第29話 備瀬の海のきざし
ツルの家で迎える、最初の朝だった。
フクギ並木の間から、斜めに差し込む光が畳の上に長く伸びている。
風が葉を揺らす音と、遠くの波の音が、目覚まし代わりみたいにじわじわ意識に入ってきた。
「……おはよ」
居間に顔を出すと、ちゃぶ台の上にはすでに湯飲みが並んでいた。
由美が味噌汁の鍋を温め直していて、その横で真帆が皿を配っている。
「あ、起きたね」
「おはようございます」
真帆と美琴が同時に頭を下げる。
玉城は新聞を半分折りにして読んでいた。
「にぃにぃ、おはよー」
璃子は、座布団の上であぐらをかいたままパンをかじっている。
「……お前、その格好でよく“にぃにぃ”とか言えるな」
「ここ実家みたいなもんだし。いや実家だけど」
口ではそう言いながら、どこか顔がゆるんでいる。
「今日は、備瀬の海も見に行くんでしょ」
由美が味噌汁をよそいながら尋ねた。
「うん。ツルばぁが言ってた“中継点”がどんな感じか、一度自分たちの目で見ておきたいから」
「海行くなら、潮の時間見てからね。干潮と満潮で、見えるものがだいぶ違うさ」
由美はそう言って、流しの横のカレンダーを指さした。
端っこに、小さな字で潮汐が書き込んである。
「今日は昼前に少し潮が引くから、その時間狙って行ったほうがいいよ。干潟も出てくるし」
「了解です。じゃあ午前中は海の様子見て、午後に資料整理と家の中の確認ってところですかね」
玉城が手帳を閉じる。
「観光と調査のハイブリッドね」
真帆が笑う。
「ちゃんとログボも取りに行きます」
「海をログボ扱いするな」
陽翔が突っ込むと、璃子がパンを持った手を上げた。
「でもさ、ツルおばぁの家→備瀬の海のルートって、完全にメインストーリーでしょ。行かないとフラグ立たない」
「その言い方やめろって」
そんなやり取りをしながら、朝ごはんはあっという間に消えていった。
◆
フクギ並木を抜けると、一気に光がひらけた。
左手に、ゆるやかにカーブした砂浜。
潮が引きかけていて、ところどころに浅い水たまりが残っている。
その先には、サンゴと砂が混ざった浅瀬が、薄い水の膜みたいにきらきら光っていた。
「うわ、久しぶりに来たけど、やっぱ景色チートだな」
璃子が、思わず声を上げる。
「ほら、美ら海水族館の建物もあそこに見えるし。完全に観光パンフレットの世界」
「語彙が全部ゲーム寄りなんだよな」
陽翔は苦笑しながら、海の匂いを深く吸い込んだ。
潮と、少し湿った土の匂い。
太陽はもう高いけれど、風がまだ冷たくて心地いい。
「ここが、ツルが“受け止める場所”に選んだ海か」
玉城が、眼鏡の奥を細める。
「記録だけ見ていると分からないけど、実際に立ってみると……たしかに、久高とは違う落ち着きがありますね」
美琴が足元を見ながら言った。
「久高は、島全体がピンと張り詰めていましたけど、ここはもっとゆったりしているというか」
「でも、そのゆったりさを利用して、変なの混ぜようとしてるやつがいるわけで」
真帆が、足首まで水に浸かりながら周囲を見回した。
「今のところ、ぱっと見は普通の海だね」
「そんな簡単に“イベント発生しました”みたいな演出来なくていいよ」
「それはそう」
陽翔は笑いながらも、心のどこかで身構えていた。
久高の森で見た黒い滲み。
足首を掴んでくる冷たさ。
ああいうのが、ここでも出てこないとは限らない。
◆
「とりあえず、浅瀬の具合だけ見てきますね」
美琴が、ズボンの裾を膝までまくり上げた。
「転んだりしないように気をつけてね」
由美が、岸から声をかける。
「はい。足場の石の並びも見たいですから」
