ぶと、ちょっとだけ心臓が変な跳ね方をした。


 真帆は、メニューも見ずにテーブルの上を指で軽く叩く。


「写真。持ってきた?」


「ある」


 陽翔は、リュックから封筒を取り出し、写真をそっと取り出してテーブルの上に置いた。


 真帆は、それを両手で引き寄せる。


 しばらく黙ったまま、じっと見つめた。


「……やっぱり、ここだ」


 小さく息を吐く。


「久高島の拝所の下の浜。戦前からの祈りの場所」


 指先が、写真の岩場をなぞる。


「この石の並びと、後ろの拝所の形。間違いないね」


「そんなに特別な場所なのか」


「特別。普通の観光客は入れないところだよ。島の人に許可もらわないと」


 真帆は、少しだけ肩をすくめた。


「ツルおばぁ、やっぱりすごい人だね」


「それ、どういう意味だよ」


「いや、こっちの話」


 真帆は、写真から目を離さない。


「ツルおばぁ、昔から久高とは縁が深いって噂だったよ。近所のおばぁたちの間で」


「縁が深いって?」


「『あの子は、久高に連れていかれかけたことがある』とか、『泉を見てきた』とか」


 けろっとした口調で、さらっと怖いことを言う。


「連れていかれかけたって、どこに」


 璃子が、ストローをくわえたまま身を縮こまらせる。


「向こう側」


 真帆は、それだけ言って肩を竦めた。


「ニライとか、あの世とか、神さまのいるところとか、呼び方はいろいろあるやつ」


「まほねーねー、そういうの小学生にもしてたよね……」


 璃子が恨みがましく言う。


「夜眠れなくなったからね?」


「民俗学的教育」


「それトラウマって言う」


 陽翔は、そうツッコミながらも、写真から目が離せなかった。


 若いツルおばぁの隣に立つ青年。

 自分と同じ顔。

 足元で丸くなる黒猫。


「真ん中のこいつは?」


 自分で聞きながら、自分で変な感じになった。


 真帆は、写真を少し顔に近づけて、青年の顔のあたりを見つめる。


「これ、見れば見るほど……」


「見れば見るほど?」


「陽翔」


 こっちをちらりと見て、すぐに写真に視線を戻す。


「普通に見たら、陽翔にしか見えない」


「俺のはずないだろ」


「分かってる。撮影が戦後すぐならね」


 真帆は眼鏡を押し上げる。


「でも、フィルムの劣化にしては、真ん中だけボケ方が違う」


「ボケ方?」


「周りと比べて、コントラストというか、輪郭のにじみ方が変。何度も焼き直しされたみたいな」


「そういうの、よく見てるの?」


「古い写真、資料で山ほど見るからね。見慣れると、違和感だけは分かる」


 そう言ってから、今度は写真の下の方へ指を移した。


 黒い猫が、青年の足元で丸くなっている。


「黒猫までいるんだ」


 璃子が、そこに気づいて顔を近づける。


「ツルおばぁの家にも、こんな黒猫いたよね。名前教えてくれなかったやつ」


「……そうだったっけ」


 陽翔の記憶には、そこだけ穴が開いているようだった。


「ツルおばぁ、『あの子』とか『クロ』とか、適当に呼んでた気がする」


 真帆が笑う。


「でも、本当は名前あったんじゃないかな。教えてくれなかっただけで」


「絶対かっこいい名前だったはず」


 璃子が勝手に盛り上がる。


「闇夜のなんちゃら的な」


「そういう発想してるのお前だけだ」


 一旦、空気を軽くしてから、真帆はグラスの水を一口飲んだ。


「でさ」


 テーブルを指先でとん、と叩く。


「この写真、今のタイミングで陽翔の手元に出てくるの、結構気持ち悪い偶然だよ」


「偶然でいいよ」


 陽翔は、ストローを弄びながら言う。


「久高のニュースもあったし。泉がどうこうって話も聞いた。父さんのノートも、なんか久高って書いてあったらしいし」


「おばさんから聞いた?」


「ああ」


 由美から聞いた話をざっと説明する。


 戦後すぐ、久高の泉を「閉めてきた」と笑っていたツルおばぁ。

 陽翔の父が、仕事で久高に関わったらしいこと。

 そのノートが、父の死後どこかへ消えたこと。


 真帆は、黙って聞いていた。


「……だいたい、私が聞いてた話と繋がるね」


 小さく息を吐く。


