第5話 桐箱と写真、ツルおばぁの手紙
桐のふたを持ち上げた瞬間、古い紙と線香の匂いがふわりと広がった。
中には、ぎっしりと物が詰まっているわけではない。
底の方に、柔らかい布で包まれた小さな何かがひとつ。
その上に、黄ばんだ封筒が一通。
そして、厚紙のケースに挟まれた一枚の写真。
「……意外と少ないな」
思わず漏らした陽翔の声に、璃子が身を乗り出す。
「なんか呪われた面とか出てこなくてよかった。ホラー展開はまだ早いからね」
「お前の脳内、常にホラーかゲームしかないのか」
ふたりのやりとりを聞きながら、由美が小さく笑った。
「ツルおばぁ、あんまり物を溜め込む人じゃなかったからね。大事な物だけ、ここに入れてたんだと思うよ」
陽翔は、いちばん上にあった厚紙のケースをそっと取り上げた。
古い写真屋のロゴが、かすれかけている。
ケースの端を押し広げ、中身を引き出した。
そこには、海と拝所を背に並ぶ三つの影が写っていた。
若い女。
その隣に立つ青年。
足元で丸くなっている黒猫。
「……え?」
最初に声を上げたのは、璃子だった。
「にぃにぃ?」
「え?」
今度は陽翔の声が裏返る。
写真の中央に立つ青年は、どう見ても他人のはずだった。
なのに、目の形も鼻筋も輪郭も、自分とほとんど同じに見える。
眼鏡を外した鏡の中の自分を、少し古いフィルムで撮ったような。
「これ……ツルおばぁだよね」
由美が、写真の左側を指でなぞる。
白いワンピース。
あの頃よりもずっと若い顔のツルおばぁ。
笑い方は、遺影のそれと同じだ。
「ツルおばぁ若っ。めっちゃ美人じゃん」
璃子が素直に感想をもらす。
「母さん、これいつの写真?」
陽翔は、自分の声が少し掠れているのに気づいた。
「さあ……戦後、しばらくしてからだと思う」
由美は眉根を寄せる。
「お母さんが若い頃に、久高の方で撮ったって、少しだけ聞いたことあるけど……詳しくは教えてくれなかったのよ」
「久高……」
胸の奥に、また別の重さが落ちる。
機内で見たニュース。
「久高島近海で小規模な地震。」
夢の中の拝所。
黒い海のような影。
そして今、写真の中の拝所の前で笑っている、自分そっくりの誰か。
「この真ん中の人ってさ」
璃子が、遠慮なく核心を突いてきた。
「にぃにぃのクローン?」
「そんなものがこの時代にいるか」
「じゃあ、未来から来たアバター」
「もうちょい現実寄りの候補出してこい」
軽口で誤魔化しながらも、写真から視線を外せない。
青年の顔のあたりが、ほんの少しだけピントを外したようにボヤけて見えた。
カメラのせいなのか、紙の劣化なのか、それとも……。
「この猫、見覚えあるなあ」
璃子が写真の下の方を指差す。
黒い毛並みの小さな猫が、青年の足元で丸くなっている。
「昔、おばぁの家にいた黒い猫もこんな感じだったよね」
「猫なんていたか」
「いたし。黒いやつ。名前は教えてくれなかったけど」
「……そうだったか」
黒い猫。
足元をすり抜ける黒い影。
一瞬、拝所の暗闇と重なりかけて、陽翔は自分でその連想を打ち消した。
「母さんは、この男の人のこと、聞いたことないのか」
ほとんど無意識に、口が動いていた。
由美は少しだけ困ったように笑う。
「お母さんが若い頃にね、『本土の人と仕事したことがある』っていう話は、なんとなく聞いたよ」
「仕事?」
「戦争のあと、何か調査みたいなのがあったって。それ以上は、あんまり話してくれなかった」
由美は写真を覗き込むように目を細めた。
「でも、この人の名前は、とうとう教えてくれなかったなあ」
「ふーん……」
璃子は写真の青年と陽翔を交互に見比べて、「コピペレベル」と小声で呟く。
そのたびに、胸の奥が変な風にざわついた。
写真から目を離せずにいる陽翔の視界の端で、由美が桐箱の中の封筒を手に取る。
「これも、陽翔宛てみたい」
「俺に?」
封筒の表には、やや震えた字で「陽翔へ」と書かれていた。
昔から見慣れた、ツルおばぁの文字だ。
由美は、それをそっと陽翔に渡す。
「読んであげなさい」
「……いいのか」
「おばぁが、あんたに渡しなさいって言ったんだから」
陽翔は、喉が少し乾くのを感じた。
封筒の端を指でつまみ、ゆっくりと開ける。
中から折りたたまれた便箋が一枚出てきた。
紙は黄ばんでいるが、インクはまだはっきりとしている。
深呼吸をひとつ。
陽翔は、声に出して読むことにした。
「陽翔へ――」
由美と璃子も、自然と耳を傾ける。
「陽翔へ。これを読んでいるということは、おばぁはもうそっちにはいないはずね」
一行目から、ツルおばぁらしい率直さだった。
「おばぁのことは、いっぱい泣いてもいいけど、長くは引きずらないでね。人は、ニライから来て、ニライに帰るだけさ」
璃子が、そこで小さく鼻をすすった。
「おばぁ……」
陽翔は続きを追う。
「陽翔は、影に引かれやすい子だはずね」
その一文で、指が止まった。
「……は?」
思わず漏れた声に、由美が不安そうに顔を覗き込む。
「なんて?」
「いや……」
陽翔は、咳払いをひとつして、読み上げを続けた。
「影に引かれても、影の中で迷子にならんように。息を落としなさい。足元を見なさい。誰の手を、どこに置くか、よく見てから動きなさい」
ツルおばぁの声が、そのまま耳元で聞こえるようだった。
