第8話:久高島の夜戦
影は黒い霧のようにたゆたっていた。
輪郭は不安定で、まとまることなく揺らめいている。まるで風に溶け込むように形を変えながら、陽翔たちの前に立ちふさがっていた。
「……待て。あれは今までの影とは違う。」
玄武が低く呟いた。
「どういうこと?」美琴が警戒を強めながら尋ねる。
「これまでの影は、ある種“存在”として固まっていた。だが、これは……実体を持たずに広がっている。まるで、この空間そのものが影になろうとしているようだ。」
玄武の言葉に、陽翔は改めて影を見つめた。
たしかに、今までの影とは何かが違う。これまでは、漆黒の人型や獣のような形をとり、物理的な攻撃も効いた。だが、今目の前にいる影は——境界がない。
「つまり、攻撃が効かないってこと?」璃子が警戒しながら尋ねる。
「いや……むしろ、どういう攻撃が有効なのかがわからないというべきだな。」玉城がタバコを指で弄びながら言った。「物理攻撃も効くかどうか怪しいし、マブイの力でも吹き飛ばせるかどうか——」
「こっちが試されてる気がするよ。」ナミが静かに呟いた。
「試されてる?」真帆が不安そうにナミを見上げる。「何を?」
「さぁねぇ。影の目的なんてわからないさ。でも、あの動き……どこか、人間を観察してるように見えるよ。」
「観察……?」陽翔が思わず眉をひそめる。
「うわっ、ヤバいやつじゃん! 絶対ラスボス戦の前に出てくる“様子見してくるタイプ”の敵だよ!」璃子が震えながら言う。
「でたな、ゲーム脳。」玉城が皮肉交じりに言う。「んで、その“様子見系ボス”は、だいたい次のターンで本気出してくるんだろ?」
「そうそう! しかも最初に攻撃しなかった場合、**『何もしないのか?』**とか言って煽ってくるタイプ!」
「へぇ……つまり、お前の理論だと、今のうちにぶっ飛ばしといたほうがいいってことか?」玉城がニヤリと笑う。
「ちょ、やめて! フラグ立てないで!!」璃子が慌てて玉城の腕を掴む。
そんなやり取りをしている間に、美琴が一歩前に出た。
「とにかく、試してみます!」
美琴は鋭く息を吸い、手をかざす。
「風のマブイ——天翔ノ刃!」
瞬間、美琴の手のひらから淡い碧色の光が迸る。
周囲の風が一瞬にして収束し、美琴の指先から高圧の風の刃が生まれた。
空気が震え、視界が歪むほどの圧縮された風の斬撃が影に向かって一直線に飛ぶ。
——シュッ!!
刃は影を切り裂いた——かに見えた。
だが——
ズズズ……
影は一瞬にして元の形へと戻る。まるで、最初から何もなかったかのように。
「……再生した?」璃子が息をのむ。
「違う。」美琴が眉をひそめる。「切り裂いた感触が、最初からなかった……。つまり、そもそも当たっていない可能性があります。」
「風がすり抜けたってことか?」玉城が険しい表情をする。
「風の流れが影の中に吸い込まれている……まるで、風そのものを無効化しているような感じです。」
「ちょっと待って、そんなのズルくない!? じゃあ、どうやって倒すの!?」璃子が焦った表情を浮かべる。
「マブイの力を、もっと強く流れに乗せるしかないね。」ナミが静かに言った。「影に流れを奪われる前に。」
「……でも、俺たちにはマブイの力なんて——」
陽翔が言いかけた、その瞬間だった。
—— 影が、動いた。
地面に滲んでいた黒い染みが、一気にせり上がり、人の形を成した。
「……なっ!?」陽翔が目を見開く。
現れたのは、ぼんやりとした人影だった。
黒い霧のような輪郭を持ち、顔はない。
だが、それが陽翔たちを見つめているのは、はっきりと感じられた。
「ついに、出てきたね……。」ナミが低く呟く。
「えぇぇ……マジでボス戦!?」璃子が顔を引きつらせる。
影はゆっくりと腕を持ち上げると——
—— ザッ……!
一瞬で陽翔の目の前に迫った。
「——ッ!」
陽翔は反射的に飛び退く。
その瞬間——
—— ドンッ!!
