第23話 観光客と黒い影(後)
岩壁に走ったひびが、一気に広がった。
ゴキッ、と嫌な音を立てて、石の一部が内側から押し割られる。
「来る!」
玄武が短く叫ぶ。
黒い影に覆われた男が、岩の欠片を踏み砕きながら、一歩、こちら側に体を乗り出した。
関節の角度が、人間のものとどこか違う。影が後ろに残像を引きずり、腕の周りには黒い触手が絡みついている。
その気配に、陽翔は思わず息をのんだ。
縄のすぐ手前まで一歩出ると、シャツの胸ポケットにそっと指先を当てる。そこには、ツルおばぁから託された白い石――神石が入っていた。
布越しなのに、その場所だけ、ひやりとした冷たさが肌に染みる。体の中をめぐる自分のマブイの流れが、その冷たさに触れるたび、少しだけ輪郭を取り戻すような感覚があった。
「下がって!」
ナミが叫んだときには、もう男の足は岩の檻を半分抜けていた。
その目は、完全に何か別のものに飲み込まれている。ナミには、彼のマブイの流れが、ほとんど泉のほうへ持っていかれているのが見えた。
(八割……いや、それ以上か)
体の中を巡る光は、豆粒ほどしか残っていない。そこに無理やり手を伸ばせば、残りの光ごと、全部壊してしまう。
「ナミさん!」
真帆の声が飛ぶ。
「助けられますか!」
「……この人は、もう戻らん」
ナミは、奥歯を噛みしめた。
彼女の視線は、男の後ろ――まだ尻もちをついたままの女と、腰を抜かしたもう一人の男へと移る。
その二人のマブイは、まだ半分以上こちら側にある。縁が黒く曇り始めているが、流れそのものまでは持っていかれていない。
「助けるなら、あっち二人。全部には手を伸ばせん」
ナミは地面に手をついた。
指先で、大地のマブイの流れをすくい取る。
土の下を這う柔らかな光。木の根から幹へと上がっていく、細い光の筋。久高島全体を巡る、静かな呼吸。
それを自分のマブイの流れに繋ぎ替える。
「結のマブイ――」
ナミの体を巡る光が、一瞬、強くなった。
胸から指先へ、そして地面へ。そこからまた、大地と木々へ。
無数の光の糸が、一斉に立ち上がる。
「魂環返し《たまわがえし》!」
宣言と同時に、光の糸が走った。
土から、木から、岩から立ち上がった光が、女ともう一人の男のマブイへ、そして縄に巻かれた赤い布へと伸びていく。
島のマブイと、二人のマブイと、境界の印を、すべて一本の環のようにつなぐ光の網。
黒い触手が、それを押し返そうと暴れた。
縄の向こう側の土が、びりびりと震える。
「……ナミ、負荷が大きい」
玄武が、歯を食いしばる。
「地のマブイで、支える」
「あんたは足を押さえて」
ナミが短く返すと、玄武は、暴れ続ける黒い滲みの手前に拳を叩きつけた。
「地のマブイ・岩牢!」
先ほどより細い岩の柱が、再び男の足もとに突き上がる。今度は完全に抜け出されないよう、膝のあたりまで石で固定する形だ。
男の動きが、一瞬だけ鈍った。
その隙に、光の糸が二人の観光客の体の中へ深く潜り込む。
ナミの目には、二人の体を巡るマブイの流れが、影の黒に引きずられながらも、少しずつ島のほうへ戻されていくのが見えていた。
「戻るほうに、意識を寄せて!」
ナミの声が響く。
「自分の“今”を思い出しなさい。ここが、あんたたちの居場所さ」
女が、震えるまぶたをこじ開ける。
その視界には、森ではなく、自分のアパートの一室や、いつもの通勤電車や、家族と食べた夕飯の光景が、一瞬だけよぎった。
もう一人の男の頭の奥には、コンビニの明かりや、職場のモニターの光が浮かぶ。
それらの断片が、それぞれのマブイの流れに絡みつき、“今ここ”へとつなぎ止める錘になった。
