第28話 家のマブイ
ツルの若い頃の写真を棚に戻すと、居間の空気が少しだけ静かになった。
さっきまで胸の奥でざわざわしていたものが、潮の引き際みたいに、じわじわと奥へ引いていく。
ちゃぶ台の下では、黒猫が丸くなっていた。
鍵しっぽを鼻先の前で折り曲げて、琥珀色と青の目を細めている。
家の真ん中に、小さな黒い塊がひとつ落ち着いているだけで、部屋の輪郭がはっきりした気がした。
◆
「とりあえず、片付けの続きやろっか」
真帆が軽く手を叩いて、空気を切り替える。
「由美さん、台所まわり、私も手伝います。古い調味料とか、賞味期限チェックしたほうがいいですよね」
「ほんと? 助かるさ。ツルの頃から置きっぱなしの瓶とかありそうで怖いさね」
「現世の影との戦いが始まったな……」
璃子がわざとらしく肩を落とした。
「スパイスのビンとか、一番時間の影響受けるアイテムだからね」
「その言い方やめて」
由美と真帆が台所に消えていく。
居間では、玉城がメモ帳を開き、美琴が鞄からメジャーを取り出した。
「先生、家の間取り、一度整理しておきませんか」
「そうだね。避難経路という意味でも、一回頭に入れておいたほうがいい」
玉城が頷く。
「玄関、居間、仏間、客間、陽翔くんの部屋、裏口……海側の窓と、フクギ側の窓の位置も確認しよう」
「廊下の幅も測っておきます。人が並んで走れるかどうかで、詰まり方が変わりますから」
美琴は、メジャーをしゃりっと伸ばして廊下に出ていった。
「こういうときだけ、完全にフィールドワークモードになるよね」
璃子が感心したように眺める。
「普段からあんな感じだろ」
陽翔は笑いながら、居間の隅に立てかけてあった古い掃除機を引っ張り出した。
「じゃあこっちは、動かした家具の下とか一回きれいにしとくか。ツルばぁ、絶対そのほうが喜ぶさ」
「了解。私は窓担当ね。フクギの葉っぱがん見しながら、影っぽいとこもチェックする」
「窓掃除しながら影チェックは情報過多だろ」
「マルチタスクはゲーマーの基本スキルですよ」
「うるさい」
そんなやり取りをしながら、それぞれの足音が家の中に散っていった。
◆
掃除機のモーター音と、台所から聞こえる水の音と、廊下でメジャーが伸びるしゃりしゃりした音。
どこにでもある生活音なのに、この家の中では、それぞれが別々の川みたいに流れている印象がある。
陽翔は、掃除機のスイッチを切った。
モーター音が止んだ瞬間、別の音が一気に耳に戻ってくる。
フクギを抜ける風。
遠くの波。
冷蔵庫の低い唸り。
台所で由美と真帆が話す声。
「……なんか、静かになり方が不思議じゃない?」
雑巾を持ったまま戻ってきた璃子が、きょとんと首を傾げる。
「さっきまでうるさかっただけじゃないの」
「それもあるけどさ。音が消えたあと、一回“家全体が息吸い直した”みたいな感じしなかった?」
「また変な比喩を」
そう言いながらも、陽翔は少し同意しかけていた。
掃除機を止めたあと、居間の空気が一度だけふっと膨らんで、ゆっくり落ち着き直した気がする。
さっきまで散らかっていた音や気配が、一箇所に集められて、もう一度ほどよく広げられたような。
「この家さ」
璃子が雑巾を肩に乗せた。
「音の戻り方が、ちょっとゲームの拠点なんだよね」
「またそれか」
「セーブポイントの部屋ってさ、BGM止めると環境音だけやたらクリアになったりするじゃん? あれに似てる」
「……まあ、なんとなく言いたいことは分かる」
陽翔は、フクギ側の窓を少し開けた。
葉擦れの音が、さっきより近くなる。
その向こうに、一定のリズムで打ち寄せる波。
ツルの家全体が、ひとつの大きな胸みたいに、ゆっくり呼吸している――そんなイメージが、ふと浮かんだ。
◆
「廊下の幅、一メートル二十です」
メジャーを持った美琴が、真面目な顔で居間に戻ってくる。
「このくらいなら、二人並んで走っても何とか」とメモ帳に書き込みながら、ちゃぶ台の端に座った。
「避難ルート的には、悪くないですね」
「一周何回測るつもりさ」
璃子が笑う。
「影が濃くなったときに、『ここからここまで一息で走れるか』のイメージは大事です。師匠にもよく言われました」
「師匠?」
陽翔が何気なく聞き返すと、美琴の手が一瞬止まる。
「はい。勝手に師匠と呼んでいますけど、本土の術式を教わった先生です。……マブイの力ではなくて、場の線と、文字と、印で調整していくやり方でした」
「線と文字?」
「床とか紙の上に描いた形に、人の流れや霊的な流れを誘導するんです。こっちのマブイとは、少し感覚が違いますけど」
美琴は、メモ帳の端に小さな円と四角をいくつか描いた。
「たとえば、ここが“ここから先に入りづらくする輪”だとして」
指でなぞったところを、黒猫がひょいと横切る。
丸く描いた線の上を、鍵しっぽがぴょんとまたいだ。
「……あの子は、どこでも自由に出入りできそうですけどね」
美琴が苦笑する。
「猫って感じですね」
「気にしてるからこそ、ああやって真ん中歩いてるのかもしれないし」
真帆の声が、台所から飛んできた。
「どっちにしろ、猫最強説は揺るがないね」
「猫にいろいろ求めるのは、やめてほしいんだけど」
陽翔がつぶやくと、ちゃぶ台の下で丸くなっていた黒猫が、ふん、とでも言うように顔をそむけた。