影が地面を叩いた場所に、黒い衝撃波が広がった。
「おいおい……このままじゃ、俺らが死ぬフラグ立っちまうぞ?」玉城が皮肉交じりに呟く。
「だ、だからフラグを立てるなってばぁぁぁ!」璃子が叫びながら陽翔の背中に隠れる。
「——来る!」
美琴の鋭い声が響くと同時に、影が再び陽翔へと迫った。
「風のマブイ——疾風ノ舞!」
——シュッ!
美琴の体が風に乗って、一瞬にして陽翔の横をすり抜ける。
まるで消えるような速さで、影の攻撃をギリギリで回避した。
「……速ぇ……」陽翔が息をのむ。
美琴は足元に風を纏いながら、空気の流れを読み取る。
影の動きは速い。だが、美琴自身もまた、風の流れを感じ取ることができる。
「旋風ノ壁!」
——ゴォォォッ!
突風が巻き起こり、美琴を中心に防御の風が広がる。
風の壁が影の波動を弾き、陽翔たちを包み込むように守る。
「すげぇ……風がバリアみたいになってる……」璃子が驚きながら壁の向こうを見る。
「でも、長くはもたないわ!」美琴が鋭く言う。「このままでは押し切られる!」
「なら、さっさとぶっ飛ばせばいいじゃん!」璃子が拳を握る。
美琴は一瞬だけ微笑むと、再び風を纏い——
「風のマブイ——天翔ノ刃!」
手のひらをかざすと、そこから高圧の風の刃が発生する。
月光を反射して輝く透明な刃が、影へと一直線に飛んだ。
——スパァン!
風の刃が影を裂く——はずだった。
だが、影は直前でその形を変え、攻撃をすり抜けた。
「な……!?」美琴が驚く。
「攻撃を避けた……?」玉城が険しい表情になる。「まるで、“学習”してるみたいだな。」
「え、AI戦闘学習型の敵とか!? やめてよ、そういうの厄介すぎるって!」璃子が焦る。
「いや、それよりも——影がさらに動きやすくなってる?」美琴は眉をひそめた。
影は風に抗うように揺らめきながら、美琴の攻撃範囲から外れるように動いている。
まるで、風の流れを読むかのように。
「これは……適応してるってことか?」陽翔が呻く。
「なら——俺が止める!」
玄武が一歩前に出る。
「地のマブイ——地裂ノ轟!」
彼の拳が地面に叩きつけられた瞬間——
——ズズズズ……!!
大地が揺れ、影の足元の砂が突然崩れ落ちる。
「おおっ!?」璃子が思わずバランスを崩す。
「今だ!」玄武が叫ぶ。
「風のマブイ——烈風ノ双撃!」
美琴が風を纏い、二撃の風刃を影へと叩き込む。
——ズバッ!!
しかし——影はギリギリで身を翻し、紙一重で攻撃を回避した。
「避けた……だと!?」美琴が驚く。
玄武の地割れの影響で、確実に動きを封じられるはずだった。
だが、影はそれすらも見切っていたかのように、風に逆らわず、その流れに沿って動いた。
「……マズいねぇ。」ナミが静かに言った。「影が、完全にこちらの動きを読んでるよ。」
「えぇぇ!? つまり何!? めっちゃ頭いいってこと!?」璃子が焦る。
「いや、それだけじゃない……」美琴が唇を噛む。「この影、もしかすると“こっちの技を使わせようとしてる”……?」
「は?」陽翔が眉をひそめる。「そんなこと……」
だが、美琴の言葉を裏付けるように——
影は、静かに動き出した。
次の標的を見据え——
陽翔へと、一直線に襲いかかる。
「——陽翔さん!!」
美琴が叫ぶ。
——ドグッ!!
「——ッ!!」
陽翔の胸を、黒い爪が深く突き刺した。
熱い痛みとともに、肺が圧迫される感覚が襲う。
呼吸ができない。
声も出せず、視界が揺れ、重力の感覚すら失われていく。
「陽翔さん!!」
美琴の叫びが聞こえる。
——ガクンッ
足元から力が抜け、陽翔の体は地面に崩れ落ちる。
手を伸ばそうとするが、指先が震え、砂に沈んでいく。
——痛みは、ない。
あるはずなのに、感じない。
胸を貫かれたはずなのに、熱さも、苦しさも、遠のいていく。
代わりに広がるのは、静寂と、暗闇。
感覚が薄れ、体が沈む。
声が聞こえた気がする。誰かが叫んでいる。
でも、その声も、波の向こうへ消えていく。
まるで、この世界から切り離されるように——。