第27話 写真の中のツル
押し入れのふすまの前で、黒猫が座っていた。
鍵みたいに曲がった尻尾を、ゆっくり左右に振っている。
琥珀色と青のオッドアイが、ふすまの一点をじっと見つめていた。
「……やっぱ、ここフラグ立ってるでしょ」
璃子が小声で言う。
「ゲーム用語で押し入れ開けるのやめろって」
陽翔が眉をしかめると、隣で真帆が笑った。
「でも、気になるよね。由美さん、今日見ても大丈夫ですか」
居間から顔を出した由美が、少し考えてからうなずく。
「うん。どうせいつかは片付けないといけないしね。みんながいるときのほうが、かえって心強いさ」
由美がふすまの前まで来ると、黒猫はするりと横にずれた。
道を空けるように一歩退いて、そこでまた座り込む。
「……ほんと、分かってるみたいだよね、この子」
真帆がぽつりとつぶやく。
由美が、ふすまの取っ手に手をかけた。
「いくよ」
ガラリ、と音を立てて、押し入れが開く。
◆
中には、昔から見慣れた布団と、段ボール箱がいくつか積んであった。
上の段の隅に、古い桐の箱がひとつ置かれている。
角は少し擦れているのに、箱の表面だけはよく拭かれているのか、うっすら光って見えた。
「あったね……」
由美が、小さく息を吐く。
「お葬式の前の日に、一回だけ出したんだよ。ツルが昔から大事にしてた箱」
「葬式のときの、あの写真?」
陽翔の声が、自分でも驚くほど落ち着いて聞こえた。
由美はうなずく。
「そう。あのときはバタバタしてて、ゆっくり見てる暇もなかったけどね」
「取るよ」
陽翔が押し入れの縁に足をかけて、上段に手を伸ばした。
箱を持ち上げると、予想より少し重い。
両腕に、冷たい木の感触が伝わる。
ちゃぶ台の上にそっと置くと、みんなの視線が自然とそこに集まった。
黒猫も、いつの間にかちゃぶ台の端に乗っている。
鍵しっぽを垂らして、じっと箱を見つめていた。
◆
「開けていい?」
陽翔が由美を見る。
「うん。ツルも、いつかあんたたちにちゃんと見せたかったはずよ」
由美の言葉に押されて、陽翔は桐の蓋に指をかけた。
キィ、と小さな音を立てて、蓋が開く。
中に入っていたのは、分厚い封筒と、古い写真が数枚。
一番上の一枚だけ、ほかより少し丁寧に薄紙に包まれている。
陽翔は、その薄紙をそっとめくった。
白黒の世界が、そこにあった。
岩場のような場所。
後ろに、低い木と、遠くの海。
中央に、若いツル。
肩まで伸びた髪を後ろで結び、真っ直ぐこちらを見つめている。
その隣に、青年が立っていた。
軍服でも学生服でもない、見慣れない服装。
短く切った髪。
輪郭も、目の形も、頬の線も。
「……にぃにぃ、これ」
璃子が、写真の上に身を乗り出す。
「完全に、陽翔バージョン一・五って感じだけど」
「どんな数え方だよ」
陽翔は、冗談で流そうとした。
けれど、言葉が喉にひっかかる。
写真の中の青年は、笑っていない。
けれど、どこか疲れたような目つきと、それでも前を向いて立っている姿勢に、見覚えのある感じがした。
「お兄さん……とか、じゃないんですか」
美琴が恐る恐る尋ねる。
「顔立ち、かなり近いですよね」
「ううん、違うはずよ」
由美が、写真の青年と陽翔を交互に見比べながら首を振る。
「ツルは一人っ子だったし、戦争で家族もほとんどいなくなってるって、自分で言ってたから。あたしが知る限り、身内にこんな顔の男の人いないさ」
「じゃあ、誰?」
璃子が写真の青年を指さす。
「ツルおばぁの彼氏?」
「り、璃子」
真帆が肘で軽く小突く。
「もうちょっと言い方ってものが」
「いや、でもそうとしか……」
由美は、少しだけ視線を落とした。
「……聞いたことないんだよね」
ぽつりと、こぼすように言う。
「この写真の人が誰か、ツルは一回も教えてくれなかった。ただ、『うちが勝手に連れてきた人さ』って笑ってた」
「勝手に、って」
玉城が、眼鏡の奥で目を細めた。
「久高ですか? それとも本島?」
「場所もね、はっきりとは。『あの頃の久高は、今とだいぶ違ってたさ』って言い方はしてたけど」
由美は写真を見つめながら続ける。
「ただ一つだけ、はっきり覚えてることがあるの」
陽翔たちが、息を呑んで由美を見る。
「この写真、ツル、絶対に『昔のバカな写真』とか言わなかった」
由美の声が少しだけ震える。
「若い頃の写真って、普通ちょっと照れて笑い話にするでしょ。なのに、これだけは違った。箱から出しても、必ず両手で持って、絶対に手を滑らせないみたいな持ち方してた」
ツルの姿が頭に浮かぶ。
畳の上に座って、桐箱の前で背筋を伸ばしている姿。
写真に指先をそっと添えて、目を細めている横顔。
「『世界の行き先の鍵みたいな写真さね』って、ぽろっと言ったことがある」
由美が、写真に触れないようにちゃぶ台の端を握りしめる。
