表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
28/31

第28話 家のマブイ

 ツルの若い頃の写真を棚に戻すと、居間の空気が少しだけ静かになった。


 さっきまで胸の奥でざわざわしていたものが、潮の引き際みたいに、じわじわと奥へ引いていく。


 ちゃぶ台の下では、黒猫が丸くなっていた。

 鍵しっぽを鼻先の前で折り曲げて、琥珀色と青の目を細めている。


 家の真ん中に、小さな黒い塊がひとつ落ち着いているだけで、部屋の輪郭がはっきりした気がした。


     ◆


「とりあえず、片付けの続きやろっか」


 真帆が軽く手を叩いて、空気を切り替える。


「由美さん、台所まわり、私も手伝います。古い調味料とか、賞味期限チェックしたほうがいいですよね」


「ほんと? 助かるさ。ツルの頃から置きっぱなしの瓶とかありそうで怖いさね」


「現世の影との戦いが始まったな……」


 璃子がわざとらしく肩を落とした。


「スパイスのビンとか、一番時間の影響受けるアイテムだからね」


「その言い方やめて」


 由美と真帆が台所に消えていく。


 居間では、玉城がメモ帳を開き、美琴が鞄からメジャーを取り出した。


「先生、家の間取り、一度整理しておきませんか」


「そうだね。避難経路という意味でも、一回頭に入れておいたほうがいい」


 玉城が頷く。


「玄関、居間、仏間、客間、陽翔くんの部屋、裏口……海側の窓と、フクギ側の窓の位置も確認しよう」


「廊下の幅も測っておきます。人が並んで走れるかどうかで、詰まり方が変わりますから」


 美琴は、メジャーをしゃりっと伸ばして廊下に出ていった。


「こういうときだけ、完全にフィールドワークモードになるよね」


 璃子が感心したように眺める。


「普段からあんな感じだろ」


 陽翔は笑いながら、居間の隅に立てかけてあった古い掃除機を引っ張り出した。


「じゃあこっちは、動かした家具の下とか一回きれいにしとくか。ツルばぁ、絶対そのほうが喜ぶさ」


「了解。私は窓担当ね。フクギの葉っぱがん見しながら、影っぽいとこもチェックする」


「窓掃除しながら影チェックは情報過多だろ」


「マルチタスクはゲーマーの基本スキルですよ」


「うるさい」


 そんなやり取りをしながら、それぞれの足音が家の中に散っていった。


     ◆


 掃除機のモーター音と、台所から聞こえる水の音と、廊下でメジャーが伸びるしゃりしゃりした音。


 どこにでもある生活音なのに、この家の中では、それぞれが別々の川みたいに流れている印象がある。


 陽翔は、掃除機のスイッチを切った。


 モーター音が止んだ瞬間、別の音が一気に耳に戻ってくる。


 フクギを抜ける風。

 遠くの波。

 冷蔵庫の低い唸り。

 台所で由美と真帆が話す声。


「……なんか、静かになり方が不思議じゃない?」


 雑巾を持ったまま戻ってきた璃子が、きょとんと首を傾げる。


「さっきまでうるさかっただけじゃないの」


「それもあるけどさ。音が消えたあと、一回“家全体が息吸い直した”みたいな感じしなかった?」


「また変な比喩を」


 そう言いながらも、陽翔は少し同意しかけていた。


 掃除機を止めたあと、居間の空気が一度だけふっと膨らんで、ゆっくり落ち着き直した気がする。


 さっきまで散らかっていた音や気配が、一箇所に集められて、もう一度ほどよく広げられたような。


「この家さ」


 璃子が雑巾を肩に乗せた。


「音の戻り方が、ちょっとゲームの拠点なんだよね」


「またそれか」


「セーブポイントの部屋ってさ、BGM止めると環境音だけやたらクリアになったりするじゃん? あれに似てる」


「……まあ、なんとなく言いたいことは分かる」


