表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
34/34

第34話 鈴の音

 黒猫の爪が、宙の札を包む黒い霧に弾かれた。


 バチッ。


 硬い反発が走り、黒猫の体が砂の上で回る。それでも四本の足で着地する。鍵しっぽがピンと立った。


 もう一度跳ぶ。


 霧の薄い端を狙う。


 だが、当たる直前だけ霧が集まり、爪の勢いが落ちた。紙に届かない。


 黒猫が低く唸る。


 正面では、影の腕が次々と伸び、真帆の光の守りへ叩きつけられていた。


 ゴンッ。


 ゴンッ。


 守りの面に、ガラスみたいな細いひびが走る。一本では終わらず、細い筋が増えていく。


「……っ」


 真帆が歯を食いしばる。息を吐いて肩の力を落とす。


 ひびの端が淡く光って、少しだけ戻った。


 戻る。けれど、受けるほうが早い。


「真帆、大丈夫か」


 陽翔が声を投げる。


「だ、大丈夫……でも、いつまで持つかわからない」


 真帆は答えながら、もう一度息を吐いた。指の力を抜く。ひびの端がほんの少し戻る。


 右から、美琴の風が走る。


 砂が面で舞い、影の腕の先が外へ流れた。真帆の守りの正面を直撃するはずの角度が外れ、音が一つ減る。


「右、次も来ます」


 美琴は短く言い、札を指に挟んだまま宙を追う。


 腕は、札のある位置から出る。札が動けば、腕も動く。


 そこだけは、はっきりしてきた。


「美琴、腕の先だけでもいい。真帆に当てさせるな」


「はい。角度をずらします」


(守りが削られてる。猫が裂けないと札は残る)


(札が残れば腕は増える)


(黒猫が止まったら詰む)


 黒猫は腕の間を抜けるように走った。


 爪が落ちる直前に体を低くし、砂の上を滑る。横に薙ぐ腕に合わせて跳び上がる。


 速い。けれど相手も合わせてくる。


 札の位置が少し変わるだけで、腕の角度が変わる。黒猫の逃げ道が細くなる。


 陽翔は歯を食いしばった。


 並木寄りの後方。


 璃子と玉城先生は、砂を蹴って下がりながら、顔を伏せていた。


「先生、あれ、数……増えてないよね」


「増やさないほうが怖い。余裕があるってことだ」


「嫌だな、それ……」


「嫌がっても始まらん。転ぶな。砂が口に入る」


「もう入った!」


「学習しろ!」


 掛け合いが軽い。けれど声は震えている。


 浜の先、フードの相手が動いた。


 札ではない。


 相手の手元に、月を返す小さな金属の光が見えた。


 璃子が息をのむ。


「先生、いま……光った……」


「見えた。金属だ。小さい。嫌な予感しかしない」


「嫌な予感って便利だね……」


「便利でも助けてくれん」


 陽翔の耳が、キーンと痛んだ。


 波の音が薄くなる。砂を踏む音が遠くなる。自分の呼吸だけがやけに大きい。


 その瞬間、視界が二重になった。


 同じ浜、同じ月明かり。


 なのに、黒猫の位置だけがずれて見える。


 今いる場所と、ほんの少し先の場所が重なって見えた。


 次の一手だけが、先に混ざる。


(黒猫の所に、何か来る)


 フードの相手が一歩、黒猫へ近づいた。


 影の腕の攻め方が変わる。真帆の守りへ叩きつける腕を減らし、黒猫の進路へ腕を集める。


 挟む。


 跳び先を潰す。


 黒猫は跳ぶ。だが、跳んだ先に別の爪が待っている。


 黒猫の爪が砂を掻き、体が半回転した。ぎりぎりで避ける。


「猫、挟む気だ……!」


 陽翔が言った。


「見えてます」


 美琴の返事は短い。目線は宙。風は腕の先だけを外へ押しやる。


 それでも数が多い。追いつかない。


「もう少しだけ、道を作れ!」


「分かりました!」


 フードの相手の口が動いた。


 声は小さい。波に消えそうだ。けれど陽翔には届く。


「……お前たちは弱い」


 闇に覆われた顔が、黒猫のほうへ向く。


「だが、いま一番厄介なのは」


 淡々と言い切る。


「邪魔な駒から消す」


 言葉の温度がない。


 だから余計に怖い。


(狙いが猫に移った。猫が落ちたら終わる)


(守りは割れる。風は追いつかない。俺の手は届かない)


 陽翔の意識に、別の声が混ざった。


 耳で聞く感じじゃない。言葉だけが急に入ってくる。


 ――止めろ。


 ――そこに入るな。


 低い声だった。


(入らなかったら、猫が消える。叫んでも通じない。あいつは言葉より動きだ)


 フードの相手が、金属を持ち上げた。


 鈴。


 指で持てるほど小さい鈴。


 鈴の前に、光の輪が出た。


 空中に円が一つ。


 円の中に細い模様が組まれ、回り始める。直線と角、刻みが重なっていく。


 円は一枚で終わらない。


 二枚、三枚。角度をずらして重なり、鈴の前に薄い層ができる。


 円が重なるたび、空気が張る。


 砂の粒が細かく震え、髪が揺れ、肌が粟立つ。


 耳の痛みがさらに強くなる。キーン、と刺さる。


 鈴の前だけじゃない。


 砂の上にも、薄い輪が出た。


 黒猫の足元、ちょうど一メートルの円。


 円の縁に小さな刻みが走る。鈴の前の模様と同じだ。


 輪の内側に、光の刻みが何度も重なる。床が浅く沈むみたいに見えて、次の瞬間には戻る。


 戻っているのに、距離だけが縮んでいく感じがした。


 視界がまた二重になった。


 黒猫の位置に、透明な輪郭が重なる。


 直径一メートルの境目。


 そこが「狙い」だと分かった。


(当たったら終わる。理由は分からないけど、分かる)


