第6話 由美の告白と久高島の噂
呼び鈴の音が、仏間まで澄んで届いた。
由美が立ち上がる。
「誰かしら。近所の人かな」
「私出るよ」
璃子が先に土間に走っていく。
陽翔は、まだ掌の白い石の感触を確かめていた。
さっきまで冷たかったはずの神石は、じんわりと体温になじんでいく。
「にぃにぃ、客人だよー」
璃子の声が聞こえ、陽翔も立ち上がった。
玄関に出ると、フクギ並木から差し込む光の中に、小柄なおばぁが立っていた。
背は低いが、目はやたらと元気だ。
「はいたい。あんた、ツルの孫ね?」
「あ、どうも。お世話になってます」
由美が頭を下げる。
「新城のおばぁ、わざわざありがとうね」
「いいさ、近くだから。ツルがいなくなってから、家の中、気になってたわけよ」
新城と呼ばれたおばぁは、手に持っていたスーパーの袋を掲げてみせた。
「ちょっとだけ惣菜持ってきたさ。あんたたち、片付けでご飯どころじゃないでしょ」
「いつもすみません」
由美は恐縮しながら袋を受け取る。
新城のおばぁは、陽翔の顔をじろじろと眺めた。
「この子、陽翔でしょ。ツルがよく自慢してた」
「……あ、はい。陽翔です」
思わず背筋を伸ばす。
「東京でえらい仕事してるってね。ツルが言ってたよ。『うちの孫は、頭だけじゃなくて心も優しいよ』って」
「ハードル上げていくスタイルだね」
後ろから璃子が小声で突っ込む。
「こっちの子は……由美の下の?」
「仲宗根璃子です。ツルおばぁには、お世話になりました」
璃子が頭を下げると、新城のおばぁは目を細めた。
「大きくなって。ツルと同じで、目がよく笑ってるさ」
そう言ってから、仏間の方をちらりと見る。
「ツルに顔見せてくるよ」
靴を脱いで上がりこみ、仏間へ向かう新城のおばぁの背中を、三人で追いかけた。
遺影の前に座り、静かに手を合わせる。
「ツル。よかったね。ちゃんと孫たち、帰ってきたよ」
小さな声は、仏間に溶けていった。
新城のおばぁは、線香立ての前で煙をしばらく見つめてから、振り返る。
「ツルと一緒に、戦後すぐからここら辺を片付けてたのよ。あの人、昔から変わってたさ」
「変わってたって、また……」
由美が苦笑する。
「いい意味よ。人が怖がる所に、平気な顔して歩いていく子だったからね」
新城のおばぁは、ふすまの向こうの押し入れに一瞬だけ視線をやる。
「あんた、もう箱、見たかね?」
「はい。写真と、手紙と……石が」
由美が答えると、おばぁは「そうね」と頷いた。
「ツル、いつも言ってたさ。『これは、陽翔が開けるまで置いとく』って。由美にも触らせないで」
「そこまで話してたんですね」
陽翔が思わず口を挟む。
新城のおばぁは、陽翔をじっと見る。
「ツルがね、戦後しばらくしてから、変な場所に行ってたのよ」
「変な場所?」
「久高さ」
その地名が出た瞬間、仏間の空気がわずかに揺れた気がした。
「久高島?」
璃子が聞き返す。
「そう。神さまの島」
おばぁは、膝の上で手を組んだ。
「避難で行った人もいるし、戦後になってから仕事で行った人もいる。でもツルは、『ちょっと泉を見に行ってくる』なんて軽く言ってね」
泉。
陽翔は、手の中の神石を無意識に握りしめる。
「泉、って……」
「おばぁ、そこまで」
由美が慌てて遮った。
「怖がらせる話は、あとでいいさ」
「怖いっていうか……変な話さ」
新城のおばぁは肩をすくめる。
「ツルが戻ってきたとき、いつもと同じ顔してたけど、目の奥は全然違ってた。『あの島は、二度目はないよ』って言ってた」
「二度目はない……?」
陽翔が繰り返す。
「一回で十分、とね」
新城のおばぁは立ち上がり、腰を叩いた。
「まあ、話は長くなるから、これは由美から聞きなさい。あたしが横から口出すと、またツルに怒られる」
笑って、玄関の方へ向かう。
「何かあったら呼びなさいよ。葬式も、片付けも、一人じゃできんから」
「ありがとうございます」
由美と一緒に見送る。
玄関を閉めると、家の中は再び静かになった。