 陽翔は、フクギ側の窓を少し開けた。


 葉擦れの音が、さっきより近くなる。

 その向こうに、一定のリズムで打ち寄せる波。


 ツルの家全体が、ひとつの大きな胸みたいに、ゆっくり呼吸している――そんなイメージが、ふと浮かんだ。


     ◆


「廊下の幅、一メートル二十です」


 メジャーを持った美琴が、真面目な顔で居間に戻ってくる。


「このくらいなら、二人並んで走っても何とか」とメモ帳に書き込みながら、ちゃぶ台の端に座った。


「避難ルート的には、悪くないですね」


「一周何回測るつもりさ」


 璃子が笑う。


「影が濃くなったときに、『ここからここまで一息で走れるか』のイメージは大事です。師匠にもよく言われました」


「師匠?」


 陽翔が何気なく聞き返すと、美琴の手が一瞬止まる。


「はい。勝手に師匠と呼んでいますけど、本土の術式を教わった先生です。……マブイの力ではなくて、場の線と、文字と、印で調整していくやり方でした」


「線と文字?」


「床とか紙の上に描いた形に、人の流れや霊的な流れを誘導するんです。こっちのマブイとは、少し感覚が違いますけど」


 美琴は、メモ帳の端に小さな円と四角をいくつか描いた。


「たとえば、ここが“ここから先に入りづらくする輪”だとして」


 指でなぞったところを、黒猫がひょいと横切る。


 丸く描いた線の上を、鍵しっぽがぴょんとまたいだ。


「……あの子は、どこでも自由に出入りできそうですけどね」


 美琴が苦笑する。


「猫って感じですね」


「気にしてるからこそ、ああやって真ん中歩いてるのかもしれないし」


 真帆の声が、台所から飛んできた。


「どっちにしろ、猫最強説は揺るがないね」


「猫にいろいろ求めるのは、やめてほしいんだけど」


 陽翔がつぶやくと、ちゃぶ台の下で丸くなっていた黒猫が、ふん、とでも言うように顔をそむけた。


     ◆


 夕方、外の光が少し柔らかくなってきた頃。


 由美が鍋の蓋を開けた。


「はい、ご飯できるよー。テーブル……じゃないね、この家は、ちゃぶ台の上片付けて」


「はーい」


 璃子がメモ帳とペンをまとめて脇に寄せる。


「今日のメニューは?」


「冷蔵庫と買い足したやつ全部放り込んだカレー。あと、島野菜と豆腐のチャンプルー」


「優勝じゃん」


「久高のあとの現世リカバリーにはちょうどいいですね」


 真帆がフライパンをあおりながら笑う。


「さっきから現世現世言うのやめなさい」


「はいはい」


 湯気と一緒に、家の中の空気が一段あたたかくなる。


 全員でちゃぶ台を囲んで座ると、ツルがいた頃の記憶が勝手に重なってきた。


「いただきます」


 手を合わせる声が、部屋の中に揃う。


 一口食べて、陽翔は思わずうなずいた。


「……これ、ツルばぁのカレーに近い」


「ほんと?」


 由美が少し目を丸くする。


「分量、ちゃんと教えてもらったわけじゃないからさ。いっつも感覚でやってるけど」


「ツルおばぁのカレーは、なんか“守りバフ”かかる味だった」


「その言葉、標準語に訳しなさい」


「食べたあと、“もうちょっと頑張ろう”じゃなくて、“ちゃんと寝よう”って気持ちになる味です」


「ああ、それは分かる気がする」


 笑いながら食べているうちに、鍋はあっという間に空になった。


     ◆


 食後、居間の電気を少し落として、ちゃぶ台のまわりに座り直す。


「一回、呼吸合わせとこっか」


 陽翔が言うと、璃子が「お、きた」と目を輝かせる。


「ツルおばぁ式のアレね?」


「うん。ナミさんにも似たようなこと言われたし」


 まず自分たちの流れを整えること。


 久高の浜辺で言われた言葉と、ツルに教わった夜の記憶が重なる。


「円になって座ろう。背中、ぴんって。肩、ぎゅって上げて……ふーって落として」