「ツルおばぁ、昔私にも言ってた。『久高の泉は、一回でお腹いっぱいさ』って」


「一回で?」


「二回目はない、ってニュアンス」


 真帆は、メニューをひっくり返しながら続ける。


「でもまあ、その話は置いといて」


「置いとくのかよ」


「一回で説明できる話じゃないからね」


 一旦切り替えるように、彼女は話題を変えた。


「そういえばさ。璃子、昨日マブイ落としたでしょ」


「え、落としてないけど」


「寝ぼけて障子にぶつかってた動画、おばさんから送られてきたけど」


「やめて、黒歴史共有」


「マブヤー落とすさ、って言われなかった?」


「言われた。『まーぶいまーぶい、うーてぃくーよー』って、おかーさんが頭撫でてきた」


 璃子が、ちょっと照れくさそうに笑う。


「ああ、それ」


 陽翔もうなずく。


「子どもの頃、よくツルおばぁにやられたな」


 額や胸を、あたたかい手で撫でられながら、「マブヤーマブヤー、ウーテクーヨー」と歌うように言われた記憶が、鮮やかによみがえる。


「マブイ落とした、とか、マブヤー落とすさ、とか。こっちじゃ普通に言うからね」


 真帆が言う。


「びっくりした時とか、交通事故のあととか、子どもが大きな声で泣いた時とか」


「マブイグミって、おばぁたちがやるやつでしょ?」


 璃子が続ける。


「落としたマブイ、拾って戻すおまじない」


「そう」


 真帆は、少し真面目な顔になった。


「沖縄の人は、『マブイ』って言葉自体はみんな知ってる。魂とか、気持ちとか、そんな感じで」


「でも、『マブイの力』って話になると」


「一気にオカルト扱い」


 自分で言って苦笑する。


「マブイグミは、あくまで『おばぁの知恵』とか『心のケア』とか。ガチで“力”として扱った話は、夢物語か怪談の中だけ」


「まほねーねーは?」


 璃子が、期待と不安の混ざった目で見る。


「マブイに、力があると思ってる?」


「さあね」


 真帆は、そこで笑った。


「“ある”とも“ない”とも簡単には言わないのが、研究者のずるいところ」


「ずるいって自覚はあるんだ」


「ある」


 グラスの水をくるりと回しながら、彼女は続ける。


「でも、マブイグミされて落ち着くのは本当でしょ?」


「それは、ある」


 陽翔も、静かに頷いた。


 ツルおばぁの手の重さを、今でも覚えている。


「だから、私はちゃんと知りたいんだよね。人が『マブイはある』と思ってきた歴史を」


 そこまで言ってから、ふと思い出したように入口の方へ視線をやった。


「で、こっちが今日連れてきた人」


「ごめんなさい、少し遅くなりました」


 ドアのところに、もう一人の女が立っていた。


 長い黒髪をひとつに結び、シンプルなブラウスとロングスカート。

 姿勢が良くて、どこかお参りに行く人みたいな雰囲気がある。


 南風原美琴。


「こっち」


 真帆が手を挙げると、美琴は小さく頭を下げて近づいてきた。


「喜屋武さん、本日はお時間いただきありがとうございます」


「だから、その呼び方やめてって」


「す、すみません……真帆さん」


 真帆のツッコミで、少しだけ力の抜けた笑顔になる。


「南風原美琴。うちの後輩。ノロさんの家の子で、今は大学で民俗学やりつつ、現場の手伝いもしてる」


 真帆が紹介する。


「は、初めまして。南風原と申します」


「宮里陽翔です。よろしく」


「仲宗根璃子でーす」


 璃子は、ラフに片手を上げる。


「よ、よろしくお願いします」


 若干緊張気味に、美琴は席に着いた。


 注文を済ませると、真帆が改めて写真をテーブルの中央に置く。


「美琴、この場所、分かる?」


「……久高島ですね」


 写真を見た瞬間、美琴の表情が少し固くなる。


「拝所の下の浜。戦前か、戦後すぐの写真でしょうか」


 青年の方へ視線が移った瞬間、ぴたりと動きが止まった。


「どうした?」


 陽翔が聞くと、美琴は慌てて首を振る。


「い、いえ。その……よく、似ていらっしゃるなと」


「やっぱりそう思う?」


 真帆が口元を緩める。


「似てるとかじゃなくて、コピペでしょ」


 璃子が、躊躇なくぶっ込んできた。


「にぃにぃ、顔面だけタイムリープ済み」


「雑な表現するな」


