第4話 備瀬のフクギ並木とツルおばぁの家
名護から本部までは、車で小一時間もかからない。
国道を北上しながら、宮里陽翔はハンドルを握った。
助手席には仲宗根由美、後部座席には仲宗根璃子。
窓の外には、海と山と、やたら元気な観光バスが交互に現れては消えていく。
「にぃにぃ、スピード出しすぎじゃない? 私まだ死ぬ予定ないんだけど」
後ろから璃子のツッコミ。
「出してないわ。制限速度ぴったりだろ」
「制限速度ぴったり維持する奴が一番信じられないってゲームで習った」
「そのゲーム教育やめろ」
フロントガラス越しに見える海は、ところどころ白く波が立っていた。
空は少しだけ雲が多い。
「今日は、天気ちょっと崩れそうね」
由美がフロントガラスの向こうを見ながら言う。
「備瀬に着くまで、降らなきゃいいけど」
「おばぁ、雨女だったしな」
陽翔が何気なく呟くと、由美が小さく笑った。
「そうね。大事な時に限ってスコールみたいな雨降らせる人だったさ」
「イベント発生フラグってやつだね」
「璃子、ほんとに一回ゲーム抜きで喋れないの」
そんな軽口を交わしているうちに、道はだんだん細くなっていく。
看板に「備瀬」と書かれていた。
左に曲がると、視界が一気に変わる。
フクギの木々が、トンネルのように頭上を覆っていた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
濃い緑の壁。
木と木のあいだから差し込む光が、砂地の道にまだら模様を描いている。
車をゆっくり走らせると、葉のざわめきが車体を撫でた。
「なんか……ダンジョンの入り口っぽい」
後ろから璃子。
「お前の語彙、やっぱりそれしかないのか」
「でも分かるでしょ? 入ったら戻ってこれなさそうな感じ」
そう言われると、少しだけ笑えない。
フクギの並木道には、子どもの頃何度も来ている。
なのに、今通っているこの道は、記憶より暗くて静かだった。
観光客の姿も、今日はほとんどない。
「平日だしね。観光の人たちは水族館の方に流れてるんじゃない?」
由美がそう言ったが、声は少しだけ沈んでいた。
フクギのトンネルを抜けると、海からの風が一気に吹き込んできた。
視界が開ける。
右手には青い海、左手には昔ながらの赤瓦の家々。
その中の一軒が、ツルおばぁの家だ。
家の前に車を停めると、潮と土と古い木の匂いが一気に濃くなる。
「着いたよ」
エンジンを切ると、急に世界が静かになった。
風と波と、どこかで鳴く鳥の声だけ。
陽翔は車を降り、フクギの並木越しに家を見上げた。
赤瓦の屋根。
白い漆喰の壁。
低い石垣。
変わっていない。
けれど、どこか、色が薄く見える。
「……おばぁの家だ」
璃子がぽつりと呟いた。
小さい頃、夏休みのたびにここへ来ていた。
ツルおばぁの家は、海に行くための拠点であり、秘密基地であり、時々説教部屋だった。
「荷物持って。まず仏壇に挨拶ね」
由美がトランクを開け、手慣れた動作で花と線香の袋を取り出す。
陽翔と璃子も、それぞれバッグを肩にかけた。
門をくぐる瞬間、ふわりと風が止んだ。
さっきまで葉を揺らしていたはずのフクギが、ぴたりと動きを止める。
「……あれ?」
思わず空を見上げる。
雲は流れている。
海面には波が立っている。
なのに、家の敷地の上だけ、空気が一枚重くなったような感覚があった。
「どうしたの、陽翔」
由美が振り返る。
「いや……なんでも」
言い訳のように笑って、土間へ上がった。
戸を開けると、ひんやりした空気が押し寄せてくる。
外より、少し温度が低い。
「誰か、掃除はしてくれてたんだね」
由美が室内を見渡す。
畳には薄い埃はあるが、放置されていた感じはない。
