第30話 名護で交わる線
備瀬の海から戻ると、ツルの家の居間には、もう麦茶のピッチャーが置かれていた。
「おかえり。日焼けしすぎてない?」
台所から顔を出した由美が、心配そうにこちらを見る。
「大丈夫。今日はまだ散歩みたいなもんだから」
真帆が笑って座布団に座る。
「で、海はどうだった?」
「景色は完璧にパンフレットと同じでした!」
璃子が、グラスを一気にあおってから言った。
「でもね、たまに浅瀬の中に“泉の底温度”があった」
「泉の底温度って何さ」
「にぃにぃ、説明どうぞ」
「雑な振りすんな」
陽翔は苦笑して、由美に向き直る。
「見た目は普通の海だったよ。ただ、波の揺れとか、水の温度が違う場所があってさ。久高の泉のあの感じが、そのまま来てるわけじゃないけど……あっちから流れてきた“何か”が混ざってる感じはあった」
「そう……」
由美は、少し眉を寄せた。
「危ないことするつもりなら、ちゃんと帰ってくる前提で行きなさいよ」
「それはもう当たり前さ!」
璃子が胸を張る。
「ここ、完全にセーブポイントだからねー!」
「その言い方、だんだん意味分かってきたけどモヤっとするわね」
由美が苦笑する。
「午後は、名護行くんでしょ?」
「うん。県庁の新垣さんと会う約束がある」
玉城が腕時計をちらりと見て立ち上がる。
「そろそろ出ようか。明るいうちに戻ってきたいし」
「私も行きます」
真帆が即答した。
「この辺の話、直接聞いておきたいから」
「わ、私も同行させてください」
南風原美琴も、少し緊張した面持ちで手を挙げる。
「向こうがどういう理屈で“変な波”を確認してるのか、気になります。本土側の資料で見たような記述もあったので」
「美琴ちゃん、そういうのもやってるの?」
由美が軽く首を傾げた。
「えっと……文字や印で場の様子を読む基礎だけ、少し教わったくらいで」
「本職は別だけどね」
真帆が補足する。
「“術式担当”とも言えるけど、どちらかと言えば“術式がどう悪さしそうか匂いを嗅げる人”って感じ」
「そんな肩書きいやです」
美琴が小さく抗議して、場の空気が少し和らいだ。
由美は、三人の顔を順番に見て、やれやれと肩をすくめる。
「……ほんと、あんたたち小さい頃から変わらんね。止めてもどうせ行くんでしょ」
「心配させてごめん」
陽翔が素直に頭を下げると、由美はその背中を軽く叩いた。
「謝るくらいなら、ちゃんと帰ってきなさい。それでチャラ」
「了解」
◆
ツルの家から名護までの道は、陽翔にとっては見慣れた景色だった。
フクギ並木を抜けて国道に出ると、右手に海が広がる。
水面の光が、車の窓ガラスに細かく跳ね返る。
やがて道は内陸へと入り、鮮魚店や小さな店が並ぶ街の景色に変わっていく。
「久高から帰ってきたときより、“地元”って感じが強いね」
助手席の真帆が、外を眺めながら言った。
「生活ルートって感じ」
「こういうところにも、影の話がじわじわ来てるって考えると、胃が痛くなるけどな」
陽翔は、ハンドルを握りながら息を吐く。
「でも、全部“異常”扱いしてたら誰も暮らせないし。県庁側も大変なんだろうなって」
後部座席で、玉城が「その通り」とうなずいた。
「だからこそ、“表では何も起きていないことにする”役割の部署が必要になる。新垣は、その中でぎりぎりまで線を踏ん張っている人間だよ」
「先生の同級生でしたっけ」
美琴が遠慮がちに尋ねる。
「だな。昔から妙に真面目で、損な役回りばかり引き受けるタイプだった」
玉城の声には、どこか懐かしさと心配が混ざっている。
「今もきっと、板挟みなんだろうね」
◆
名護市街の、系列のレストラン。
国道の通り沿いにある、見慣れた赤い看板。
ドアを開けると、コーヒーの香りが広がった。
「お、来たな」
窓際の席で手を振ったのは、四十代半ばくらいの男だった。
ネクタイを少し緩めているが、背筋は真っ直ぐだ。
「お!新垣!」
玉城が歩み寄ると、男は立ち上がって笑った。
「玉城。相変わらずだな。変な場所ばっかり歩き回ってるって噂は本当か」
「そっちも相変わらず、“何も起きていないこと”にされてる場所ばっかり見てるんだろ」
「まあな」
二人は短く握手を交わした。
「こちらが、例の……」
「先生の現場要員です。仲宗根真帆です。フィールドワークでお世話になってます」
真帆がぺこりと頭を下げる。
「真帆さんの後輩の南風原美琴と申します。……今日は勉強させてください」
「宮里陽翔です」
「仲宗根璃子でーす。にぃにぃのかわいい妹です!」
「最後の一言いらんだろ」
ひと通り自己紹介が済むと、新垣は一人一人の顔を、静かに確かめるように見た。
「……若いな」
ぽつりと、それだけ言う。