 言い返しながらも、青年の顔と自分の顔の重なり具合に、背筋が少し冷える。


 美琴は、写真から目を離さない。


 彼女の指先が、膝の上で微かに震えている。


 ――風が、ざわついている。


 窓の外から吹き込む風の流れが、写真の上だけ細かく渦を巻いているのを、美琴だけが感じていた。


「美琴?」


 真帆が、小声で呼びかける。


「だ、大丈夫です」


 美琴は、胸の前で組みかけた手を慌ててほどき、膝の上に置き直した。


「すみません、少し……風の流れが変だなと」


「やっぱり」


 真帆は、少しだけ目を細める。


「やっぱり、って何だよ」


 陽翔が突っ込むと、彼女は「こっちの話」とごまかすように笑った。


「でね」


 真帆は、話を進めるようにテーブルを軽く叩く。


「この写真と、久高の観測データと、ツルおばぁの話を並べると、結構やばい」


「観測データ?」


「最近、久高の周りだけ変な揺れが出てるって話、ニュースで見なかった?」


「地震のやつ?」


「地震だけじゃない。海流とか、電磁ノイズとか、いろいろ」


 真帆は、ストローを指先で転がす。


「研究室にデータ回ってきてる。まだ正式な発表は出てないけど」


「それって、危ないやつ?」


 璃子が、ストローをくわえたまま眉をひそめる。


「観光的には大丈夫ってことになってる。船も出てるし」


 真帆は、あえて軽い口調を保つ。


「でも、昔から久高の話を追ってる人間からすると、かなり嫌な響き」


「昔からって、たとえばお前とか?」


「とか」


 曖昧に笑う。


「久高は、“向こう”に近い場所って言われてる。ニライカナイとか、あの世とか、そういうの」


「さっきも言ってたやつな」


「向こう側がざわつくと、こっち側にもノイズが出てくる」


 真帆は、指を一本立てる。


「人の夢とか、記憶とか、影とか。マブイが落ちやすくなる」


「マブイ落ちやすくなるって、適当な表現だな」


「感覚的にはそれが一番近いんだよね」


 彼女はそう言って、陽翔を見た。


「最近、同じ夢ばっかり見るとか、時間が飛んだ感じがするとか、そういうの、なかった?」


 ドキッとした。


 拝所の夢。

 同じ場所で何度も死ぬ感覚。

 昨日、波が一瞬止まって見えた感覚。


 全部を話す気にはなれなかった。


「……まあ、ちょっと」


 曖昧に答えると、真帆は「やっぱり」と呟く。


「ツルおばぁ、昔から言ってたもん。『あの子は、何度も同じところで転ぶ子さ』って」


「俺の話か、それ」


「陽翔の話。小さい頃から、同じ段差でこけてたでしょ」


「それはただのドジだろ」


「ドジはドジだけどさ」


 真帆はグラスの水を飲み干す。


「で、提案」


「嫌な予感しかしない」


「久高行こ」


 あまりにもあっさり言われて、頭が一瞬止まった。


「……は?」


「今度、現地調査で久高に渡る予定があるの。島の人に話聞いたり、拝所の周りの地形見たり」


 真帆は、ごく普通の用事みたいに言う。


「もともと学生を何人か連れて行くつもりだったけど、今はキャンセル出ててね。一人分くらい、空いてる」


「だからって、俺を埋めるな」


「一般人枠。一人くらい混ざってもバレない」


「バレるだろ」


「にぃにぃ、一般職パーティ要員」


 璃子が口を挟む。


「私も行くし」


「え、勝手に決めるな」


「置いてったら後でバグるからね、ストーリー」


 お前の頭の中では、世界は全部ゲームなのか。


「仕事もあるし」


 一応現実的なことを言ってみる。


「今、忌引きでしょ」


 真帆はさらっと返す。


「さすがに『久高行きたいので忌引き延長してください』とは言わないけど、日帰りか一泊くらいならどうにかなる」


「軽く言うな……」


「もちろん、強制はしないよ」


 真帆は、そこで少しだけ真面目な表情になる。


「私たちは行く。仕事だし、研究だし。でも陽翔が行かないって言うなら、それはそれでいい」


 美琴も、そっと頷いた。


「ただ、ツルおばぁが関わった場所で、今また何か起きかけてる。写真の中に、陽翔にそっくりな誰かがいる。陽翔の父親も、仕事で久高に触れてた」


 一本一本の線が、テーブルの上で交差するような感覚。