◆
夕方、外の光が少し柔らかくなってきた頃。
由美が鍋の蓋を開けた。
「はい、ご飯できるよー。テーブル……じゃないね、この家は、ちゃぶ台の上片付けて」
「はーい」
璃子がメモ帳とペンをまとめて脇に寄せる。
「今日のメニューは?」
「冷蔵庫と買い足したやつ全部放り込んだカレー。あと、島野菜と豆腐のチャンプルー」
「優勝じゃん」
「久高のあとの現世リカバリーにはちょうどいいですね」
真帆がフライパンをあおりながら笑う。
「さっきから現世現世言うのやめなさい」
「はいはい」
湯気と一緒に、家の中の空気が一段あたたかくなる。
全員でちゃぶ台を囲んで座ると、ツルがいた頃の記憶が勝手に重なってきた。
「いただきます」
手を合わせる声が、部屋の中に揃う。
一口食べて、陽翔は思わずうなずいた。
「……これ、ツルばぁのカレーに近い」
「ほんと?」
由美が少し目を丸くする。
「分量、ちゃんと教えてもらったわけじゃないからさ。いっつも感覚でやってるけど」
「ツルおばぁのカレーは、なんか“守りバフ”かかる味だった」
「その言葉、標準語に訳しなさい」
「食べたあと、“もうちょっと頑張ろう”じゃなくて、“ちゃんと寝よう”って気持ちになる味です」
「ああ、それは分かる気がする」
笑いながら食べているうちに、鍋はあっという間に空になった。
◆
食後、居間の電気を少し落として、ちゃぶ台のまわりに座り直す。
「一回、呼吸合わせとこっか」
陽翔が言うと、璃子が「お、きた」と目を輝かせる。
「ツルおばぁ式のアレね?」
「うん。ナミさんにも似たようなこと言われたし」
まず自分たちの流れを整えること。
久高の浜辺で言われた言葉と、ツルに教わった夜の記憶が重なる。
「円になって座ろう。背中、ぴんって。肩、ぎゅって上げて……ふーって落として」
陽翔がやってみせると、真帆も美琴も真似をする。
「はい、肩リセット」
「技名っぽくするな」
「いいから。鼻からゆっくり吸って、ゆっくり吐く」
四人と、先生ひとりと、由美と、黒猫ひとつ。
居間の真ん中に輪になるように座り、ゆっくりと呼吸を合わせる。
最初は、それぞれの息の長さがバラバラだった。
でも、数を数えるうちに、自然と近づいていく。
フクギの葉擦れ。
波の音。
家鳴り。
そこに、人の息がほんの少し混ざる。
別々だった音が、ひとつの流れにまとまっていく。
黒猫が、輪の真ん中にとことこと歩いてきた。
ちゃぶ台と陽翔たちの間にできた小さな空間に、くるりと回って座り込む。
鍵しっぽが、呼吸と同じリズムで揺れた。
(……なんだこれ)
陽翔は目を閉じたまま、眉を寄せる。
家の中のマブイが、全部まとめて少しだけ深く沈んでいく。
ツルが昔、夜の前にやってくれた「息を落とす練習」。
それを大勢でやっているような感じだった。
胸のざわつきが、さっきより静かだ。
「……ふぅ」
最後の一息を吐き終えると、由美が小さく手を叩いた。
「はい、お疲れさま。なんか、スッキリしたみたいね」
美琴が、少し照れながら笑う。
「こういうの、習ってきた術より効くときあるんですよね。紙や札より、ここにいる人の息のほうがなんだか好きです」
「術より体感的にわかりやすいしな!」
玉城が頷く。
「明日から本格的に動く前に、今日はもう休みましょう。頭が冴えすぎているときほど、寝るのが大事です」
◆
夜になると、風の音が少しだけ強くなった。
フクギ並木を抜けた風が、家の壁をかすかに鳴らす。
遠くで犬の鳴き声。
波の音は、昼間より低く、長く続いていた。
客間では、璃子と真帆と美琴が川の字になって布団に入っている。
「なんか修学旅行っぽいね」
「修学旅行でこんなガチ拠点みたいな場所泊まらないでしょ」
「いいから静かに寝なさい。明日、海も見に行くんでしょ」
真帆の声に、璃子が「はーい」と生返事をする。
しばらくして、三人の寝息が少しずつ揃っていった。
陽翔は、自分の部屋の布団の中で天井を見上げていた。
カーテンの隙間から、月の光が細く差し込んでいる。
昼間、真帆が言っていた「輪っか」という言葉を思い出す。
この部屋の輪。
客間の輪。
居間の輪。
それぞれが、ツルの家という大きな輪の中で、ゆっくり回っている。
そんなイメージが頭に浮かんだ。
胸の奥で、何かが静かに揺れる。
久高で感じた「景色のスローモーション」と、道路で感じたあの感覚。
ナミが言っていた「拍子の違い」。
「頼りすぎないこと、か」
自分だけ拍子を変えようとしているのかもしれない。
そう思ったら、少し怖くなった。
廊下のほうで、かすかに畳がきしむ音がした。
襖の隙間から、黒い影がするりと入ってくる。
黒猫だ。
陽翔の布団の足元まで来ると、そこで立ち止まり、棚のほうを見上げる。
若いツルと、遺影のツルの写真。
猫はしばらく二枚の写真を見ていた。
そして、何かを確かめるみたいに、ゆっくり瞬きをする。
次の瞬間には、足音ひとつ立てずに部屋を出ていった。
廊下の先、居間のほうで、畳がもう一度だけ小さく鳴る。
家が、深く息を吸い込んだような気配が、一瞬だけ走った。
陽翔は、そのまま目を閉じる。
この夜が、ただの「初日のお泊まり」で終わらないことを、
まだはっきりとは知らないまま。