美琴は慎重に岩場を選びながら、少しずつ先へ進んでいく。
足元の水は透明で、魚が何匹も忙しなく動いているのが見えた。
「真帆、一緒に行く?」
「行く行く。璃子もどう?」
「もちろん!」
三人は、バシャバシャと足音を立てながら浅瀬に入っていった。
陽翔と玉城は、少し後ろからその様子を見守る。
「先生、何か感じますか」
「今のところ、“ただの海”だね」
玉城は砂をつまみ、海水に落として流れ方を見ていた。
「波の周期も、風も、数字にしたら特に異常は出ないと思う。だからこそ、厄介なんだけど」
ふと、璃子が「ひゃっ」と短く声を上げた。
「どうした」
「今、ここだけ、ちょっと冷たかった」
璃子は足元を見つめる。
「いや、海だから全体的に冷たいんだけどさ。その中でも、この一歩だけ、なんか“泉の底”みたいな温度だった」
「泉の……あのときの?」
「うん。久高で足首捕まれたときの」
璃子は、自分の足首を軽くさする。
「でも、引っ張られる感じとかはないよ。ただ、温度だけ、ふいにそこだけ変わった感じ」
「場所、覚えておいて」
真帆が一歩下がってその位置を見つめる。
「今は何もないけど、あとで印を付けるかも。波の具合で変わるかもしれないし」
「はい」
璃子は、砂の上に小さくバツ印を描いた。
その線を、波がすぐにさらっていく。
「……影ってさ、色より先に、温度で来ることあるんだよね」
真帆がぽつりとつぶやく。
「久高でも、ナミさん言ってた。『冷たいのに汗が出る感じがしたら、一回深呼吸しなさい』って」
「怖いことをさらっと言うな」
陽翔は冗談めかして言いながら、海のほうへ歩いた。
膝下まで水に入ると、足の裏で砂の感触が変わる。
固い部分と、少し沈む部分。
その中に、すっと一筋だけ、妙に冷たい流れが足首を撫でていった。
ほんの一瞬だった。
けれど、久高の泉で感じた「深いところへ引く力」の、ずっと遠い余韻みたいな冷たさが、皮膚の上に残る。
(気のせい、か)
まばたきをして、もう一度足元を見る。
透明な水。
砂の模様。
そこに、不自然な色の濃さは見えない。
「にぃにぃ」
背後から璃子が近づいてきた。
「大丈夫?」
「ああ。ちょっと冷たかっただけ」
「ふーん」
璃子は、隣で同じように足を浸けてみる。
「……さっきほどではないかな。さっきのは、“手だけ冷たいクーラーの風”って感じだった」
「たとえで余計怖くするな」
二人の少し先で、真帆と美琴が海を見ていた。
「結構、波の向きが複雑ですね」
美琴が、指で水面をなぞる。
「向こうから来る波と、こっちから戻る波、それから防波堤で跳ね返ったやつが全部混ざってます」
「その混ざり方をうまく使って、ツルばぁはここを選んだのかもね」
真帆が、海からツルの家のある方向へ目をやる。
「久高から流れてくる“何か”を、一回ここで薄めて別の流れに混ぜる。……そういうイメージなのかもしれない」
「線で切るんじゃなくて、濃いところを薄めていく感じですね」
「うん。境目をガチガチに決めるんじゃなくて、ここでいったん撹拌してから別の場所へ送る、というか」
専門用語抜きでも伝わるように言葉を探しながら、真帆は続ける。
「だから、今みたいに“たまたま冷たいところ”が生まれたりもするんだと思う。全部均一にきれいなわけじゃない」
「撹拌って聞くと、急に理科室感出てくるな」
陽翔がぼやくと、璃子が笑った。
「でもさ、もし変なの混ざって来てても、ツルおばぁのやり方で何とかなるって考えたら、ちょっと安心じゃない?」
「“何とかなるかどうか、確かめに来た”人たちがいるのが、問題なんだけどね」