「お前は、特別えらい子じゃないよ。普通の子さ。普通の子が、ちょっとだけ流れを見やすいだけ」
普通の子。
ちょっとだけ、流れを。
夢の中で何度も同じ場所で死んだ感覚と、拝所の影と、久高島のニュースが、全部胸の中で重なっていく。
「由美のことを、責めんでくれなさい」
そこだけ、字が少し濃くなっていた。
由美が、びくりと肩を揺らす。
「あの子は、よう頑張ったさ。陽翔のお父さんのことも、璃子のお父さんのことも、自分のせいだと思って、ずっと抱え込んでるはずよ」
「……」
由美は、何か言おうとして、結局何も言わなかった。
「人は、自分の力で守れるもんは少ないさ。それでも手を伸ばした子を、責めちゃいけないよ」
紙の上で、ツルおばぁは淡々と書いていく。
「迷ったら、風と波の声を聞きなさい。頭で考える前に、息を整えなさい。怖い時ほど、早く動かんといけないけど、急いで決めちゃいけない」
璃子が、鼻をすすりながら笑った。
「おばぁ、相変わらずチュートリアル雑……」
「チュートリアルって言うな」
陽翔は苦笑しながらも、目の奥が熱くなるのを感じていた。
便箋の最後の方の文字は、少しだけ弱々しくなっている。
「陽翔が、大事な人たちを連れて、備瀬に戻ってくる日があるはずね。その時、おばぁはいないかもしれない。でも、あの子たちを守ってあげなさい。手を離すなよ」
「……大事な人たち?」
由美が小声で繰り返す。
璃子は、ちら、と陽翔の横顔を盗み見た。
最後の一文が、やけに大きく胸に残る。
「影に引かれた時は、『まだ終わらんよ』って笑いなさい。それができる子は、そう多くないさ」
そこまで読んで、便箋の文字は途切れていた。
「……終わり」
陽翔は、静かに紙を折りたたんだ。
仏間の空気が、少しだけ重くなった気がした。
由美は、目元を指で押さえながら、小さく笑う。
「ほんと……ツルおばぁらしいね。人の心配ばっかりして」
「おばぁ、私のことは?」
璃子が不満そうに口を尖らせる。
「名前、一回も出てこないんだけど」
「陽翔にまとめて託したんじゃない?」
由美が肩をすくめた。
「璃子のことも、由美のことも、『あんたが守りなさい』って」
「にぃにぃ、ハードモードだね」
「勝手に難易度上げるな」
軽口を返しながらも、陽翔の胸の中には、どうしようもない居心地の悪さが残っていた。
自分は、そんな大層な役目を背負う器じゃない。
ツルおばぁが勝手にそう思っているだけだ。
そう言い聞かせても、便箋の文字は消えない。
由美が、桐箱の中に視線を落とした。
「あと一つ、残ってるね」
底にあった布包みを、そっと持ち上げる。
掌にすっぽり収まるくらいの大きさ。
白い布にくるまれていて、ところどころ黄ばみが出ている。
「お守り……かな」
璃子が興味津々で覗き込む。
「開けてみるよ」
由美が布の端をほどくと、中から小さな白い石が転がり出た。
丸でも四角でもなく、自然に削れたような形。
表面はなめらかで、光にかざすとうっすらと中が透ける。
「きれい……」
璃子が思わず声を漏らす。
「なんか、氷みたい」
由美は石を指先でつまみ、少し眺めてから首をかしげた。
「神の石、だって言ってた気がする。昔、お母さんが。ちゃんとした名前は教えてくれなかったけど」
「神石、とか?」
璃子が適当な名前を口にする。
「ニライの神さまに繋がる石、とか、そんな感じのことを言ってたかなあ」
由美は、記憶を探るように目を細めた。
「お守りみたいなもんだって。落とすなよって、よく怒られた」
「じゃあ、それ……誰が持つのが正解なんだ?」
陽翔が問うと、由美は迷いなく石を差し出してきた。
「陽翔でしょ」
「なんで俺」
「おばぁの箱から出てきたものは、だいたい陽翔の担当」
由美は、さも当然のように笑う。
「お母さんが持ってるより、あんたが持ってた方がしっくりくるさ」
「にぃにぃ、レアアイテムゲットおめでとう」
璃子がにやにやしながら言う。
「神石って絶対重要アイテムじゃん。ラスボス前に光りだすパターンのやつ」
「縁起でもないフラグ立てるな」
文句を言いながらも、陽翔は差し出された白い石を受け取った。
掌に乗せた瞬間、ひやりとした感触がした。
氷のように冷たいのに、不思議と嫌な冷たさではない。
石の内側から、かすかに脈打つような感覚が伝わってくる。
「……なんか、動いてる気がする」
「石が?」
璃子が首をかしげる。
「鼓動……とまではいかないけど、なんか、波みたいな」
うまく言語化できない。
夢の中で感じた、黒い“海”の逆側。
海の底からそっと押し上げてくるような、静かな流れ。
「気のせいじゃない?」
由美はそう言いながらも、どこか真剣な目で息子の手を見ていた。
「でも、それでいいのかもね。そう感じるなら、あんたが持ってなさい」
白い石は、陽翔の掌の中でじっと静かに光を反射している。
写真。
手紙。
そして、この白い神石。
ツルおばぁが残したものは、思ったよりも少なくて。
けれど、そのどれもが、やけに重かった。
土間の方で、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
三人とも、顔を上げる。
「誰かしら」
由美が立ち上がる。
このタイミングで訪ねてくる人間が誰なのか。
陽翔は、まだ知らない。
ただ、掌の神石が一瞬だけ熱を帯びた気がして、思わずぎゅっと握りしめた。




