表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
3/31

第3話 名護の実家

 那覇空港を出た瞬間、まとわりつくような湿気が肌に張りついた。


 ビルの谷間を抜けて、レンタカーで高速に乗る。

 滑走路の先に見えていた海は、もうバックミラーの向こうだ。


 ハンドルを握りながら、宮里陽翔はゆっくり息を吐いた。


「……暑っ」


 エアコンは最大。

 それでも首筋に汗がにじむ。


 ナビは淡々と「次のインターチェンジで降ります」と告げる。

 単調な案内の声に、機内で見たニュースの見出しが重なった。


 久高島近海で小規模な地震。


 それだけのはずなのに、やけに引っかかる。


「行ったこともないはずなんだけどな」


 独り言に、当然返事はない。

 代わりに、助手席にぶら下がった古い交通安全のお守りが揺れた。


 無事故。


 その二文字を見た瞬間、胃のあたりが重くなった。


 高いところから落ちて死んだ父。

 同じように、高所から落ちて死んだ璃子の父。


 どちらも、紙の上では「自殺」。


「……運転中に思い出す話じゃないな」


 頭を振って、ハンドルを握り直した。


 高速を降りると、景色は一気にゆるくなる。

 コンビニの向こうにサトウキビ畑。

 遠くに海。

 信号の少ない道は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。


「まもなく、目的地周辺です」


 ナビの声と同時に、懐かしい住宅街に入る。


 昔、自転車で何度も走った道。

 ツルおばぁに怒られた角。

 幼馴染と虫取りに行った空き地。


 その全部が、ガラス越しの映像みたいに遠い。


 実家の前に車を停めると、玄関の前にサンダルが三足並んでいた。


 そのうち一足は、見覚えのある白いスニーカー。

 サイズは、記憶より少し大きい。


「……」


 一度だけ深呼吸をしてから、ドアを開ける。


 呼び鈴を押そうと手を伸ばした、その時だった。


「にぃにぃーーーっ!!」


 ドアが内側から勢いよく開いて、何かが飛び出してきた。


 反射的に身を引くより早く、胸に衝撃。

 柔らかい何かが、そのまま抱きついてくる。


 茶色の髪をポニーテールにした少女。

 高校の制服の上にパーカーを羽織っている。


 仲宗根璃子。

 陽翔の義妹。


「うわっ、おま――」


「生きて帰ってきた! 二次元に転生してるかと思ったけど、ちゃんと三次元に再ログインできてる!」


「人の存在をログイン扱いするな」


 変わらない勢いに、思わず苦笑が漏れた。


 璃子はぐいっと顔を離し、じろじろと陽翔を見上げる。


「ふむふむ……写真よりイケメン補正かかってる。これはガチャで言うところの――」


「その例えを最後まで言うな。分かんないから」


「つまり当たりってことさ」


 ケラケラ笑ってから、璃子はふっと声のトーンを落とした。


「……おかえり、にぃにぃ」


 一瞬だけ、目が揺れる。


 陽翔は、その視線から目をそらさずに言った。


「……ただいま」


 それだけ言うと、璃子はぱっと体を離し、玄関の中に向かって叫ぶ。


「おかーさーん! にぃにぃのグラフィック、ちゃんと実装されてる!」


「だからその報告の仕方おかしいだろ」


 奥から、忙しない足音。


「もう、璃子は変なことばっかり言って。陽翔、いらっしゃい」


 エプロン姿の女性が顔を出した。


 仲宗根由美。

 陽翔の母であり、璃子の母でもある。


 髪に白いものが少し混じっている。

 でも、笑った時の目尻の皺は昔のままだ。


「……ただいま、母さん」