仏間の前には、新しめの花と、まだ香りの残る線香の匂い。
「近所の人がね、時々見てくれてたって。連絡もらってたさ」
そう言って、由美は仏間に向き直る。
祭壇の前に座り、静かに手を合わせた。
「ツルおばぁ。ただいま。陽翔連れてきたよ」
陽翔も、その隣で正座する。
遺影の中のツルおばぁは、笑っている。
名護の実家にあったコピーと同じ写真。
でも、ここでは、それが妙に重く見えた。
「……ただいま、おばぁ」
小さく呟いて、陽翔も手を合わせる。
汗ばむような暑さのはずなのに、掌だけが妙に冷えていた。
璃子も少し離れたところで手を合わせ、「おばぁ、久しぶり」と小声で言ったあと、すぐに立ち上がった。
「さて。とりあえず窓開けようね」
由美が立ち上がり、障子と窓を次々に開けていく。
閉ざされていた空気が、少しずつ入れ替わっていく。
風鈴が、久しぶりに音を鳴らした。
「にぃにぃ、庭見に行こうよ」
璃子に引っ張られて、縁側へ出る。
庭には、昔と同じように、ツルおばぁが育てていた鉢植えが並んでいた。
ハイビスカス、サンパラソル、見たことのない薬草っぽい葉。
「だいぶ枯れてるけど……それでも残ってるね」
「おばぁ、植物だけは異常に元気にする才能あったからね。なんかバフかけてんじゃない?」
「バフって言うな」
笑いながらも、陽翔は庭の隅に目をやった。
そこには、小さなベンチがある。
昔、そこで草笛を教わった。
子どもの自分と、隣に座る真帆と璃子。
向かい側には、ツルおばぁ。
「息を落としなさいよ。音を急がさんでいいさ」
そんな声が、耳の奥でよみがえった。
「にぃにぃ?」
「いや……なんでもない」
視線を逸らすと、縁側の柱に、爪で引っかいたような細い傷がいくつも並んでいるのが見えた。
「おばぁの猫、ここばっかりガリガリしてたよね」
璃子が思い出したように言う。
「猫、いたか」
「いたし。黒いやつ。名前は教えてくれなかったけど」
「……そうだったか」
黒い猫。
足元をすり抜ける黒い影。
一瞬、拝所の暗闇と重なりかけて、陽翔は自分でその連想を打ち消した。
「陽翔、ちょっとこれ運ぶの手伝って」
由美に呼ばれ、居間へ戻る。
段ボールや紙袋がいくつか積まれていて、「服」「食器」「本」などのラベルが雑に貼られている。
「おばぁのもの、ひとまず仕分けしないとね。備瀬の家は残しておくけど、全部は置いとけないし」
「俺、押し入れの方見るよ」
「お願い。布団とかは処分しなきゃね」
陽翔は言われるまま、仏間の横の押し入れの前に立った。
子どもの頃、かくれんぼでよく潜り込んだ場所だ。
あの時は広い秘密基地に思えたが、今見るとさすがに狭い。
ふすまに手をかけようとした瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
取り出して画面を見ると、一瞬だけニュースアプリの通知が表示されかけて、すぐに消える。
「……?」
バッテリーは十分あるはずなのに、画面が真っ暗になった。
ボタンを押しても、反応がない。
「またかよ」
名護の家では普通に動いていたのに。
電波の問題というより、電源そのものが落ちたような感覚だった。
「陽翔?」
由美が振り返る。
「いや、スマホが……」
言いながら、もう一度電源ボタンを押す。
その瞬間、仏間の空気がぴん、と張り詰めるような気がした。
ツルおばぁの遺影が、こちらを見ている。
いや、さっきからずっと見ているのは分かっているのに、今だけは視線が生々しく感じた。
「……気のせいだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、スマホをポケットに戻した。
ふすまに指をかける。
昔よりも、木の感触がざらついている。