「冗談っぽく笑いながらだったけど、目だけは全然笑ってなかったから。子どものあたしでも、『あ、これだけは本気なんだ』って分かった」
世界の行き先。
陽翔は、その言葉を頭の中で何度か転がした。
写真の中のツルは、今の遺影よりずっと若いのに、目の奥に同じような強さを宿している。
隣の青年も、どこか諦めの悪そうな目をしていた。
足元には、黒猫が一匹。
こちらに背を向けて座っているが、鍵しっぽだけがはっきり写っている。
「この猫も、鍵しっぽなんだね」
真帆が指先で、写真の端をなぞる。
「さっき屋根にいた子と、同じ形」
「でも写真、白黒だからさ」
璃子が首をかしげる。
「目の色までは分からないんだよね。オッドアイかどうか、確認取れない感じ」
「そこでゲーム用語みたいに『確認取れない』とか言うな」
陽翔は口ではそう言いながらも、写真の猫と、さっきからちゃぶ台の端で座っている黒猫を見比べた。
鍵のように曲がった尻尾。
体格。
座り方。
全部、ほとんど同じに見える。
ちゃぶ台の端の黒猫が、ゆっくりと瞬きをした。
琥珀色と青の目が、一瞬だけ写真のほうに向く。
その瞬間、陽翔の耳には、遠くで波の音が重なって聞こえた。
今の備瀬の海の音と、別のどこかの海の音。
ほんの一呼吸ぶんだけ、音が二重になった気がして――すぐに戻る。
「どうしたの、陽翔」
真帆の声に、陽翔ははっと顔を上げた。
「いや……ちょっと、ふわっとしただけ」
「移動疲れもあるしね」
由美が心配そうに眉を寄せる。
「無理しないでよ。写真も、今日はこれくらいにしとこうか」
「もう少しだけ、見ててもいい?」
陽翔は、自分でも意外な言葉を口にしていた。
「この人の顔、ちょっと気になって」
「そりゃ気になるよ」
璃子がちゃぶ台に顎を乗せる。
「ツルおばぁの大事な人で、なおかつにぃにぃ似とか、イベント臭しかしないし」
「イベント臭って言うな」
真帆がくすっと笑う。
「でも、ほんとに……よく似てるね」
陽翔は、写真をじっと見つめた。
自分の顔を鏡で見るときの感覚と違って、
写真の中の青年は、少しだけ自分より年上に見えた。
疲れたような、でも投げ出していない目。
ツルの横で立っているその姿は、
まるで隣に立つことを、最初から決められていたみたいに自然だった。
胸の奥が、ゆっくり熱くなる。
その熱を、どこにおさめればいいのか分からないまま、陽翔は視線をそらせなかった。
◆
「この写真、どうする?」
しばらく沈黙が続いたあと、由美が小さく尋ねる。
「また箱に戻して、押し入れにしまっておく?」
「それとも、どこかに飾っておきますか」
玉城の問いに、由美は少し迷ったように写真を見つめた。
「……そうだね」
やがて、静かに言葉を続ける。
「これ、しばらくはここで預かろうね」
由美は写真を両手で持ち上げた。
遺影の横、少し低い位置にある小さな棚に、写真立てを立てる。
カメラ屋でもらったような、簡単なフレームだ。
そこに、若いツルの写真をそっと入れた。
「おばぁの“昔”と“今”が、ちゃんと同じ場所にあるほうが落ち着く気がするさ」
遺影のツルは、穏やかに笑っている。
その横で、若いツルは、真っ直ぐ前を見据えている。
並べてみると、どちらも同じ人だと分かるのに、歩いてきた時間の重さが全然違って見えた。
黒猫が、棚の下まで歩いていって、そこで座り込む。
鍵しっぽをぱたぱたと揺らしながら、二枚の写真を見上げていた。
「……なんか、見張り番みたいだね」
真帆がつぶやく。
「おばぁの昔と今と、ぜんぶ見てる感じ」
「そんな大役、猫に任せて大丈夫かな」
璃子が冗談めかして言うと、黒猫はちらりと振り返って、ふん、とでも言いたげに顔をそむけた。
その仕草がおかしくて、みんなの間に小さな笑いが生まれる。
笑いが落ち着いたあとも、陽翔はしばらく写真から目を離せなかった。
若いツル。
隣の青年。
足元の黒猫。
そして、窓の外から聞こえてくる波の音。
ここが、ツルの選んだ「中継点」だというナミの言葉が、ふいに頭をよぎる。
久高と、本部と、海の流れ。
戦争の頃と、今。
それらがこの家の中で、静かに繋がっている。
その中心に、写真の中のツルが立っているように見えた。
「……にぃにぃ」
隣で璃子が、小さな声で呼んだ。
「ん?」
「さっきから、ずっと難しい顔してるよ」
「そう見える?」
「見える。イベント前の顔してる」
「だからイベントって言うな」
陽翔はそう言いながらも、自分の表情がうまく作れていないのを自覚していた。
写真の中の青年の目が、さっきより少し近くに感じる。
視線をそらすと、今度は棚の下の黒猫と目が合った。
琥珀色と青の目が、何かを知っているような光を宿している。
――まだ、何も始まっていない。
そう言い聞かせるように、陽翔はゆっくり息を吐いた。
けれど、胸のどこかで、もう何かが動き出している予感だけは、どうしても消えてくれなかった。




