第24話 本島への線
ちゃぶ台の上に、空になった味噌汁椀が並んでいた。
昼前だというのに、ナミの家の座敷には、微妙な疲労感が漂っている。外からは波の音と、遠くのエンジン音。日常と非日常の境目みたいな音ばかりが、妙に耳についた。
「……頭、まだ痛い?」
真帆が、湯飲みを持ったまま陽翔のほうを見る。
「さっきまでよりマシ」
陽翔はこめかみを押さえた。
さっき洗面所で鼻血を止めてから、ずっと頭の奥がじんじんしている。マブイの流れを整えようとしても、どこかでひっかかって、ざらつく感覚が残っていた。
「にぃにぃ、さっき倒れたとき、普通にホラーだったからね」
璃子が、半分冗談、半分本気の顔で言う。
「影に引っ張られたのかと思った」
「引っ張られたのは、ほとんどマブイのほうだ」
玉城がため息をつく。
「見てるこっちの胃もキリキリしましたよ。年寄りにはつらいフィールドワークだ」
「先生、まだ三十代です」
美琴が小声でツッコむ。
「ナミさん、大丈夫なんですか?」
彼女の視線の先では、ナミが座敷の柱にもたれて、首筋を軽く揉んでいた。顔色はいつもより少し白い。それでも目の奥は、まだしっかりしている。
「ちょっと張り切りすぎたね」
そう言って、片目をつぶる。
「久しぶりに、この島のマブイをあちこちから借りたからさ。森の木も地面も、文句言いながら力貸してくれたよ」
「文句言うんですか、地面」
「言うさ。『またか』って感じでね」
ナミは笑ってから、すぐに真顔に戻った。
「でも、今回は本当に“またか”だよ。あんな黒い触手、戦の頃以来見てない」
座敷の空気が、すっと冷える。
誰も口を開かないうちに、ナミが続けた。
「それとね。ハルト」
「……はい」
「あんたのマブイの流れも、久しぶりに見る揺れ方してた」
陽翔の背筋に、冷たいものが走る。
「俺の、揺れ方?」
「うん」
ナミは、すっと陽翔を指さした。
「リコ引っ張ったとき、体は縄のこっち側にいるのに、マブイの流れだけ、先に飛んでた。普通はありえんよ」
真帆が、どきりとした顔をする。
「体より先に……?」
「昔、一度だけ、似たはたらき方を見たことがあるさ」
ナミは、ふっと視線を宙に泳がせた。
「影でも泉でもない、なんでもない島の日にね」
「なんでもない日?」
璃子が首をかしげる。
「ナミが、今のハルトぐらいの歳の頃さ。久高の道の真ん中で、隣の集落のおばぁが卵のカゴぶらさげて歩いてたわけ」
「卵?」
「島のニワトリのやつね。十何個もまとめて。『今日は贅沢するさー』ってニコニコしながら」
そこまではよくある光景だ。
「でも、そのおばぁ、石畳の継ぎ目で思いっきり足引っかけてね。『あ、こける』って思った瞬間……ツルさんのマブイの流れが、先に動いた」
「ツルおばぁが?」
陽翔の喉が鳴る。
「そう。ツルさんね、その頃もう結構な歳よ。ハルトたちみたいな若者じゃない。年の割に足腰はしっかりしてたけど、全力ダッシュなんて無茶さ」
ナミは、人差し指で空中に線を引く。
「なのにね。ナミの目には、その時だけ、ツルさんのマブイの流れが“先に一歩出た”ように見えたわけ」
「先に、一歩」
「体は道端に突っ立ってるのに、流れだけはおばぁの前までスッと滑っていく。そのあと、体がその流れに追いついた。気づいたときにはもう、こけかけのおばぁの腕つかんで、卵のカゴも下から支えてた」
ナミは、腕をさっと伸ばす仕草をする。
「卵はひとつも割れなかった。おばぁはケロッとして『危なかったさー、ありがとうね』って笑ってたけどね。ツルさんの歳で、あのタイミングと身のこなしは、本来ありえんさ」
「……」
陽翔は黙って聞いていた。
草の匂い。石畳。卵のカゴ。見たことのないはずの光景が、どこか懐かしいように頭に浮かぶ。
「そのときもね」
ナミは続けた。
「一本だったツルさんのマブイの流れが、瞬きする間だけ二つに割れてた。片方が“今”に残って、片方が“転びかけたあとの場所”まで先に行くみたいな揺れ方」
「時間が、伸びたとか……止まったとかじゃなくて?」
真帆が、研究者の癖で言葉を探す。
「ナミから見えたのは、“体”より“マブイ”のほうが早く動いた、ってことだけさ」
ナミは、肩をすくめた。