ゆっくり横に引くと、反対側からひやりとした空気が流れ出てきた。
上の段には畳んだ布団。
下の段には、段ボール箱と、古いカバンと、木の箱がいくつか並んでいる。
「おお、なんかお宝ありそうな雰囲気」
背後から璃子が覗き込む。
「お前の頭の中、常に宝箱見えてそうだな」
「だってさあ。押し入れってだいたいイベントトリガー仕込まれてるじゃん」
「ゲームの話から離れろって」
軽く小突きながらも、陽翔の目は、押し入れの奥にあるひとつの箱に吸い寄せられていた。
他の段ボールとは違って、それは木目のきれいな箱だった。
少し黄ばんだ桐のような色。
古いのに、やけに存在感がある。
「母さん。これ、どうする?」
「どれ?」
由美が近づいてきて、陽翔の指差す先を見た。
一瞬だけ、表情が変わる。
「ああ……それね」
由美の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「ツルおばぁが、大事なもの入れてるから、勝手に開けるなって言ってた箱よ。子どもの頃、あんたがしょっちゅう狙ってたやつ」
「……覚えてないな」
「覚えてない方がいいこともあるさ」
そう言いながらも、由美は押し入れの前でしばらく考え込んだ。
「でも、ツルおばぁ、亡くなる前に言ってたのよ」
由美は、仏間の遺影に一瞬目をやる。
「『陽翔が戻ってきたら、あの箱を開けさせなさい』って」
呼吸が、一瞬だけ止まった。
「俺に?」
「そう。由美には見せなくていいから、あの子に見せなさいって」
ツルおばぁの声が、耳の奥で蘇るような気がした。
「……なんで」
思わず漏れた問いに、由美は首を振る。
「それは、おばぁに聞きなさいって言いたいけど……もう無理だからね」
小さくため息をつき、由美は息子の肩を軽く叩いた。
「開けるかどうかは、陽翔が決めなさい。怖かったら、やめてもいいから」
「にぃにぃ、怖いの?」
璃子が横から覗き込む。
「ビビりだったら私が開けよっか?」
「お前はちょっと黙ってろ」
陽翔は、桐の箱に目を落とした。
手のひらサイズより少し大きいその箱は、金具も鍵もついていない。
ただ、長い時間を吸い込んだような色をしている。
ツルおばぁが、自分に開けさせろと遺した箱。
中に何が入っているかは分からない。
写真か、手紙か、もっと別の何かか。
触れたくない気持ちと、今すぐ開けて確かめたい衝動が、胸の中で綱引きしていた。
「……とりあえず、出す」
そう言って、陽翔は腕を押し入れの奥に伸ばした。
指先が木の箱に触れた瞬間、指先から冷たい痺れが腕に駆け上がる。
「っ……」
一瞬、視界の端が暗くなった。
拝所の影。
黒い海。
ツルおばぁによく似た声。
全部が、一瞬だけ胸の奥で反響する。
「陽翔?」
由美の声が、少し遠くに聞こえた。
「大丈夫?」
璃子が不安そうに覗き込む。
「……平気」
無理やり息を吐いて、箱を引き出した。
桐の箱は、見た目よりも軽かった。
だが、両手で持ったとき、重さは別のところにのしかかってくる。
仏間の前、畳の上にそっと置く。
三人とも、自然と箱を見下ろす形になった。
「にぃにぃが、開けなよ」
璃子が小声で言う。
由美は何も言わない。
ただ、ツルおばぁの遺影と箱のあいだを、静かに見つめている。
陽翔は、自分の指先を見た。
ほんの少し震えている。
それでも、箱のふたに指をかける。
息を吸い込む。
落とす。
ツルおばぁに教わった呼吸の仕方が、自然と体に戻ってくる。
「……おばぁ」
心の中でだけ、そう呼びかけた。
そして、ゆっくりと、ふたを持ち上げた。
中を覗き込んだ瞬間、陽翔は息を呑むことになる。
だが、その中身が何なのかを知るのは、もう少し先の話だ。