 陽翔がやってみせると、真帆も美琴も真似をする。


「はい、肩リセット」


「技名っぽくするな」


「いいから。鼻からゆっくり吸って、ゆっくり吐く」


 四人と、先生ひとりと、由美と、黒猫ひとつ。


 居間の真ん中に輪になるように座り、ゆっくりと呼吸を合わせる。


 最初は、それぞれの息の長さがバラバラだった。


 でも、数を数えるうちに、自然と近づいていく。


 フクギの葉擦れ。

 波の音。

 家鳴り。


 そこに、人の息がほんの少し混ざる。


 別々だった音が、ひとつの流れにまとまっていく。


 黒猫が、輪の真ん中にとことこと歩いてきた。


 ちゃぶ台と陽翔たちの間にできた小さな空間に、くるりと回って座り込む。


 鍵しっぽが、呼吸と同じリズムで揺れた。


(……なんだこれ)


 陽翔は目を閉じたまま、眉を寄せる。


 家の中のマブイが、全部まとめて少しだけ深く沈んでいく。


 ツルが昔、夜の前にやってくれた「息を落とす練習」。

 それを大勢でやっているような感じだった。


 胸のざわつきが、さっきより静かだ。


「……ふぅ」


 最後の一息を吐き終えると、由美が小さく手を叩いた。


「はい、お疲れさま。なんか、スッキリしたみたいね」


 美琴が、少し照れながら笑う。


「こういうの、習ってきた術より効くときあるんですよね。紙や札より、ここにいる人の息のほうがなんだか好きです」


「術より体感的にわかりやすいしな!」


 玉城が頷く。


「明日から本格的に動く前に、今日はもう休みましょう。頭が冴えすぎているときほど、寝るのが大事です」


     ◆


 夜になると、風の音が少しだけ強くなった。


 フクギ並木を抜けた風が、家の壁をかすかに鳴らす。

 遠くで犬の鳴き声。

 波の音は、昼間より低く、長く続いていた。


 客間では、璃子と真帆と美琴が川の字になって布団に入っている。


「なんか修学旅行っぽいね」


「修学旅行でこんなガチ拠点みたいな場所泊まらないでしょ」


「いいから静かに寝なさい。明日、海も見に行くんでしょ」


 真帆の声に、璃子が「はーい」と生返事をする。


 しばらくして、三人の寝息が少しずつ揃っていった。


 陽翔は、自分の部屋の布団の中で天井を見上げていた。


 カーテンの隙間から、月の光が細く差し込んでいる。


 昼間、真帆が言っていた「輪っか」という言葉を思い出す。


 この部屋の輪。

 客間の輪。

 居間の輪。


 それぞれが、ツルの家という大きな輪の中で、ゆっくり回っている。


 そんなイメージが頭に浮かんだ。


 胸の奥で、何かが静かに揺れる。


 久高で感じた「景色のスローモーション」と、道路で感じたあの感覚。

 ナミが言っていた「拍子の違い」。


「頼りすぎないこと、か」


 自分だけ拍子を変えようとしているのかもしれない。


 そう思ったら、少し怖くなった。


 廊下のほうで、かすかに畳がきしむ音がした。


 襖の隙間から、黒い影がするりと入ってくる。


 黒猫だ。


 陽翔の布団の足元まで来ると、そこで立ち止まり、棚のほうを見上げる。


 若いツルと、遺影のツルの写真。


 猫はしばらく二枚の写真を見ていた。


 そして、何かを確かめるみたいに、ゆっくり瞬きをする。


 次の瞬間には、足音ひとつ立てずに部屋を出ていった。


 廊下の先、居間のほうで、畳がもう一度だけ小さく鳴る。


 家が、深く息を吸い込んだような気配が、一瞬だけ走った。


 陽翔は、そのまま目を閉じる。


 この夜が、ただの「初日のお泊まり」で終わらないことを、

 まだはっきりとは知らないまま。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