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マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
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第7話 草笛と止まった波

 目を開けた時には、もう部屋の中が白く明るくなっていた。


 天井の木目。

 古い扇風機。

 薄いカーテン越しに差し込む、沖縄の朝の光。


「あれ……寝たのか」


 昨夜、久高のニュースをスマホで見て、そのまま考え事をしていたはずだ。

 夢を見た記憶はない。


 枕元には、写真と封筒。

 掌には、握りしめたままの白い石。


 指を開くと、神石はまだひんやりとしたまま、陽の光を跳ね返していた。


「おはよー、にぃにぃ。生きてる?」


 襖の向こうから璃子の声がする。


「死んでたら返事しないだろ」


「ゾンビ実装されてるかもしれんし」


 ふすまが乱暴に開いて、璃子が顔を出した。

 パーカーのジッパーは半分開き、髪は軽く寝癖がついている。


「朝ごはんできてるよー。おかーさんが、にぃにぃの好きなスパム焼いてる」


「朝からヘビーだな」


 そう言いながらも、腹が素直に反応した。


 洗面所で顔を洗い、台所に向かう。


 由美はフライパンを片手に、忙しく動いていた。

 コンロには味噌汁の鍋。

 テーブルには、ジューシーのおにぎりと、卵焼きと、スパム。


「おはよう」


「おはよう。よく眠れた?」


「……まあ、そこそこ」


 曖昧に答える。


 由美はそれ以上突っ込まず、「はい、座って」と味噌汁をよそった。


「今日は、午前中に大まかな片付け済ませて、夕方には名護に戻りましょうね。陽翔、運転よろしくね」


「了解」


「私は?」


 璃子が箸を持ちながら首を傾げる。


「璃子は、洗い物と雑用担当」


「いわゆるサポート職か……」


「文句言うなら、外の掃き掃除も追加ね」


「全力でサポートします!」


 食卓には、いつもの調子が戻っていた。


 だが、目の前の料理の向こう側に、桐箱と写真と神石の影がちらつく。


「ねえ、にぃにぃ」


 味噌汁をすすりながら、璃子がふと口を開いた。


「昨日の夜、なんか変な夢見なかった?」


「夢?」


「うん。なんかさあ、波の音がすっごい近くて、誰かが笛吹いてるみたいな……」


 そこで言葉を濁す。


「……まあ、いいや。うまく説明できない」


「珍しいな、お前が言語化諦めるの」


「夢ってスクショ撮れないからさ」


 それきり、璃子はそれ以上話さなかった。

 由美も何も言わない。


 夢の話をするには、まだ全員の準備が追いついていないようだった。


 朝食を終えると、それぞれ作業に散る。


 由美は台所まわりと押し入れの整理。

 璃子は庭と縁側。

 陽翔は、仏間と居間の本や紙類。


 写真と手紙と神石は、ひとまず陽翔のリュックの中にまとめた。


 本棚には、昔の雑誌と、ツルおばぁが読んでいたらしい民話集、沖縄戦の本が混ざっている。

 ページの隙間に、押し花やメモが挟まっているのを見つけるたび、少しだけ胸が詰まる。


 昼前には、ひと通り「ここに何があるのか」は把握できる程度には片付いた。


「ふう……」


 畳に腰を下ろし、額の汗を拭う。


 縁側の方から、璃子の声がする。


「にぃにぃー、ちょっと来てー」


「今行く」


 縁側に出ると、璃子が庭のベンチに腰掛けていた。

 手には、細長い草の茎。


「見て見て。草笛、まだ吹けない」


「吹けてから呼べ」


「違うのー。にぃにぃに再教育してもらおうと思って」


 草をくるりと丸めて、口元にあてがうが、ぴゅっと情けない音が漏れるだけだ。


「ほら、貸せ」


 陽翔は草を受け取り、自分で新しい茎を一本選ぶ。


 昔と同じように、指でしごいて柔らかくし、輪を作る。


 唇にあてて、呼吸を整える。


 ツルおばぁに教わった通り、息を落とす。

 力を抜いて、押し出す。


 ヒュウ、と高く澄んだ音が、フクギの並木に溶けていった。


「おおー」


 璃子が拍手する。


「やっぱりにぃにぃ、草笛マスターだ」


「マスターってほどでもない」


「教えて教えて。私もイベント発生のBGM鳴らしたい」


「だから何でもイベントに繋げるな」


 笑いながらも、陽翔は手を動かす。


 璃子の手を取り、草の持ち方を直す。

 指の位置。

 口元の当て方。

 息の出し方。


「力入りすぎ。もっと抜いて。出そう出そうって思うと、出ないから」


「ゲームのガチャと同じだね」


「それは知らん」


 何度か試すうちに、やっと、かすれた短い音が鳴った。


「……鳴った!」


 璃子が目を輝かせる。


「今の、ログ残しておきたい……!」


「誰にも伝わらないログだな」


 笑いながら、陽翔はふと海の方を見た。


 フクギの間から、砂浜と、穏やかな波が見える。


 草笛をもう一度唇に当て、音を出す。


 今度の音は、さっきより少し低く、長くのびた。


 同時に、掌の中の神石が、ごくわずかに震えた気がした。


 右手に草笛。

 左手のポケットの中に、白い石。


 意識をそちらに向けた瞬間、空気の感触が変わった。


 風が止む。


 フクギの葉のざわめきが途切れる。


 海の音も、遠くへ押しやられたように薄くなる。


「……え?」


 目に見える景色は変わっていないのに、世界から音だけが抜け落ちたような感覚。


 波が、途中で止まっている。

 打ち寄せて、引いていくはずの白い縁が、砂の上でぴたりと動きを止めていた。