「普通、人のマブイの流れは、体と一緒に少しずつ前に進む。でもあの時と、さっきのハルトは違った。流れのほうが、一瞬だけ先に跳ねる。それが戻ってきたから、どっちも無事だった」
座敷に、静かなざわめきが走る。
「さっき、リコ引っ張ったときもね」
ナミは、陽翔を見る。
「影の触手に足取られて、“もう一歩出たら終わり”って瞬間。あんたのマブイの流れが、リコのほうに先に届いてた。体は縄のこっちなのに、流れだけ、少し先の位置に立ってた」
「……だから、あんなふうに時間が伸びたように感じたのか」
陽翔は、自分の呼吸を思い出す。
音が遠ざかったこと。赤い布が、ゆっくり揺れて見えたこと。リコの足首に棘が立つ直前の瞬間が、やたら長く感じたこと。
「あれは、俺だけの錯覚じゃなかったんだな」
「錯覚にしといたほうが楽なときもあるけどね」
ナミが苦笑する。
「けど、ツルさんのときも、今日も、ナミの目にははっきり見えた。そういう揺れ方するマブイは、この島でそう何人もいないさ」
真帆が、心配そうに陽翔を見た。
「それって、良いほうなんですか? 悪いほうなんですか?」
「……どっちとも言えん」
ナミは、お茶をひと口飲んでから答えた。
「ああいう流れは、泉の側と相性がいいさ。下手にあっち側に足突っ込んだら、二度と戻ってこれん。でも、うまく扱えたら、“いざというときに先に手が届く人”になる」
その言い方に、座敷の空気が少しだけ重くなる。
「だからハルト」
ナミは、陽翔をじっと見つめた。
「さっきみたいな揺れ方するときは、自分でも分かるね?」
「ああ……なんとなく」
「そのときは、欲張らんこと。全部助けようとすると、自分の流れから先に燃え尽きる。さっきの鼻血と頭痛は、その予告みたいなもんさ」
陽翔は、苦笑するしかなかった。
「はい。……もうあんな無茶はしない。たぶん」
「“たぶん”つけた」
璃子がじとっと睨む。
「にぃにぃ、そういうとこだよ。影より先に、こっちが胃に穴あく」
「誰のせいで飛び込む羽目になったと思ってるんだ」
「ごめんって言ってるじゃん!」
声を張り上げたあとで、璃子は少し俯いた。
「でも……ありがと。さっき、本当に、にぃにぃじゃなかったら、行ってた気がする」
その素直な言葉に、誰も茶化せなかった。
少し空気が落ち着いたところで、玉城が咳払いを一つした。
「で、本題に戻ってもいいでしょうか」
「さっきまでの話、十分本題でしたけどね」
真帆がぼそっと言う。
「いや、もうひとつのほうの本題ですよ。泉が“ここだけの話”じゃなくなってきてる件」
玉城はスマホを取り出し、画面をスライドさせた。
「実はですね。昨日の夜、県庁の同窓からメールが来まして」
「あの、新垣って人?」
真帆が眉をひそめる。
「はい。大学の同期です。学生のころは、ゼミの飲み会でいつも説教されてた側です」
「説教されてた側なんだ」
璃子が感心したようにうなずく。
「新垣は、今“霊災対策課”とかいう、なんだか物騒な部署にいるそうです。表向きには『自然災害に関する調査・研究』ってなってますけど」
「その言い方、絶対裏があるやつ」
美琴が小さく呟く。
「で、その新垣から、“最近、本島北部の海で変な光景が増えている”と」
玉城は、画面を皆に向けた。
そこには、夜の海を写した写真がいくつか並んでいる。波打ち際だけが薄く光って見え、黒い筋が海岸線に沿って、じわりと伸びている。久高の森で見た黒い滲みを、そのまま海に溶かしたような色だ。
「……これ」
陽翔の喉が詰まる。
「見覚えある色でしょ」
玉城が苦い顔をする。
「“公式には潮目の変化や夜光虫の一種として説明する方針”だそうですが、内部では『昭和の久高島案件に似ている』って噂になってるらしいです」
「昭和の久高島……」
ナミが、目を細めた。
「ツルさんたちの頃の話だね」
「そうです。ナミさんから聞いたあの頃の話、僕なりにレポートにまとめて新垣に渡したことがあって」
「先生、勝手に何してるんですか」
真帆がジト目になる。
「研究者なので! 聞いた話はつい、どこかに共有したくなる病気なんですよ!」
「その病気、ちょっとは自覚して」
璃子が容赦なく刺す。