すぐに「悪い意味じゃない」と、苦笑を足した。
「こういう話に首突っ込むの、私が知ってる限り大体はもっと年季入った人間ばかりだからさ。君たちぐらいの年の子を見ると、少しホッとする」
「ホッとするんですか」
陽翔が思わず聞き返す。
「“これからのほうをちゃんと見てくれる目”が、まだ残ってる気がするからね」
新垣はそう言って、メニューを指さした。
「とりあえず、注文してから話そう。長くなるかもしれない」
◆
飲み物が運ばれ、店員が離れていくのを待ってから、新垣は声を落とした。
「北部沿岸で起きている“変なこと”の話だが」
そう切り出すと、テーブルの上のファイルを開く。
「表向きは、どれもよくある事故や自然現象として処理されている。酔っぱらいの転落だったり、急な天候変化だったりな」
「でも、件数が異常だ」
玉城が目を細める。
「その通り。この数ヶ月で、一気にだ」
一枚目のコピーには、漁協の事故報告書が貼られていた。
「“夜の漁の最中、ベテランの漁師が突然方角を見失い、防波堤に船をぶつから”」
陽翔がざっと目を通して読み上げると、新垣はうなずく。
「本人は、“海の音が急に遠くなって、目の前の灯りの位置がおかしくなった”と証言している。だが、検査しても目に異常はなし。疲労と年齢で片付けられた」
「海の音が遠くなって、灯りの位置がおかしくなる……」
真帆が、小さく息を呑む。
「久高で聞いた話と、少し似てますね」
「こっちは?」
美琴が別のページをめくった。
「“海水浴場の監視員が、浅瀬の一部だけ異様に冷たい水域を発見。監視中、そこを泳いでいた子どもが溺れてるのを発見し、助けた。子供の話を聞くと“急に足が重くなった”と訴えるも、外傷なし”」
「さっきの“泉の底温度”より一段階ヤバそうだね……」
璃子が顔をしかめる。
「でも、形は似てる。温度と、足の感覚から来る違和感」
「そういう話が、名護だけじゃなくて、北部のいくつかの浜から上がってきている」
新垣は地図を広げ、いくつかの場所に印を付けた。
「表向きの説明は“高齢化による認識の誤り”“潮の流れ”“個人の体調”。だが――」
指先で、印のまとまりの中心をトントンと叩く。
「あまり表に出さない資料だから内密にな。この昭和の久高案件の記録と、嫌になるくらい似ている」
玉城が、静かに息を飲んだ。
「やっぱり、そうか」
「先生、やっぱりって」
真帆が横目で見る。
「昔、仕事関係の打ち合わせの時、その久高の資料、ちょっとだけ見せてもらったことがあるんだよ。波の異常、海の色、夜の音。細かいところは黒塗りだったけどね」
「黒塗り?」
「何者かが意図的に書き換えた痕跡がある」
新垣が言葉を引き継ぐ。
「“誰が”“何を使って”この現象を治めたのか、そこだけが抜けている。ただ、“島の一部と、その背後の海と、もっと奥の何かが、一定期間向き合った”ことだけは分かる」
「その“奥”って言い方、本土側の資料にもよく出てきます」
美琴が、小さくうなずいた。
「線を引くんじゃなくて、“深さが違う場所”として扱う書き方。……でも、私は理屈のところを教わっただけで、実際の現場は見たことがないです」
「それでいい。現場は見ないに越したことはない」
新垣は、わずかに苦笑した。
「そういう“奥行きが違う場所”を全部まとめて、“専門家が扱うべき現象”って呼びたがる人間がいる」
「紫門さん、だね」
玉城が、名前を出す。
新垣の眉が、わずかに動いた。
「知っているのか」
「“名前だけ”。泉の資料を集めているって噂も」
真帆が、慎重に言葉を選ぶ。
「紫門って、県庁の上のほうにいる人ですか」
「表向きは別の部署の管理職だ。でも、こういう案件にはだいたい顔に出す」
新垣は、コーヒーカップに触れたまま視線を落とした。
「彼の考え方は、単純だ。“どうせ避けられないなら、この現象を管理可能な形で利用すべきだ”」
「管理可能な……」
真帆が顔をしかめる。
「影を“道具”として利用するってこと?」
「直球で言えば、そうだろうな」
新垣の声が、さらに低くなる。
「本土側の術を扱う連中もいるらしいが、その中にも、人間を器にして“向こう側”の力を利用したがる者がいる。紫門は、そういう線とも繋がりたがっている」
美琴の指先が、膝の上でぎゅっと握られた。
「あの……器ってなんですか?その人は、どうなるんですか?」
少し震えた声だった。
新垣は、しばらく答えずに視線を上げた。
「ここから先は、公式な話じゃない。噂話として聞いてくれ」
「はい」
「本土側で、一度似たような実験があったと言われている。場を整えて、人を媒体にして“奥”へ道を開こうとした」
コーヒーの香りが、急に遠くなったように感じた。