「なにこれ」


 草笛を口元から離す。


 心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。


 数秒。


 いや、もっと短いかもしれない。


 止まっていた波が、何事もなかったようにまた動き出した。

 風が戻り、フクギの葉がざわざわと鳴く。


 耳が、キン、と軽く鳴る。


「にぃにぃ?」


 すぐ横で璃子が首を傾げている。


「どうしたの? なんかバグった顔してる」


「今……」


 言いかけて、口をつぐむ。


 今、波が止まっていた。

 世界の音が、一瞬だけ消えていた。


 そう言葉にしようとした瞬間、「言わない方がいい」という直感が、どこからともなく湧いた。


「いや。ちょっと目がチカチカしただけ」


「寝不足じゃん」


 あっさり信じてくれた。


 ポケットの中の神石は、もう何の反応も示していない。

 冷たくもなく、熱くもなく、ただの小石のようにそこにある。


「……気のせい、か」


 自分にそう言い聞かせて、草笛を璃子に返した。


 昼過ぎ、片付けに区切りをつけて、家の戸締まりを確認する。


 仏壇の前で、もう一度手を合わせた。


「おばぁ、また来るさ」


 由美が小声で言う。


 陽翔も、胸の奥で何かが引っかかりながらも、「じゃあな」と遺影に呟いた。


 フクギの並木道を抜けるとき、風が吹いた。


 葉の間をすり抜ける光が、何かの拍子にチカチカと瞬く。

 その一瞬一瞬が、別々の時間の断片みたいに見えた。


「にぃにぃ、ぼーっとしてると木にぶつかるよ」


 璃子に肘で小突かれて、現実に引き戻される。


「大丈夫。木にぶつかる前にお前がぶつかるだろ」


「巻き添え前提やめて」


 そんな調子で軽口を叩きながら、三人は名護へ戻った。


 夕方、実家のリビング。

 窓の外は、だんだん薄暗くなり始めている。


 由美は、洗濯物を取り込みながら言った。


「これから、ツルおばぁの家とこっちと、どうするか考えないとね」


「売るのか?」


「簡単には売れないさ。あそこ、土地も場所も場所だし」


 由美は洗濯物を畳みながら、少しだけ遠くを見る目になった。


「しばらくは、そのままにしておくと思う。管理は大変だけど……ツルおばぁの家が無くなるのは、まだちょっと嫌だし」


「分かる」


 璃子がクッションを抱えたまま頷く。


「秘密基地がいきなり消えたら、エンディング間近みたいで怖いからね」


「お前の世界、エンディングだらけだな」


 陽翔はソファの背にもたれながら、スマホを手のひらで転がしていた。


 画面には、桐箱から出てきた写真の画像。


 今日、備瀬から戻ってすぐに、念のため撮影しておいた。

 ツルおばぁ。

 青年。

 黒猫。

 拝所と海。


「にぃにぃ、それ見すぎると呪われるよ」


「お前のそういう冗談、たまに笑えないんだよな」


 画面をスリープにしようとして、指が止まる。


 久高のこと。

 拝所のこと。

 泉のこと。

 父のノート。

 ツルおばぁの若い頃。


 それらをまとめて、「知ってそうな奴」の顔が一人だけ頭に浮かんだ。


 喜屋武真帆。


 幼馴染。

 今は民俗学をやっているはずの女。


 沖縄のシャーマニズムとかマブイとか、そういう「普通じゃないこと」を真面目に研究している、と噂で聞いた。


 連絡するか、しないか。


 これまで何度も迷って、結局しなかったことだ。


「……」


 陽翔は、メッセージアプリを開いた。


 一覧の中から、「喜屋武真帆」の名前を探す。


 最後のトーク履歴は、数年前の、大学進学の報告と、他愛のないスタンプだけ。


 新規メッセージの欄に、カーソルが点滅している。


「にぃにぃ?」


 璃子が隣から覗き込もうとする。


「見るな」


「見てないし。ただ、現実世界でメッセージ打ち始める時って、大抵フラグなんだよね」


「お前は本当に黙っててくれ」


 深呼吸一つ。


 何を書けばいいのか、一瞬迷う。


「久しぶり。今、沖縄に戻ってる」


 そこまでは、普通の近況報告だ。


 指が止まる。


「ツルおばぁが亡くなった」


 そう書くこともできた。

 だが、送る前に消した。


 代わりに、写真の添付ボタンを押す。


 桐箱から出てきた写真を選び、メッセージ欄に貼り付ける。


「この写真の場所、分かる?」


 文章を添えた。


 久高のことを真正面から言葉にするのが、なぜか怖かった。


 送信ボタンの上で、指が一瞬、迷う。


「送っちゃえ送っちゃえ」


 璃子が横から小声で煽ってくる。


「……うるさい」


 そう呟きながら、画面をタップした。


 送信済みの吹き出しと、その下に貼られた写真。

 その横に、小さな「既読」の文字がつく。


「反応早っ」


 璃子が目を丸くする。


 数秒の沈黙のあと、画面に新しいメッセージが表示された。


「どこで、この写真を?」


 文字数少なめの、見慣れた口調。


 さらに一行。


「……久高の拝所だよね、これ」


 最後の「これ」のあとに、打ちかけて消したような点々の気配があった。


 陽翔は、背中にうっすら汗がにじむのを感じた。


 やっぱり、あの場所は久高なのだ。

 夢の中で、何度も死んだ記憶と同じ場所。


「出た。久高」


 璃子が、その名前だけを繰り返す。


 掌の中の神石が、またかすかに震えた。


 その夜、久高という二文字は、陽翔の頭の中で、嫌な執着を持って居座り続けることになる。

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