「それを全部無視して、『マブイ落としっぱなし』にしておくと、後で面倒そう」


「比喩が雑だって」


「マブイグミ、ちゃんとした方がいいよ、って話」


 真帆は、わざと軽く笑う。


「落としたマブイ拾いに行くのが、久高行き。そう考えたら、ちょっとはマシ?」


「マシじゃない」


 即答したが、胸の中はさっきからざわざわしている。


 行きたくない。

 行ったら戻ってこられないような気がする。


 でも、行かなかったらもっと悪いことが起きるような、変な予感もある。


「すぐに決めなくていい」


 真帆が、こちらの迷いを読むように言った。


「日程決まったらまた連絡するから、それまでに考えなさい」


「……分かった」


 それだけ答える。


 そのあと、食事をしながら、ツルおばぁの昔話や、小さい頃の失敗談なんかをひとしきり笑い合った。


 まぶしいような、居心地のいい時間。


 けれど、テーブルの端に置かれた写真と、ポケットの中の神石は、ずっと重くそこにあった。


 ◇ ◇ ◇


 店を出ると、空はすっかり雲に覆われていた。


 駐車場には、レンタカーと地元ナンバーの車が入り混じってとまっている。


「じゃあ、私たちはこっちね」


 真帆が、白いコンパクトカーのキーを掲げた。


 那覇から借りてきたレンタカーらしい。


「気をつけて」


 陽翔が言うと、美琴も助手席側で丁寧に頭を下げた。


「本日はありがとうございました。またご連絡いたします」


「堅いって、美琴」


 真帆が笑いながら運転席に乗り込む。


 窓を少し開けて、こちらを見る。


「写真の現物は、ちゃんとツルおばぁの家に戻しときなよ」


「やっぱり、その方がいいか」


「うん。あの家から長く出してると、ツルおばぁに怒られそう」


「誰より現実味あるな、その怒られ方」


 苦笑しながら、陽翔は頷いた。


「じゃ、また連絡する」


 真帆は軽く手を振って、窓を閉めた。


 エンジン音。

 ウインカー。


 白い車は、駐車場を出て、国道の方へと消えていった。


「にぃにぃ」


「なんだ」


「まほねーねーのこと、やっぱ好きでしょ」


「その話、まだ続くの?」


「目が完全に攻略対象見てるやつだったからね」


「お前な……」


 否定しようとして、うまい言葉が出てこない。


 その様子を見て、璃子は「ふーん」とだけ言い、くるりと背を向けた。


「にぃにぃが久高行くなら、私は当たり前に行くから」


「いや、お前は――」


「置いてかれたら、バグってバッドエンド行きそうだからね」


 けろっと言って、駐車場の端に停めてある家の車の方へ歩いていく。


 陽翔は、小さくため息をついて、その背中を追いかけた。


 ◇ ◇ ◇


 その頃。


 名護から南下する国道を、白いコンパクトカーが走っていた。


「ふう……」


 ハンドルを握りながら、真帆が小さく息を吐く。


「疲れました……」


 助手席の美琴が、シートにもたれながら言った。


「人見知りスキル発動してたしね」


「いえ、その……写真が」


 美琴は、自分の胸の前で両手の指を組む。


「風の流れがおかしかったです。あの写真の周りだけ、ずっと」


「やっぱり」


 真帆は、サイドミラーを確認しながら頷いた。


「私にも分かるくらいだから、美琴には相当だったでしょ」


「はい。久高の拝所の前に立った時と、似た感じがしました」


 あの日の記憶が、胸の奥でざわつく。


 強い陽射し。

 白い砂。

 拝所の前で感じた、地面の下からせり上がってくるような“影”。


「ツルおばぁの写真ですよね」


「そう」


 真帆は、信号で減速しながら短く答える。


「ツルおばぁが昔話してくれたことと、今日の陽翔の話、だいぶ線が繋がってきた」


「線、ですか」


「久高。泉。ツル。陽翔。最近の観測データ。影みたいなもの」


 最後の言葉だけ、少し低くなった。


「影……」


 美琴は、無意識に自分の影を足元に探した。


 ちょうどその時、前方の信号が黄色に変わり、真帆は手前で車を停める。


 交差点の向こう側、横断歩道の端に、スーツ姿の若い男が立っていた。