 靴を脱ぎながら、ぎこちなく頭を下げる。


 由美は一歩近づいて、陽翔の顔をまじまじと見た。


「痩せた? ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ。そこそこ」


「その『そこそこ』が一番信用ならんさ。東京はコンビニが多いからって、コンビニばっかりで済ませてるでしょ」


 図星だったので、目をそらすしかなかった。


 璃子が横から、「コンビニ飯は文明の利器だから!」と何のフォローにもなってないフォローを入れてくる。


「ほら、荷物置いて。中入って、入って」


 リビングに通されると、懐かしい匂いがした。


 洗剤と、味噌汁と、少しだけ線香の匂い。


 テーブルの端には、小さな花と線香。

 その横に、ツルおばぁの遺影のコピーが置かれている。


「本物の遺影は備瀬の家にあるけどね。こっちはうちの分」


 由美がそう言って、小さく手を合わせる。

 陽翔も、その隣で自然と手を合わせていた。


 遺影の中のツルおばぁは、少し照れたように笑っている。

 額縁越しのその笑顔が、妙に遠い。


「おばぁの家には……明日行くんだよな」


「そうね。今日はこっちでゆっくりしなさい。長旅で疲れたでしょ」


 由美はキッチンに戻り、「すぐご飯できるから」と声をかけた。


 璃子はソファにどかっと座り、ゲーム機のコントローラーを手に取る。


「にぃにぃ、久しぶりにローカル対戦しよ。チュートリアル兼ねて」


「実家帰ってきて最初のイベントがゲームってどうなんだ」


「だいたいこういうのは最初に日常クエスト挟んどかないと、後で地獄みるんだよ。チュートリアルスキップ勢は死ぬって相場が決まってる」


「お前の人生、全部ゲームで説明するのやめろ」


 文句を言いつつも、陽翔は隣に腰を下ろした。


 コントローラーを握ると、指が勝手にボタンの配置を思い出す。

 友だちの家で徹夜した夜。

 璃子がまだ小さかった頃、ここでゲームのやり方を教えた記憶。


 その隣に、ツルおばぁの笑い声が薄く重なる気がした。


「はいスタート。ハンデはつけてあげない」


「いや、お前の方が後発組だろ」


 そんなくだらない会話で、少しだけ肩の力が抜けていく。


 やがて「ご飯できたよー」という由美の声がして、ゲームは一時中断になった。


 夕食の並ぶテーブルは、思った以上に豪華だった。


 ジューシーにゴーヤーチャンプルー、ラフテー、唐揚げ、味噌汁。

 どれも陽翔の好きなものばかりだ。


「こんなに作らなくてもよかったのに」


「久しぶりに帰ってくるんだから、作るに決まってるでしょ」


 由美は笑って、味噌汁をよそってくれる。


 一口飲んだ瞬間、胃が「もっと寄こせ」と主張した。


「……うまい」


「当たり前さ。ツルおばぁ仕込みだよ」


 由美が誇らしげに胸を張る。

 璃子も、「母の飯は世界遺産」とよく分からない称号を与えていた。


 一通り食卓が回り、箸が落ち着いたころ。


 璃子が、唐揚げをつまみながらふいに言った。


「そういえばさ」


「ん?」


「この家さ、表札は仲宗根なのに、にぃにぃだけ宮里でしょ。初見さん絶対混乱するよね」


「お前の言い方の方が混乱するわ」


 陽翔が眉をひそめると、由美が苦笑した。


「まあ、分かりにくいよね。陽翔は、お父さんの名前そのままがいいって言ったからさ」


「……昔、そんなこと言ったっけ」


「言ったさ。小学校のとき」


 由美は味噌汁を一口飲んでから続けた。


「最初のお父さん――陽翔のお父さんもね、お母さんも宮里だったでしょ。だから、あんたには宮里の名前、持っててほしいなって思ったのよ。お母さんのわがままも少し入ってるけど」


