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マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
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第26話 ツルおばぁの家

 フクギ並木の陰から、一軒家の屋根が顔を出していた。


 赤瓦。低いコンクリート塀。玄関の前に、昔と変わらない小さな庭。


 ツルの家だ。


 陽翔は、胸の奥がひゅっと縮むのを感じた。懐かしさと、別の何かがいっしょくたになっている。


「……やっぱ、そのまんまだな」


 玄関先まで歩いていくと、網戸の向こうで人影が動いた。


 ガラリ、と戸が開く。


「おかえり」


 由美だった。


 エプロン姿のまま、陽翔たちの顔を一人ずつ確かめるように見て、少し照れたように笑う。


「渋滞してないかって心配してたさ。思ったより早かったね」


「ただいま」


 陽翔が答えると、由美の目元がわずかに潤んだ。


「真帆ちゃんも、おかえり。大きくなって……って言うのも変ね。もう立派な大人だね」


「お久しぶりです、由美さん」


 真帆が笑顔で会釈する。


「小さい頃からお世話になりました。また、お邪魔します」


「何言ってるの。あんたはもう、ほとんど家族みたいなもんさ。勝手に上がりなさい」


 由美はそう言ってから、美琴と玉城に視線を向けた。


「で、こちらが……」


「島袋美琴と申します。真帆さんの後輩で、お邪魔させていただきます」


 美琴がきれいに頭を下げる。


「初めまして。急に押しかけてしまってすみません」


「いえいえ、こちらこそ。わざわざ北部まで。真帆ちゃんの後輩なら、うちとしては安心さ」


 次に玉城に視線が移る。


「それから、先生が……」


「玉城です。大学で、民俗学のほうを」


 名乗ると、由美は一瞬だけ表情を固くした。


 民俗学。マブイ。泉。


 陽翔は、その単語を連想している自分に気づいて、心の中で舌打ちしそうになった。そこまで深くは考えていないはずだ。


 由美はすぐに、いつもの柔らかい笑顔に戻る。


「遠いところ、ありがとうございます。狭い家ですけど、どうぞ上がってください。荷物、こっちに置いて」


「お邪魔します」


 五人が玄関で靴を脱いでいると、足元を黒い影がすり抜けた。


「あ」


 璃子が声を上げる。


 さっき屋根の上にいた黒猫が、何事もなかったような顔で先に上がっていく。鍵しっぽをふりふりしながら、廊下を奥の方へ。


「この子ね、いつの間にか住みついちゃって」


 由美が苦笑する。


「おばぁがいた頃から来たり来なかったりはしてたけど、最近は、ほとんど家の子みたいにしてるさ」


「名前、あるの?」


「うーん……勝手に呼んでるのはあるけど、あの子が気にしてるかどうかは分からんね」


 由美の言い方が少しおもしろくて、陽翔は肩の力が抜けた。


     ◆


 居間に入ると、畳の匂いと、味噌汁の香りが混ざり合っていた。


 部屋の真ん中にはちゃぶ台。その向こうの壁には、ツルの写真が飾られている。葬式のときに見た、あの遺影だ。


 線香は焚かれていない。それなのに、陽翔の鼻には、あの日の白い煙の匂いが一瞬だけ蘇った。


(葬式のときは、人でいっぱいだったな)