 肩からビジネスバッグを下げ、スマホを見つめている。


「スマホ見ながら道渡るの、ほんとやめてほしいよね」


 真帆がぼそっと言う。


 赤信号。

 横断歩道の人のランプも赤のまま。


 なのに、男はスマホから顔を上げないまま、一歩、白線の内側へ足を踏み出しかけた。


 その足元の影が、ぐにゃりと揺らいだ。


 照り返しのせいでも、日差しの角度のせいでもない。

 黒が、地面から浮き上がるように形を変え始める。


「……っ」


 美琴の背筋に冷たいものが走る。


 世界の音が、ほんの一瞬だけ遠ざかった。


「美琴」


 真帆の声が、現実に引き戻す。


「見える?」


「はい」


 短く答える。


 男の影から、黒いもやがじわりと立ち上っている。

 誰もそんなものには気づいていない。

 近くの女子高生たちは、おしゃべりしながら信号を待っているだけだ。


 歩行者信号は、まだ赤だ。


 それなのに、男はスマホの画面をタップしながら、さらに一歩前へ出ようとしている。


 右側から、交差点を直進してくる車が見えた。


「どうする?」


「小さいうちなら……流せます」


「じゃ、お願い」


 真帆は、前を見る目を離さないまま言った。


「ばれないくらいで」


「分かりました」


 美琴は、シートの上でそっと姿勢を正した。


 膝の上で指先を合わせる。


 深く、静かに息を吸い込む。


 ――風、流れて。


 心の中でだけ、短く唱える。


 海の方から、ひゅ、と細い風が吹き込んできた。


 窓は閉まっているはずなのに、頬に冷たい感触が触れる。


 交差点の空気が、一瞬だけ変わった。


 歩道の端で、スーツの男のネクタイがふわりと浮く。


「うわっ」


 男はバランスを崩し、前ではなく、後ろに一歩よろめいた。

 かかとが縁石に引っかかり、その場にぺたりと尻もちをつく。


 直後、交差点を直進していた車が、男の前を音もなく通り過ぎていった。


 間に合わないほどの危機ではなかった。

 けれど、その一歩の差は、見ている側の心臓を十分掴んでくる。


「大丈夫ですか」


 近くにいた女子高生が、慌てて声をかける。


「い、痛た……びっくりした」


 スーツの男は、ようやくスマホから目を離した。


「信号、まだ赤ですよ」


 女子高生の指摘で、男は自分が何をしようとしていたのかに気づいたらしい。

 顔を真っ赤にしながら、「すみません」と何度も謝っていた。


 さっきまで地面からせり上がっていた黒いもやは、いつの間にか消えている。

 足元には、ただの影が落ちているだけだ。


 青になった信号に合わせて、人の流れが動き出した。


 真帆の車も、前の車に続いて発進する。


「……やりました」


 美琴は、小さく息を吐いた。


 真帆は、ハンドルを握ったまま、横目で彼女を見た。


「ありがと。最近、ああいう“ふわっとした危なさ”増えてる」


「増えて、ですか」


「久高の周りがざわついてるのと、無関係だとは思えないんだよね」


 真帆は、フロントガラスの向こうに広がる海へ視線を移す。


 白い波の線が、いつもより少しだけ不規則に見えた。


「向こう側が揺れると、こっち側にもノイズが走る。人の夢とか、記憶とか、影とか」


「マブイも、ですね」


 美琴は、自分の胸にそっと手を当てる。


「マブイ……落としている人、増えてる感じがします」


「だよね」


 真帆は、頭の中で線を引いた。


 久高。

 泉。

 ツル。

 陽翔。

 神石。

 マブイグミ。

 さっきの小さな影。


 全部が、一本の流れの中にある気がする。


「南風原さん」


「はい」


「準備しといて」


 前を向いたまま、真帆は言った。


「久高で、あいつに何かあった時。風で拾えるように」


「……分かりました」


 美琴は、胸の前で指を静かに組む。


 窓の外で、風が小さくうなった。


 まだ誰も、「マブイの力」という言葉は使っていない。

 マブイは、落としたり拾ったりする魂のことだと、そう教わってきただけだ。


 けれど、目に見えない流れは、確かに動き始めていた。

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