表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
30/31

第30話 名護で交わる線

 備瀬の海から戻ると、ツルの家の居間には、もう麦茶のピッチャーが置かれていた。


「おかえり。日焼けしすぎてない?」


 台所から顔を出した由美が、心配そうにこちらを見る。


「大丈夫。今日はまだ散歩みたいなもんだから」


 真帆が笑って座布団に座る。


「で、海はどうだった?」


「景色は完璧にパンフレットと同じでした!」


 璃子が、グラスを一気にあおってから言った。


「でもね、たまに浅瀬の中に“泉の底温度”があった」


「泉の底温度って何さ」


「にぃにぃ、説明どうぞ」


「雑な振りすんな」


 陽翔は苦笑して、由美に向き直る。


「見た目は普通の海だったよ。ただ、波の揺れとか、水の温度が違う場所があってさ。久高の泉のあの感じが、そのまま来てるわけじゃないけど……あっちから流れてきた“何か”が混ざってる感じはあった」


「そう……」


 由美は、少し眉を寄せた。


「危ないことするつもりなら、ちゃんと帰ってくる前提で行きなさいよ」


「それはもう当たり前さ!」


 璃子が胸を張る。


「ここ、完全にセーブポイントだからねー!」


「その言い方、だんだん意味分かってきたけどモヤっとするわね」


 由美が苦笑する。


「午後は、名護行くんでしょ?」


「うん。県庁の新垣さんと会う約束がある」


 玉城が腕時計をちらりと見て立ち上がる。


「そろそろ出ようか。明るいうちに戻ってきたいし」


「私も行きます」


 真帆が即答した。


「この辺の話、直接聞いておきたいから」


「わ、私も同行させてください」


 南風原美琴も、少し緊張した面持ちで手を挙げる。


「向こうがどういう理屈で“変な波”を確認してるのか、気になります。本土側の資料で見たような記述もあったので」


「美琴ちゃん、そういうのもやってるの?」


 由美が軽く首を傾げた。


「えっと……文字や印で場の様子を読む基礎だけ、少し教わったくらいで」


「本職は別だけどね」


 真帆が補足する。


「“術式担当”とも言えるけど、どちらかと言えば“術式がどう悪さしそうか匂いを嗅げる人”って感じ」


「そんな肩書きいやです」


 美琴が小さく抗議して、場の空気が少し和らいだ。


 由美は、三人の顔を順番に見て、やれやれと肩をすくめる。


「……ほんと、あんたたち小さい頃から変わらんね。止めてもどうせ行くんでしょ」


「心配させてごめん」


 陽翔が素直に頭を下げると、由美はその背中を軽く叩いた。


「謝るくらいなら、ちゃんと帰ってきなさい。それでチャラ」


「了解」


     ◆


 ツルの家から名護までの道は、陽翔にとっては見慣れた景色だった。


 フクギ並木を抜けて国道に出ると、右手に海が広がる。

 水面の光が、車の窓ガラスに細かく跳ね返る。


 やがて道は内陸へと入り、鮮魚店や小さな店が並ぶ街の景色に変わっていく。


「久高から帰ってきたときより、“地元”って感じが強いね」


 助手席の真帆が、外を眺めながら言った。


「生活ルートって感じ」


「こういうところにも、影の話がじわじわ来てるって考えると、胃が痛くなるけどな」


 陽翔は、ハンドルを握りながら息を吐く。


「でも、全部“異常”扱いしてたら誰も暮らせないし。県庁側も大変なんだろうなって」


 後部座席で、玉城が「その通り」とうなずいた。


「だからこそ、“表では何も起きていないことにする”役割の部署が必要になる。新垣は、その中でぎりぎりまで線を踏ん張っている人間だよ」


「先生の同級生でしたっけ」


 美琴が遠慮がちに尋ねる。


「だな。昔から妙に真面目で、損な役回りばかり引き受けるタイプだった」


 玉城の声には、どこか懐かしさと心配が混ざっている。


「今もきっと、板挟みなんだろうね」


     ◆


 名護市街の、系列のレストラン。


 国道の通り沿いにある、見慣れた赤い看板。


 ドアを開けると、コーヒーの香りが広がった。


「お、来たな」


 窓際の席で手を振ったのは、四十代半ばくらいの男だった。

 ネクタイを少し緩めているが、背筋は真っ直ぐだ。


「お!新垣!」


 玉城が歩み寄ると、男は立ち上がって笑った。


「玉城。相変わらずだな。変な場所ばっかり歩き回ってるって噂は本当か」


「そっちも相変わらず、“何も起きていないこと”にされてる場所ばっかり見てるんだろ」


「まあな」


 二人は短く握手を交わした。


「こちらが、例の……」


「先生の現場要員です。仲宗根真帆です。フィールドワークでお世話になってます」


 真帆がぺこりと頭を下げる。


「真帆さんの後輩の南風原美琴と申します。……今日は勉強させてください」


「宮里陽翔です」


「仲宗根璃子でーす。にぃにぃのかわいい妹です!」


「最後の一言いらんだろ」


 ひと通り自己紹介が済むと、新垣は一人一人の顔を、静かに確かめるように見た。


「……若いな」


 ぽつりと、それだけ言う。