「今さら変えるのも、なんか違うしな」


 陽翔は曖昧に笑う。


 璃子は箸をくるくる回しながら、肩をすくめた。


「私は仲宗根サイド担当ね。二人目のお父さんの方」


「その言い方やめなさい」


 由美が軽く睨む。

 でも、その表情にはどこか照れくささも混じっていた。


「お母さんが仲宗根になったのは、璃子のお父さんと結婚してから。そのまま手続きも何もしないでここまで来ちゃったのよ。だからこの家は、宮里も仲宗根もいる」


「二つのクランが同居しているパーティ、ってことだ」


 璃子が嬉しそうに言う。


「にぃにぃが宮里タンクで、私が仲宗根アタッカー。おかーさんが中間管理職ヒーラー」


「どんな家族構成だよ、それ」


 三人で笑いがこぼれた。


 その笑いが一段落したタイミングで、ふと沈黙が落ちる。


 陽翔は、箸を持ったまま言葉を探した。


 みんな、なんとなく避けている話題がある。

 それは名前の話とも、家族構成とも、切り離せない。


「……なあ」


 自分でも驚くぐらい、小さな声だった。


「にぃにぃ?」


 璃子が首をかしげる。


「俺の親父さ。ビルから落ちて死んだだろ」


 由美の指が、ぴたりと止まった。


 箸の先から、汁がぽたりと落ちる。


「ニュースにも、ちょっとだけ出てたって」


「……そうね」


 由美は、無理に笑顔を作ろうとした。


「あのとき、東京の会社に勤めててね。残業帰りに屋上から……」


 そこで言葉が途切れる。


「警察は、自殺って」


「陽翔」


 由美の声が、ほんの少しだけ尖った。


「ご飯のときにする話じゃないよ」


「でも」


 口を開きかけて、陽翔は璃子の方を見た。


 璃子は、普段のテンションが嘘みたいにおとなしく、味噌汁の中身を見つめている。


「璃子のお父さんも……似たような感じだったし」


 言ってから、しまったと思った。


 由美の表情から、色がすっと消える。


「似たような、って」


「高いところから落ちて。訳の分からない状況で死んで。警察は、やっぱり自殺って」


 あの日のニュース。

 母の泣き顔。

 璃子が、状況も分からずぎゅっと陽翔の袖を掴んでいたこと。


「二人とも、同じような終わり方だなって」


 言葉にした瞬間、実感が遅れて自分の胸に返ってきた。


 高所。

 落下。

 自殺扱い。


 その単語の並びが、拝所の石段と、黒い“海”の映像と重なる。


 胸が、嫌な汗でじわりと湿った。


 由美は、しばらく黙っていた。

 箸の先を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。


「……警察がそう言うなら、そうなんでしょ」


 あまりにも軽い言い方だった。

 軽いからこそ、その裏にある重さが分かる。


「本当のところは、誰にも分からないさ」


「母さんは、どう思う?」


 問いを投げた瞬間、自分で後悔した。


 由美の肩が、小さく震えた。


「ごめん。今は、その話……やめよ」


 絞り出すような声だった。


 璃子が、そっと口を開く。


「私もさ、お父さんのこと、あんまり覚えてないよ」


 笑おうとして、うまく笑えない。


「写真も少ないし。おかーさん、見せようとしないし」


「璃子」


「だって」


 璃子は言葉を飲み込んで、黙って味噌汁を飲んだ。


 湯気が、三人の間に薄い壁を作る。


 由美が、話題を切り替えるように手を叩いた。


「……もう、この話は終わり。暗くなるさ」


 無理やり明るい声を作る。


「陽翔。明日、備瀬に行くからね」


「ツルおばぁの家に?」


「そう。ちゃんと仏壇に挨拶して、それから片付けもしないと。ツルおばぁがね、亡くなる前にいろいろ準備してたみたいなのよ」


 由美は、少しだけ目を細める。


「陽翔に、見てもらいたいものもあるし」


「見てもらいたいもの?」


「行ってからのお楽しみ」


 そう言って笑うが、その笑みにもやっぱり影があった。


 日常の食卓。

 笑いと沈黙と、触れてはいけない話題。


 その全部を飲み込んで、夜は静かに落ちてくる。


 食事のあと、シャワーを浴びて、昔使っていた自分の部屋に戻る。


 机もベッドも、そのままだった。

 棚には、読みかけの漫画と、受験生だった頃の参考書が少し埃をかぶって並んでいる。


 窓を開けると、湿った夜風がカーテンを揺らした。

 遠くから、かすかに波の音が聞こえる。


 ベッドに腰を下ろし、スマホを取り出す。


 画面の中。

 連絡先一覧の中に、「喜屋武真帆」の名前がある。


 指が、その文字の上で止まった。


 タップすれば、トーク画面が開く。

 最後のやり取りは、大学に入った頃の他愛ないメッセージ。


「久しぶりに帰ってる」

「ツルおばぁが亡くなった」


 そんな文面が頭に浮かぶ。


「……」


 結局、陽翔は何も打たずに画面を閉じた。


 代わりに、目を閉じる。


 瞼の裏に浮かぶのは、暗い拝所と、黒い“海”のような影。

 足元から引きずり込まれる感覚。


 そして、「またここか」と吐き捨てた自分。


 明日、備瀬に行く。

 ツルおばぁの家へ。

 母が「見てほしい」と言った何かに触れる。


 それが、あの写真と、あの家に残されたものに繋がるとは、このときの陽翔はまだ知らない。


 その夜、不思議と、夢は見なかった。


 夢を見ないことが、逆に不気味だと感じるくらいには、彼の時間はすでに少し軋み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