フクギの葉が、風に揺れる音だけが聞こえる。
「今の……」
仏間に戻りながら、陽翔は由美を見る。
「久高の泉の話、本当にあるのか」
由美は少しだけため息をついた。
「あるよ」
座布団に座り直しながら、ゆっくりと口を開く。
「でも、私も全部知ってるわけじゃない。お母さんが、ぽろっとこぼした話だけ」
「聞かせて」
陽翔がそう言うと、璃子も自然と隣に座った。
「私も聞きたい」
由美は、遺影に一瞬視線を向ける。
「ツルおばぁが若い頃、戦争が終わってしばらくしてから、本土から変な人たちが来たって言ってた」
「変な人たち?」
「軍でもなくて、役所の人でもなくて。なのに、『調査だ』って言って久高に行きたがる人たち」
由美の声は、少しだけ遠くを見ていた。
「その人たちに、お母さんもついていったことがあるって」
「久高に?」
「うん。向こうの人に案内してもらって、島の中を歩き回って……最後に、泉みたいなところに行ったって」
泉。
夢の中の拝所には、暗い水の気配があった。
「お母さん、その泉のこと、『ちょっとおかしくなってた』って言ってた」
「おかしく?」
「水の底が真っ黒に見えたって。そこに、何か落ちてるような、何かが湧いてるような」
由美は手を組み、指をぎゅっと握りしめる。
「島の人たちは、その泉を昔から大事にしてたけど、その頃から『影が濃くなった』って噂になってたみたい。夜になると、泉のあたりから変な音がするとか」
「ホラーじゃん」
璃子が顔をしかめる。
「で、その調査は……どうなったんだ?」
陽翔の質問に、由美は首を振る。
「詳しいことは教えてくれなかった。『ちゃんと閉めてきたから大丈夫』って、笑ってたくらい」
「閉めてきた?」
「泉の口、って言ってたかな。『開いてたところを閉め直しただけさ』って」
閉め直した。
それが、第一次封印だったのだろうと、読者だけが後々理解することになる。
今の陽翔には、まだただの抽象的な話だ。
「でもね」
由美は、少しだけ声を落とした。
「それからしばらくして、お母さん、あの写真を撮ってもらったって」
「さっきの?」
「あの拝所の下の浜で」
由美の視線が、桐箱の横に置かれた写真に向かう。
陽翔も、そっと写真を手に取った。
海と拝所を背に並ぶ、若いツルおばぁと、自分そっくりの青年。
足元には黒猫。
「これは、泉の仕事がひと段落したあとに、島の人が『記念に一枚撮ろう』って撮ってくれた写真らしいよ」
「そんな大事な仕事の記念写真に、なんで俺……じゃないけど、この人がいるんだよ」
「それが、分からないのよ」
由美は苦笑した。
「私も何回か聞いたけど、『昔の友だち』って言うだけで、名前も教えてくれなかった」
「……本土の人?」
「そう。お母さんの話し方からすると、そういう雰囲気だった」
由美の脳裏には、清一郎の姿が薄く浮かんでいたが、具体的な輪郭は曖昧だ。
彼女自身も、幼い頃にほとんど会っていない。
「久高の泉で何をしたのかも、その人がどんな人だったのかも、ちゃんとは聞けなかった」
「なんで?」
陽翔が問うと、由美は少し考えてから答えた。
「聞くたびに、お母さんの顔が、すこしだけ苦くなるから」
沈黙が落ちる。
「ツルおばぁ、自分でも言ってたの」
由美は、遺影に向かって語りかけるように続ける。
「『あれは昔のツルがやったことさ。今のツルには、もう関係ないよ』って」
「昔のツル……」
陽翔は、写真の中の若いツルを見つめる。
「じゃあ、今の俺にも、関係ない話ってことか」
そう言ってみたが、言葉は自分の喉でつかえた。
掌の神石が、またかすかに震えた気がする。
由美は、そんな息子の様子を見ながら、少しだけ迷ったあと口を開いた。
「お父さんね」
唐突に出た単語に、陽翔と璃子が同時に顔を上げる。
「陽翔のお父さんが亡くなる、少し前のことよ」
由美は手を膝の上でぎゅっと組んだ。
「本棚に、変なノートが挟まってたの。お父さんが会社から持って帰ってきたみたいで」