黒い影が、それを引き剥がそうとする。
光の糸がきしむ。
縄に巻かれた赤い布が、ばさばさと激しく揺れた。
「ナミさん!」
美琴が叫ぶ。
「さっきより、光……増えてます!」
彼女の目には、光の糸がどんどん太くなっていくのが見えた。大地と木々のマブイが、ナミを経由して二人の中へ送り込まれ、影の冷たさを外側から押し返している。
「にぃにぃ!」
璃子が、陽翔の袖をぎゅっとつかむ。
「リーダーの人、やばい顔してる!」
視線の先では――
黒い影に覆われた先頭の男が、岩の檻の中で身をよじっていた。
マブイの流れは、ほとんど完全に黒に飲まれている。
ナミの目には、彼の中に残っている光が、もはや豆粒ほどしかないのがはっきり見えていた。
(これ以上は、引き戻せん)
それでも影は、彼の体を使おうとする。
岩の隙間から伸びた黒い腕が、今度はナミと玄武のほうへ向かってきた。その動きは、さっきまでよりさらに速い。
「離れて!」
ナミが叫ぶ。
だが、黒い腕は別の方向へ跳ねた。
さっき光の糸でつかみそこねた、まだマブイの輪に入っていない相手――
玉城のほうへ。
「え、ちょ、待っ――」
玉城の悲鳴が、森に響いた。
黒い腕と触手が、彼の喉を狙って伸びる。
「先生!」
陽翔の視界が、再びきしんだ。
音が、薄くなる。
黒い腕の軌道。
玉城の喉元。
その先の岩壁。
このままだと――頭のどこかが、「最悪のパターン」を見せてくる。
岩の角に、玉城の頭が叩きつけられ、嫌な音がする未来。
『左。肩を押せ』
あの女の声が、また聞こえた。
『お前の腕一本で、ルートは変えられる』
「っ……!」
陽翔は、考えるより早く動いた。
時間のすき間を縫うように、玉城の横に滑り込む。
黒い腕が届くギリギリの位置で、玉城の肩を全力で横に弾いた。
次の瞬間。
黒い腕が、玉城の頬をかすめ、その先の岩壁を深く抉った。
石の欠片が飛び散り、土が舞う。
時間が、現実の速度に戻る。
頭の芯が、焼けるように痛くなった。
視界の端が暗くなり、膝から力が抜ける。
「は、はると!」
真帆が支えに入る。
「ちょっと、鼻血出てる!」
「……マジか」
璃子が、青ざめた声をあげた。
陽翔は、自分の鼻の下を雑に拭った。指先が赤く染まる。
「平気だ。今は、そっちのほうが先」
彼が顎で示した先では――
ナミの光の糸が、女ともう一人の男をしっかりと囲っていた。
影の黒が、表面から少しずつ剥がれ落ちていく。
代わりに、大地と木々から流れ込んだ光が、二人のマブイの流れを塗り直していく。
「……!」
女が、息を大きく吸い込んだ。
もう一人の男も、咳き込むように息を吐く。
目の焦点が、ゆっくりとこちらに戻ってきた。
「よし、こっちは戻った」
ナミが、小さく息を吐く。
その顔色は、さすがに少し青い。島中のマブイと自分のマブイを流し込んだ反動が、体のあちこちをじんじんと痺れさせていた。
「ナミ」
玄武が短く呼ぶ。
黒い影に覆われた男が、まだ岩の檻の中で暴れている。
目は完全に黒。
口元には、人間だった頃の癖も、迷いもない。
「……やるしかないね」
ナミは、静かに立ち上がった。
「これ以上、影に使われる前に」
「にぃにぃ」
璃子が、陽翔の袖を握る手に力を込めた。
「助からないの、あの人」
「ああ」
陽翔は、唇を噛んだ。
ナミの目に映っているものが、なんとなく自分にも伝わってくる気がする。
ほとんど泉に持っていかれたマブイの流れ。
ここで無理に引っ張れば、きっと全部壊れてしまう。
「せめて、これ以上誰かのマブイを引っ張る道具にされないように」
ナミは、地面に膝をつき、手のひらをそっと土に押し当てた。