真帆の言い方が、ほんの少しだけ硬くなった。
美琴が、ちらっと横目で彼女を見る。
「本土側の人たち、ですか」
「全部が全部ってわけじゃないけど……異常現象を研究してる人たちの一部は、“こういう場所”をテストケースにしがちだから」
美琴の指先が、メジャーを握ったときと同じように少し強張る。
「場の線を書き換えたり、文字で制御してみたり。紙の上では綺麗な式でも、ここみたいな場所でやると、話が全然変わるんですよね」
「美琴の師匠も、そういう人?」
璃子が無邪気に尋ねると、美琴は一瞬だけ目を伏せた。
「……あの人は、どこまで行ってしまったのか、今は分かりません」
それ以上、誰も何も言わなかった。
風の向きが、少し変わる。
フクギの葉擦れの音が、浜辺まで届いてきた。
◆
「そろそろ戻るか」
玉城が腕時計を見て言った。
「潮が完全に満ちる前に、一度ツルの家に戻って今日のまとめをしましょう」
「はーい」
浅瀬を引き返す途中で、陽翔はふと振り返った。
さっき自分たちがいたあたりの水面が、少しだけ重たく見えた。
色が黒いわけではない。
けれど、光の跳ね返し方が鈍い。
揺れも、周りの波より半拍だけ遅れている。
瞬きを一度。
視界の中で、重たく見えた部分だけが、すこしスローモーションになった。
波。
光。
足元の砂の模様。
全部が、ぬるりと粘度を増したみたいに遅く流れていく。
(……また、これ)
胸の奥がきゅっと縮む。
「陽翔?」
真帆の声が、普通の速さで届いた。
景色だけがゆっくりで、声だけがそのまま。
頭が混乱しかけた瞬間、スローモーションはぷつりと切れた。
さっき見た“重たい波”は消えていて、ただの透き通った浅瀬があるだけ。
「大丈夫?」
真帆がすぐ近くにいた。
「うん。ただ、ちょっと、足元がふわっとしただけ」
陽翔はごまかすように笑った。
ナミの言葉が、耳の奥でよみがえる。
――拍子を勝手に変えようとしないこと。
自分だけ違うリズムで動こうとしているのかもしれない。
そんな考えが頭をかすめる。
「疲れたらちゃんと言ってよ。ここ、見た目きれいでも、マブイ的には結構忙しい場所だからさ」
「分かってる」
そう答えたところで、ふいに視界の端を黒い影が横切った。
「……あ」
フクギ並木の上、枝の間に黒猫が座っていた。
琥珀色と青のオッドアイ。
鍵しっぽ。
さっきまで砂浜の端で丸くなっていた猫と、同じ姿。
「にぃにぃ、あそこ」
璃子も気づいて指さす。
「さっき、岩の上にもいなかった?」
「いや、そんな距離、一瞬で移動できるわけないだろ」
「猫だからワープくらいするよ」
「しない」
言い合いながらも、陽翔は目を離せなかった。
フクギの上の猫と、
砂浜の端で、さっきまで自分たちの足元を見ていた猫。
距離感がおかしい。
どちらかを見ていると、もう一方の記憶がぼやけていく。
フクギの上の猫は、ゆっくりと瞬きをした。
そして、鍵しっぽを一度だけ揺らすと、枝の陰へするりと消えた。
風が吹いて、葉がざわめく。
その音に紛れて、波の音が一瞬だけ低くなったように聞こえた。
「……なんか、見られてる気がするな」
陽翔がぽつりと言うと、真帆も小さくうなずいた。
「海からも、フクギからも。あと、ツルばぁの家からも」
「見られてる三点セットだ」
「そんな言い方」
笑い合いながらも、誰も完全には緊張を解けない。
備瀬の海は、パンフレットに載っているとおりの穏やかな景色だった。
けれど、その水の中と、その向こうと、ツルの家を結ぶ何かが、
少しずつ音を立てずに動き始めている――
そんな予感だけが、潮風の中にじっと残っていた。