「その人は、生きてはいる。だが、自分の感情と“向こう”から来る声の区別が、ほとんど付かないらしい。外から見れば“機能している”けれど、内側はどうなっているか分からない」
美琴は、目を伏せたまま唇を噛む。
「それを“成功例”と呼ぶ人間もいるが……少なくとも俺はそう思いたくない」
新垣は額を指でこすった。
「そういう発想に、沖縄の泉まで巻き込まれたくはない。それが正直なところだ」
テーブルの上に、もう一枚の紙が置かれる。
「だから、こうやって君たちに資料を渡している。公式には、何もしていないことになっているからな」
「公式には、ですか」
陽翔が問い返す。
「そうだ。県庁としては、“波の異常”も“冷たい水域”も、“よくある自然の揺らぎ”だ。記録だけ残して、そこから先には手を伸ばさない」
「じゃあ、俺たちがここから何をしようが、県庁とは無関係」
「少なくとも、公文書の上ではな」
新垣は、わざとらしいくらい肩をすくめた。
「だから俺は、“君たちが何を見て、何をしようとしているのか、ほとんど知らない”」
「……ずるい言い方です」
真帆が、苦笑に近い笑みを浮かべる。
「でも、たぶん一番正直なんだと思います」
「全部知ってしまったら、止めなきゃいけなくなるからな。立場上」
新垣は、ファイルの最後のページを取り出した。
「これは持っていきなさい」
昭和の久高案件の報告書のコピー。
ところどころ黒く塗りつぶされた上に、誰かの手書きのメモが重ねられている。
玉城が目を走らせた。
「“北部沿岸に類似の揺らぎあり。特定の浜と、その背後の家屋が、久高の泉と同じ“流れの線上”にある可能性”」
読み上げる声が自然と低くなる。
下のほうに、赤いペンで丸が付けられていた。
そこには、はっきりと地名が書かれている。
「……備瀬」
陽翔の喉が、ごくりと鳴る。
胸の奥が冷たくなった。
「ツルばぁが備瀬を選んだのって」
璃子が、震えた声で言う。
「やっぱ、たまたまじゃなかったんだ」
「偶然で片付けるには、少し出来すぎているな」
玉城が眼鏡を押し上げる。
「ツルさんは、彼女自身のやり方で“間に入れる場所”を選んだはずだ。だが、書類の上ではそれも“データ”にされている」
「誰かが、そこに線を引いて、地図を作ろうとしている」
真帆が、赤丸の上に手をかざす。
「泉と、久高と、備瀬と。どこかの誰かの“計画図”の上で」
「紫門一人の話じゃないかもしれない。彼の後ろに、もっと“図を書きたがる”連中がいる可能性もある」
新垣は、椅子にもたれかかり、天井を一度見上げてから目を閉じた。
「だから本当は、備瀬の家を“ただの古い家”で終わらせておきたいんだが……ツルさんの孫たちを見てると、あまり期待できそうにないな」
「それは」
陽翔は、自分の手のひらを見下ろした。
久高の泉の冷たさ。
スローモーションみたいになった景色。
ツルの家の、あの呼吸するような空気。
全部が、もうどこにも“なかったこと”にはできない。
「……難しい注文ですね」
そう言って、わずかに笑う。
「ツルばぁの家を“ただの家”にするには、もうちょっと早く言ってもらわないと」
新垣はしばらく陽翔を見て、それから視線をそらした。
「……そうか」
短く、それだけ。
「なら、せめて。俺ができるのはこのくらいだ」
名刺サイズの紙切れが、テーブルの上に置かれる。
住所と名前と携帯番号。
裏には、小さな字でこう書かれていた。
“波の音が変わったら、すぐ知らせろ”
◆
喫茶店を出ると、夕方に向かう光が街を照らしていた。
信号待ちの車。
買い物袋を下げた人たち。
観光客らしい笑い声。
名護の街は、何事もなかったように動いている。
「……さっきの話と同じ世界とは思えないね」
璃子が、コンビニで買ったアイスを片手に言った。
「異世界の話って感じ」
「軽く言うな」
陽翔はハンドルに手を置き、バックミラー越しにレストランの看板を見た。
テーブルには、まだ新垣が座っている気がする。
赤い丸の付いた地図。
あの場所に備瀬という文字。
それを思い浮かべるたびに、ツルの家の屋根が頭に浮かんだ。
フクギの陰に隠れた赤瓦。
居間に並んだ二枚の写真。
その前に座る、鍵しっぽの黒猫。
あの家が、誰かにとっては「ただの古い家」じゃなくて、
別の誰かにとっては「実験にちょうどいい場所」として地図にマークされている。
それを知ってしまった以上、
ツルの家に帰るという行為も、もう昔と同じ意味ではなくなっている。
陽翔は、アクセルを少し踏み込んだ。
名護の街並みが、ゆっくりと後ろに流れていく。
空はまだ明るいのに、
頭のどこかでは、備瀬の夜の波の音が、もう始まりかけている気がしていた。