 すぐに「悪い意味じゃない」と、苦笑を足した。


「こういう話に首突っ込むの、私が知ってる限り大体はもっと年季入った人間ばかりだからさ。君たちぐらいの年の子を見ると、少しホッとする」


「ホッとするんですか」


 陽翔が思わず聞き返す。


「“これからのほうをちゃんと見てくれる目”が、まだ残ってる気がするからね」


 新垣はそう言って、メニューを指さした。


「とりあえず、注文してから話そう。長くなるかもしれない」


     ◆


 飲み物が運ばれ、店員が離れていくのを待ってから、新垣は声を落とした。


「北部沿岸で起きている“変なこと”の話だが」


 そう切り出すと、テーブルの上のファイルを開く。


「表向きは、どれもよくある事故や自然現象として処理されている。酔っぱらいの転落だったり、急な天候変化だったりな」


「でも、件数が異常だ」


 玉城が目を細める。


「その通り。この数ヶ月で、一気にだ」


 一枚目のコピーには、漁協の事故報告書が貼られていた。


「“夜の漁の最中、ベテランの漁師が突然方角を見失い、防波堤に船をぶつから”」


 陽翔がざっと目を通して読み上げると、新垣はうなずく。


「本人は、“海の音が急に遠くなって、目の前の灯りの位置がおかしくなった”と証言している。だが、検査しても目に異常はなし。疲労と年齢で片付けられた」


「海の音が遠くなって、灯りの位置がおかしくなる……」


 真帆が、小さく息を呑む。


「久高で聞いた話と、少し似てますね」


「こっちは?」


 美琴が別のページをめくった。


「“海水浴場の監視員が、浅瀬の一部だけ異様に冷たい水域を発見。監視中、そこを泳いでいた子どもが溺れてるのを発見し、助けた。子供の話を聞くと“急に足が重くなった”と訴えるも、外傷なし”」


「さっきの“泉の底温度”より一段階ヤバそうだね……」


 璃子が顔をしかめる。


「でも、形は似てる。温度と、足の感覚から来る違和感」


「そういう話が、名護だけじゃなくて、北部のいくつかの浜から上がってきている」


 新垣は地図を広げ、いくつかの場所に印を付けた。


「表向きの説明は“高齢化による認識の誤り”“潮の流れ”“個人の体調”。だが――」


 指先で、印のまとまりの中心をトントンと叩く。


「あまり表に出さない資料だから内密にな。この昭和の久高案件の記録と、嫌になるくらい似ている」


 玉城が、静かに息を飲んだ。


「やっぱり、そうか」


「先生、やっぱりって」


 真帆が横目で見る。


「昔、仕事関係の打ち合わせの時、その久高の資料、ちょっとだけ見せてもらったことがあるんだよ。波の異常、海の色、夜の音。細かいところは黒塗りだったけどね」


「黒塗り?」


「何者かが意図的に書き換えた痕跡がある」


 新垣が言葉を引き継ぐ。


「“誰が”“何を使って”この現象を治めたのか、そこだけが抜けている。ただ、“島の一部と、その背後の海と、もっと奥の何かが、一定期間向き合った”ことだけは分かる」


「その“奥”って言い方、本土側の資料にもよく出てきます」


 美琴が、小さくうなずいた。


「線を引くんじゃなくて、“深さが違う場所”として扱う書き方。……でも、私は理屈のところを教わっただけで、実際の現場は見たことがないです」


「それでいい。現場は見ないに越したことはない」


 新垣は、わずかに苦笑した。


「そういう“奥行きが違う場所”を全部まとめて、“専門家が扱うべき現象”って呼びたがる人間がいる」


「紫門さん、だね」


 玉城が、名前を出す。


 新垣の眉が、わずかに動いた。


「知っているのか」


「“名前だけ”。泉の資料を集めているって噂も」


 真帆が、慎重に言葉を選ぶ。


「紫門って、県庁の上のほうにいる人ですか」


「表向きは別の部署の管理職だ。でも、こういう案件にはだいたい顔に出す」


 新垣は、コーヒーカップに触れたまま視線を落とした。


「彼の考え方は、単純だ。“どうせ避けられないなら、この現象を管理可能な形で利用すべきだ”」


「管理可能な……」


 真帆が顔をしかめる。


「影を“道具”として利用するってこと?」


「直球で言えば、そうだろうな」


 新垣の声が、さらに低くなる。


「本土側の術を扱う連中もいるらしいが、その中にも、人間を器にして“向こう側”の力を利用したがる者がいる。紫門は、そういう線とも繋がりたがっている」


 美琴の指先が、膝の上でぎゅっと握られた。


「あの……器ってなんですか?その人は、どうなるんですか?」


 少し震えた声だった。


 新垣は、しばらく答えずに視線を上げた。


「ここから先は、公式な話じゃない。噂話として聞いてくれ」


「はい」


「本土側で、一度似たような実験があったと言われている。場を整えて、人を媒体にして“奥”へ道を開こうとした」


 コーヒーの香りが、急に遠くなったように感じた。


「その人は、生きてはいる。だが、自分の感情と“向こう”から来る声の区別が、ほとんど付かないらしい。外から見れば“機能している”けれど、内側はどうなっているか分からない」