(黒猫を外へ出す。手段は一つしかない)


 陽翔は走った。


 突っ込むんじゃない。黒猫をどかす。


 砂を蹴る。腕を伸ばす。


 黒猫が跳ぼうとした、その横腹を押し出した。


「悪い!」


 黒猫の体が横へ転がり、砂に着地する。鍵しっぽがピンと立つ。


 黒猫の目が、陽翔を見た。


 オッドアイが月を拾う。


 次の瞬間、黒猫は体を低くして跳び、影の腕の隙間へ滑り込んだ。


 逃げた。生きた。


 陽翔はその確認だけで、足を止められなかった。


 陽翔は同時に、黒猫がいた場所へ入り込む形になった。


「陽翔!」


 真帆の声が飛ぶ。


 守りを保ったまま、動けない声だ。


 並木寄りで、玉城先生が叫ぶ。


「璃子、顔を伏せろ! 走るな!」


「にぃにぃ……!」


 璃子の声が震える。実況の声なのに、祈りに近い。


 フードの相手が低く言う。


「鈴式・縮域轟れいしき・しゅくいきごう


 チリン。


 音は小さい。


 小さいのに、空気が一気に変わった。


 陽翔の足元に薄い円が出る。


 円の縁が光り、刻みが回る。


 狙いは、ここだ。


 陽翔は下がろうとして、下がれなかった。


 足が砂に沈んだわけじゃない。


 体が固まった。


 次の瞬間。


 直径一メートルの空間が歪んだ。


 月明かりの筋が曲がる。砂の粒が浮いたまま止まる。風がそこだけ通らない。


 透明な境目が見える。


 境目の外と中で、距離が違う。


 潰れた。


 体が内側へ押し込まれる。


 骨が折れる感触があった。


 腕が引っ張られ、関節がねじれる感触があった。


 息が勝手に漏れた。声にならない。


 内側から壊れる。


 境目をまたいだ部分が、ちぎれた。


 影の腕も巻き込まれていた。黒い爪が途中で切れ、形が崩れる。


 潰れた空間が元に戻る。


 戻った瞬間、二十メートルに衝撃が広がった。


 ドンッ!!


 砂が一斉に跳ねる。


 波が泡立って割れ、水しぶきが飛ぶ。


 並木の葉が揺れ、枝が鳴る。


 真帆の守りが衝撃を受けた。


 ひびが一気に増え、ガラスみたいな筋が面全体に走る。


「……っ、やだ……!」


 真帆の声が漏れる。


 手が震える。ひびがさらに増えそうになる。


 真帆は歯を食いししばり、息を吐く。肩の力を落とす。


 ひびの端が淡く光り、少しだけ戻った。


 戻った瞬間、また腕が叩く。


 ゴンッ。


 美琴が吹き飛ばされる。


 砂を踏んだ足が持っていかれ、体が横へ流れる。美琴は腕で顔を守り、砂を掴んで止まる。すぐに立ち上がる。


 口の中の砂を吐き出し、前を見る。


 並木寄りでは、璃子と玉城が転がった。


「先生! いまの、なに!」


「知らん! 知らんが、近づくな!」


「分かってるよ!」


 陽翔は砂の上に倒れていた。


 息を吸おうとして失敗する。


 胸が動かない。喉が鳴るだけで空気が入らない。


 視界がぼやける。


 砂が冷たい。指先が震える。


(黒猫は……)


 黒猫が数メートル先で立っていた。


 鍵しっぽが揺れている。


 生きている。


 黒猫の視線が陽翔に刺さった。


 オッドアイが一度だけ細くなる。


 まるで「またか」と言いたいみたいな顔だった。


 黒猫は小さく鳴き、影の腕のほうへ体を向け直した。


(よし……)


 そこで、陽翔は自分の体を見た。


 上半身だけが砂の上にある。


 腰の下が、ない。


 下半身が消えていた。


(……え)


 驚いた。


 理解が遅れる。


 でも、見えている。


 ないものは、ない。


(痛く……ない?)


 不思議なほど痛みがない。


 熱さはある。冷えていく感じもある。


 でも、痛いはずの場所が痛くない。


 それが怖い。


 それが現実だと、頭が遅れて追いつく。


 陽翔は手を伸ばした。届くわけがないのに、伸ばした。


 真帆が駆けてくる。ひびだらけの守りを必死に残しながら、陽翔へ向かう。


 美琴も走る。砂を蹴って近づく。


「陽翔!」


「陽翔さん!」


 視界に光が広がる。


 光のまま輪郭が薄くなる。


 そこから暗く落ちていく。


 光の中に、黒い波が混ざった。


 波の中央に、人の形が立つ。


 長い髪。黒い衣。


 輪郭だけが、はっきりしている。


 女の唇が動く。


 声は小さいはずなのに、陽翔にだけ届く。


「お前は……何度、流れを壊すつもりだ」


 陽翔は息を吸おうとして失敗した。


 空気が入らない。喉が鳴るだけだ。


(誰だ)


 問いを作った瞬間、黒い波が広がった。


 そこへ声が重なる。


 はっきりと、意識に入ってくる。


 ――息を整えろ、流れを戻せ。


 柔らかい年寄りの声。ツルおばぁに似ている。


 もうひとつ。


 ――まだ選び直せる、ハルト。


 低い男の声。


(……誰だよ)


 陽翔は、笑いたかった。


「……何度目だよ、これ……」


 最後に残ったのは、鈴の小さな音だけだった。


 チリン。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