「ただ、新垣いわく“今のところ久高島への公式介入は見送られている”そうです。理由は“島に詳しい現地協力者が既に動いているから”」
そこで玉城は、ナミを見る。
「つまり、具志堅さんのことですね」
「勝手に現地協力者扱いされてるね、わん」
ナミは肩をすくめた。
「でも、言い方変えれば、“お前たちだけでなんとかしとけ”ってことさ。久高だけ見てても、海は繋がってるのに」
「本島北部の海って、どのへんなんですか」
陽翔が、無意識に身を乗り出す。
「具体的な地名は書いてなかったですが……」
玉城は、一瞬だけ言葉を濁した。
「“本部半島側でも報告がある”とは書いてました」
「……本部」
陽翔のマブイの流れが、ざわりと揺れる。
頭の中に、あの浜辺が浮かぶ。ツルの家の前の海。幼い頃、草笛を吹いて遊んだ場所。あそこにも、黒い水が近づいているのかもしれない。
そのとき、ちゃぶ台の上のスマホが震えた。
由美からだ。
陽翔は、胸のざわつきをごまかす暇もなく、通話ボタンを押した。
由美の声は、いつもより少し硬かった。
『あんた、今、久高なんだってね』
「うん。どうした。何かあった?」
『……今日の朝からね。海の色が、ちょっと変なんだわけ』
由美は、外に出たのだろう。風の音と、波の音が電話越しに聞こえてくる。
『いつもの浜なんだけどよ。なんか、ところどころ、夜の色が残ってるみたいな濃い青黒さでね。しかも、波の端っこだけ光って見えるときがあるわけさ』
「光る?」
『夜でもないのにだよ。写真送るから見てみて』
通話を切る前に、写真が数枚送られてきた。
陽翔は画面を開く。
浅瀬の砂地の上に、黒い筋のようなものが走っている。その縁だけ、薄く青白く光っていた。久高の森で見た黒い滲みと、あまりにもよく似ている。
「……ツルおばぁの家の前だ」
思わず、声に出ていた。
真帆も、画面を覗き込んで息をのむ。
「やっぱり、来てるんだ。こっちからも、向こうからも」
「久高の泉から溢れた影が、土と海を伝って、本島のほうまで伸びてるってことさね」
ナミが、低い声で言う。
「線、じゃなくて。黒い水の筋が、あちこちで顔出してる感じ」
「本島側にも“ここまで”が必要ってことですね」
美琴が、小さく拳を握る。
「久高だけ押さえてても、海の先で広がってたら意味がない」
「ツルの家は、“泉の影がいちばん繋がりやすい場所”になってるかもしれない」
ナミが、陽翔のほうを見る。
「あの人が生涯かけて守ってきた場所だよ。泉と喧嘩した人が、最後まで座ってた縁側」
陽翔の喉が、きゅっと締まる。
ツルが座っていた縁側。草笛の音。黒猫の影。桐箱。全部が一気に胸の中に押し寄せてきた。
「……一回、本島に戻ろう」
陽翔は、自分でも驚くほどはっきりした声で言った。
「久高の泉を見るのは、もちろん大事だ。でも、ツルおばぁの家の前の海がああなってるなら、そっちも見なきゃいけない」
「私もそう思います」
真帆が、すぐに続く。
「結のマブイ的にも……ツルおばぁの家と、この久高の泉のあいだに、変なゆらぎが出てきてるのが分かる。どっちかだけ見てても、線が片方に寄りすぎる感じ」
「ナミも、反対はしないさ」
ナミは、お茶を飲み干した。
「泉は逃げん。森の“ここまで”も、今のところは持ちこたえてる。だったら一回、本島の様子を自分の目とマブイで確かめておいたほうがいい」
「船の時間、調べます」
美琴が、すっと立ち上がる。
「久高から本島に渡る最終は逃したくないですし」
「なんか、急に現実的な話になったな」
玉城が頭をかく。
「フェリーの時刻表と、霊災対策課と、泉とツルおばぁ……スケール感の違いで頭がおかしくなりそうだ」
「先生、頭がおかしくなるのは今に始まったことじゃ……」
「リコちゃん、そこはオブラートに包もう」
掛け合いに、わずかに笑いが戻る。
それでも、陽翔の胸のマブイの流れは、静かにざわめき続けていた。
久高の森の黒い滲み。
備瀬の浜の黒い筋。
ツルが卵を守った石畳。
どれも違う場所なのに、同じ黒と、同じ揺れ方をしている気がする。
(久高の泉と、備瀬の家が……)
頭の中で、二つの場所が一本の線で結ばれる。
その線の上を、黒い水がじわじわと這っている。
そんなイメージが、どうしても頭から離れなかった。