 親戚、近所の人、ツルの昔なじみ。座る場所もないほど人が詰め込まれて、子どもの頃の記憶が、ざわざわといっしょくたに掘り返された。


 今は、同じ部屋なのに、まるで別の場所のようだ。


「とりあえず、座って。お茶いれてくるから」


 由美が台所に引っ込む。


 陽翔たちは、ちゃぶ台を囲んで腰を下ろした。


 ふと、柱の一角に目がいく。


 鉛筆で刻まれた、いくつもの線。


「身長のやつ、残ってるんだ」


 陽翔が立ち上がって近づくと、「はると」「りこ」「まほ」の字が並んでいた。


「うわ、字が黒歴史」


 璃子がのっそり立ち上がって、自分の名前の位置に手を当てる。


「ほら見て。この時点で、にぃにぃより成長速度早いさ」


「何の勝負してるわけ」


「ステータスの伸び具合」


「ゲームで言うな」


 真帆が笑いながら、自分の名前のところを指でなぞる。


「ツルばぁ、毎回線引くとき、すごい真剣だったよね」


「『ちゃんと立って。足、べたってつけて』って」


 陽翔も苦笑する。


「で、『背伸びしたらダメよ。今のあんたを見たいわけだからね』ってさ」


 その言い方を真似したつもりが、思った以上に似ていて、自分で少し驚いた。


 気づけば、三人とも一瞬だけ黙り込んでいた。


     ◆


「はい、どうぞ」


 由美が湯飲みを載せたお盆を持ってきて、ちゃぶ台の上に置く。


 湯気といっしょに、ほうじ茶の香りが広がった。


「おばぁの家だからって、あんまり遠慮しないでね。みんな、大きくなってからはあんまり泊まったことなかったでしょ」


「葬式のとき以来ですね」


 陽翔が言うと、由美は少しだけ目を伏せた。


「そうね。あのときは、ゆっくり話す余裕もなかったし」


 由美の視線が、ツルの写真に向かう。


「……今回は、ちゃんと落ち着いて使えばいいよ。おばぁも、そのつもりでこの家残したはずさ」


 言葉の調子は明るくしようとしているのに、指先がわずかに震えている。


 陽翔は、その揺れを見ないふりをした。


「由美さん」


 静かな声で、玉城が口を開いた。


「しばらくの間、この家を拠点にさせていただきます。北部の海の様子を見ながら、必要があれば備瀬の方でも動くことになると思うので」


「先生のほうからも、色々聞いてます」


 由美は小さくうなずく。


「詳しいことは……正直、よく分からないし、全部理解できる自信もないけど」


 一度、陽翔と璃子を順番に見てから、真帆と美琴にも視線を移した。


「でも、この子たちが何かしようとしてるのは分かるから。親としては、それを止めろって言えたら一番楽なんだろうけど……そうできる性格でもないさね」


 照れくさそうに笑う。


「だから、せめてご飯と寝る場所くらいは、ちゃんと用意しとく。危ないことするときは、ちゃんと帰るつもりで行きなさい」


「……うん」


 璃子が、少し鼻の奥を赤くしながらうなずいた。


「帰ってくる拠点があるって、強いバフですよ」


「その言葉遣い、由美さんの前では標準語にしな」


「意味は分かるから大丈夫よ」


 由美が笑い、場の空気が少し柔らかくなる。


     ◆


「荷物、先に部屋に置いておきなさい。客間はこっち。陽翔は昔使ってた部屋、まだそのまま空いてるから」


 由美に案内されて、廊下を歩く。


 陽翔の部屋だった六畳間は、カーテンの柄こそ変わっていたものの、部屋の広さも窓の場所も、記憶の中と同じだった。


 本棚の一番上には、子どもの頃に読み倒した図鑑がまだ残っている。背表紙は日焼けして、色が少し抜けていた。


 窓を開けると、フクギの葉擦れの音と、遠くの海の音が重なって聞こえてくる。


「……変わってないな」


 陽翔は小さく呟いた。


 この部屋で、何度も夏休みを過ごした。

 宿題をため込んで怒られ、昼寝をしては外に遊びに行き、夜になればツルに「眠る前の呼吸」を教えられた。


「ほら、ここ座って」


 ツルは畳の上に座らせて、陽翔の前に腰を下ろす。


「背中、ぴんって。肩、ぎゅって上げてから、ふーって落として」


 ツルの手が、自分の肩にぽんと触れる感覚が、まだ指先に残っている気がした。


「息、浅く吸って浅く吐くと、心までせわしくなるさ。波と一緒で、ゆったり吸って、ゆったり出す。な、数えてみて」


 あのとき教わったやり方は、今でもたまに思い出す。


(……今、ちゃんとできてないな)


 陽翔は、知らないうちに浅くなっていた自分の呼吸に気づいて、ゆっくり息を吐いた。


 胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ和らいだ気がする。


     ◆


 廊下に出ると、客間の前で璃子と真帆が言い合いをしていた。


「だから、ベッドじゃなくて布団ってだけでテンション上がるんだってば」


「何その基準」


「旅館感あるさ。しかもツルおばぁの家だよ? これはもう、全回復スポット」


「さっきから用語ブレてるから」


 客間には、二間続きの和室があった。手前の六畳に布団を三つ敷けば、真帆と美琴と璃子でちょうどいい。


「由美さん、いいんですか? 私たちまで押しかけて」


 美琴が遠慮がちに尋ねると、由美は首を振った。


「人がいるほうが、この家も喜ぶさ。ずっと空けっぱなしにしてたら、家のほうが寂しがるからね」


 その言葉に、陽翔は少しだけ救われた気がした。


 ツルがいなくなってからも、この家はちゃんと「誰かの帰り」を待つ場所であり続けている。


     ◆


「押し入れの中は、あとでみんなで片付けようね」


 由美がふすまを軽く叩く。


「おばぁの荷物、全部はまだ整理できてないから。写真とか古いものも、たぶん中にあるはずよ」


「写真……」


 陽翔の胸が、ちくりとした。


 葬式の日に一度見た、あの不思議な写真。

 若いツルと、自分によく似た青年と、黒猫が並んでいる一枚。


「あの桐の箱も、この家にあるはずだよね」


 真帆がぽつりと言う。


「うん。押し入れの、どこかに」


 璃子がふすまをじっと見る。


「イベントフラグ立ってる音がする……」


「ゲーム脳で押し入れ開けるのやめなさい」


 陽翔がそう言いかけたとき、足元を黒い影がすり抜けた。


 さっきの黒猫だ。


 猫はまっすぐ押し入れの前まで歩いていくと、鍵しっぽをゆっくり揺らしながら、ぴたりと座り込んだ。


 琥珀色と青の目が、ふすまの一点を見つめている。


 まるで、「ここだよ」と言っているみたいに。


 胸の奥が、またざわついた。


「押し入れ開けるのは、今日はやめとこうか」


 由美が、ふすまから少し離れるように一歩下がる。


「みんな、移動だけでも疲れたでしょ。荷物だけ置いたら、一回休みなさい。片付けと中の整理は、明日に回そう」


「……そうだね」


 陽翔は、猫から目を離せないままうなずいた。


 黒猫は一度ちらりとこちらを見て、またふすまの前に視線を戻す。


 押し入れの向こう側には、まだ見ていないツルの時間が、静かに積み重なっている。


 そこに手を伸ばした瞬間、自分たちの「今」も、もう少し違う方向へ動き出してしまう――そんな予感が、喉の奥に引っかかった。


 陽翔は、ふすまの前から目を離せないまま、ゆっくりと息を吐いた。


 明日、ここを開けたときに、どんなものが待っているのか。


 まだ誰も知らないままだった。

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