 美琴は、目を伏せたまま唇を噛む。


「それを“成功例”と呼ぶ人間もいるが……少なくとも俺はそう思いたくない」


 新垣は額を指でこすった。


「そういう発想に、沖縄の泉まで巻き込まれたくはない。それが正直なところだ」


 テーブルの上に、もう一枚の紙が置かれる。


「だから、こうやって君たちに資料を渡している。公式には、何もしていないことになっているからな」


「公式には、ですか」


 陽翔が問い返す。


「そうだ。県庁としては、“波の異常”も“冷たい水域”も、“よくある自然の揺らぎ”だ。記録だけ残して、そこから先には手を伸ばさない」


「じゃあ、俺たちがここから何をしようが、県庁とは無関係」


「少なくとも、公文書の上ではな」


 新垣は、わざとらしいくらい肩をすくめた。


「だから俺は、“君たちが何を見て、何をしようとしているのか、ほとんど知らない”」


「……ずるい言い方です」


 真帆が、苦笑に近い笑みを浮かべる。


「でも、たぶん一番正直なんだと思います」


「全部知ってしまったら、止めなきゃいけなくなるからな。立場上」


 新垣は、ファイルの最後のページを取り出した。


「これは持っていきなさい」


 昭和の久高案件の報告書のコピー。

 ところどころ黒く塗りつぶされた上に、誰かの手書きのメモが重ねられている。


 玉城が目を走らせた。


「“北部沿岸に類似の揺らぎあり。特定の浜と、その背後の家屋が、久高の泉と同じ“流れの線上”にある可能性”」


 読み上げる声が自然と低くなる。


 下のほうに、赤いペンで丸が付けられていた。


 そこには、はっきりと地名が書かれている。


「……備瀬」


 陽翔の喉が、ごくりと鳴る。


 胸の奥が冷たくなった。


「ツルばぁが備瀬を選んだのって」


 璃子が、震えた声で言う。


「やっぱ、たまたまじゃなかったんだ」


「偶然で片付けるには、少し出来すぎているな」


 玉城が眼鏡を押し上げる。


「ツルさんは、彼女自身のやり方で“間に入れる場所”を選んだはずだ。だが、書類の上ではそれも“データ”にされている」


「誰かが、そこに線を引いて、地図を作ろうとしている」


 真帆が、赤丸の上に手をかざす。


「泉と、久高と、備瀬と。どこかの誰かの“計画図”の上で」


「紫門一人の話じゃないかもしれない。彼の後ろに、もっと“図を書きたがる”連中がいる可能性もある」


 新垣は、椅子にもたれかかり、天井を一度見上げてから目を閉じた。


「だから本当は、備瀬の家を“ただの古い家”で終わらせておきたいんだが……ツルさんの孫たちを見てると、あまり期待できそうにないな」


「それは」


 陽翔は、自分の手のひらを見下ろした。


 久高の泉の冷たさ。

 スローモーションみたいになった景色。

 ツルの家の、あの呼吸するような空気。


 全部が、もうどこにも“なかったこと”にはできない。


「……難しい注文ですね」


 そう言って、わずかに笑う。


「ツルばぁの家を“ただの家”にするには、もうちょっと早く言ってもらわないと」


 新垣はしばらく陽翔を見て、それから視線をそらした。


「……そうか」


 短く、それだけ。


「なら、せめて。俺ができるのはこのくらいだ」


 名刺サイズの紙切れが、テーブルの上に置かれる。


 住所と名前と携帯番号。


 裏には、小さな字でこう書かれていた。


 “波の音が変わったら、すぐ知らせろ”


     ◆


 喫茶店を出ると、夕方に向かう光が街を照らしていた。


 信号待ちの車。

 買い物袋を下げた人たち。

 観光客らしい笑い声。


 名護の街は、何事もなかったように動いている。


「……さっきの話と同じ世界とは思えないね」


 璃子が、コンビニで買ったアイスを片手に言った。


「異世界の話って感じ」


「軽く言うな」


 陽翔はハンドルに手を置き、バックミラー越しにレストランの看板を見た。


 テーブルには、まだ新垣が座っている気がする。


 赤い丸の付いた地図。

 あの場所に備瀬という文字。


 それを思い浮かべるたびに、ツルの家の屋根が頭に浮かんだ。


 フクギの陰に隠れた赤瓦。

 居間に並んだ二枚の写真。

 その前に座る、鍵しっぽの黒猫。


 あの家が、誰かにとっては「ただの古い家」じゃなくて、

 別の誰かにとっては「実験にちょうどいい場所」として地図にマークされている。


 それを知ってしまった以上、


 ツルの家に帰るという行為も、もう昔と同じ意味ではなくなっている。


 陽翔は、アクセルを少し踏み込んだ。


 名護の街並みが、ゆっくりと後ろに流れていく。


 空はまだ明るいのに、


 頭のどこかでは、備瀬の夜の波の音が、もう始まりかけている気がしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