「ノート?」
「中身はほとんど数字と記号ばっかりで、お母さんには分からなかったけど……表紙の隅に、小さく『久高』って書いてあった」
「え」
陽翔が目を見開く。
「仕事の資料かもしれないと思って、あんまり深く見なかった。問い詰めても、はぐらかされたし」
由美の声は、少し震えていた。
「あの人が亡くなってから、そのノートはどこかに消えた。会社の人が持って行ったのか、誰かが黙って処分したのか、分からない」
「なんで今まで言わなかったの」
気づけば、声が少し強くなっていた。
「ごめん」
由美は素直に謝った。
「私も、ずっと怖かったんだと思う。久高のことを、真正面から見るのが。お母さんが昔関わった場所に、あんたのお父さんも、何かで触れてしまったのかもしれないって考えるのが」
「……」
陽翔は、言葉を失った。
久高。
泉。
影。
ツルおばぁ。
そして、父。
全部が、一本の線の上に並び始めている。
璃子が、膝を抱えて小さく呟いた。
「じゃあ、うちの家系、久高絡みで死にかけたり死んだりしがちってこと?」
「言い方」
由美と陽翔が同時にツッコむ。
「でもさ」
璃子は真剣な顔をしていた。
「おばぁも、お父さんも、にぃにぃも……なんか、久高に呼ばれてるみたいで気持ち悪いよ」
その言葉が、意外なほど胸に刺さった。
「呼ばれてる、ね」
陽翔は、写真を見つめたまま呟く。
写真の中の拝所は、夢で何度も見た場所と同じだった。
石段の形も、海の色も、空の抜け方も。
そこに立つ自分そっくりの青年の顔だけが、わずかにピントを外している。
「……眠くなってきた」
由美が立ち上がる。
「今日はここまでね。片付けもそこそこでいいから。夜の備瀬は、思ったより暗いから、外にはあんまり出ないように」
「はーい」
璃子が気の抜けた返事をして伸びをする。
「陽翔、写真と手紙は、あんたが持ってなさい。石もね」
由美はそう言い残して、台所へ向かった。
仏間には、陽翔と璃子だけが残る。
「……にぃにぃ」
「なんだよ」
「私、ホラー得意じゃないからさ。もし『実はこれ全部怪異でしたー』って展開になったら、全力で逃げるよ」
「安心しろ。俺も怪異は得意じゃない」
「いや、にぃにぃは逃げずに守ってくれないと困るんだけど」
「理不尽だな」
そんなやりとりで、少しだけ空気が軽くなる。
夕方、片付けは中途半端に終わり、簡単な夕食を済ませると、それぞれ布団を敷いた。
夜、備瀬の家は驚くほど静かだった。
波の音と、風がフクギを揺らす音だけが聞こえる。
天井を見上げながら、陽翔は手を伸ばした。
指先で、写真の端に触れる。
枕元に置いておいたそれを引き寄せ、暗がりの中で眺めた。
ツルおばぁと、青年と、黒猫。
その背後には、拝所と海。
夢で何度も見た場所と、写真の風景が、ぱちん、と重なる。
「……同じだ」
声に出してみると、少しだけ現実味が薄れる。
掌には、白い神石。
冷たい鼓動のようなものが、かすかに伝わってくる。
スマホを手に取り、なんとなく画面をつけた。
電源は、さっき落ちていたはずなのに、今は普通に起動している。
ニュースアプリが、自動で更新されていた。
「久高島周辺で原因不明の停電」
「観光施設への影響は軽微」
そんな見出しが並んでいる。
記事を開く指が、途中で止まった。
「……久高」
口に出すと、胸の奥がざわつく。
夢の中の拝所。
写真の中の拝所。
ニュースの中の久高。
どこまでが偶然で、どこからが必然なのか、分からない。
ただ、ひとつだけはっきりしている。
何かが、繰り返し自分をあの島へ引っ張っていこうとしている。
「影に引かれやすい子だはずね」
ツルおばぁの手紙の言葉が、思い出したように蘇る。
「影に引かれても、迷子になるなよ……か」
誰にともなく呟き、陽翔は目を閉じた。
瞼の裏には、また拝所が広がる。
だが、この夜は、黒い影が押し寄せてくる直前で途切れた。
終わらない夢の続きは、まだ先に取っておかれているらしい。