玄武も、隣に腰を落とす。
「地、借りるぞ」
「ああ」
二人のマブイの流れが、一瞬だけ太くつながる。
大地のマブイと、結のマブイと、地のマブイ。
それらが、岩の檻の中に向けて、ひとつの流れを形作った。
「地のマブイ・岩牢」
「結のマブイ・魂環返し《たまわがえし》」
重なる声。
岩の柱が、内側へわずかに締まった。
黒い影が、石とぶつかり合って、きしきしと不快な音を立てる。
そして――
男の体から、ふっと力が抜けた。
黒い煙のようなものが、皮膚の表面から抜け出し、宙に溶けていく。
それは、土地の影に戻ることも、空に昇ることもなく、どこか見えない隙間に吸い込まれていった。
ナミには、男の中に残ったマブイの光が、豆粒みたいに小さくなっているのが見えた。
生きてはいる。
けれど――もう、自分の力だけで歩いて戻ってくることはないだろう。
森に、静けさが戻る。
ただ、全員の呼吸と心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……生きて、ますか」
美琴が、おそるおそる問う。
「体はね」
ナミが、静かに答える。
「マブイはほとんど泉に持っていかれた。戻って来んと覚悟しといたほうがいい」
女ともう一人の男は、縄のこちら側でぐったりと座り込んでいた。
足首にまとわりついていた黒さは薄れ、肌にはうっすらと赤みが戻っている。マブイの流れも、まだ乱れてはいるが、半分以上はこちら側に戻ってきていた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
女が、震える声で何度も繰り返す。
「冗談だと思ってて……こんな……」
「謝るなら、まずはあの人にだね」
ナミが、岩の中の男に視線を向ける。
「港まで送る。診療所と県警にも話さんといけない」
「俺も行きます」
玉城が、深く息を吸った。
「こういう現場見た以上、学者としても黙ってられませんから」
「にぃにぃ」
璃子が、改めて陽翔の顔を覗き込む。
「さっきの、なに? 二回くらい世界がスロー再生になってたんだけど」
「……さあな」
陽翔は、頭痛と吐き気をごまかすように笑った。
「たまたま、体が勝手に動いただけだろ」
「たまたま二回は、たまたまじゃないんだよなあ」
玉城が、頬をさすりながらぼそっと言う。
「さっきも、タクシーにひかれかけた人助けるレベルだったぞ」
「例えが雑だ」
陽翔は突っ込みながらも、視界の端でナミの視線を感じた。
ナミは、じっと陽翔を見つめている。
彼の体を巡るマブイの流れは、他の誰とも違う揺れ方をしていた。今の一瞬、どこか“別の流れ”に触れて戻ってきた跡が、うっすらと残っている。
(やっぱり、戦の頃のツルと似てるね)
心の中だけでそう呟き、ナミは視線を外した。
「今日は、ここまで」
ナミが、きっぱりと言う。
「これ以上、森の奥には入らん。こっちのマブイが持たんさ」
「……はい」
真帆が、短くうなずいた。
彼女の結のマブイにも、さっきの戦いのひずみが残っている。繋ぎかけて切らざるをえなかった線。そのきしみが、体中を鈍く痛ませていた。
「一回、ナミの家で落ち着いてから、ちゃんと話そう」
玉城が、深く息を吐く。
「久高だけの問題じゃないってことは、もう誰の目にも明らかですから」
森を出る道のりは、来るときよりずっと長く感じた。
陽翔の頭の中では、さっきの女の声が、まだ微かに反響している。
『左。肩を押せ』
『そのままだと、妹が刺さる』
あれが誰の声なのか、今はまだ分からない。
ただ一つだけ分かるのは――
あの声に頼り続ければ、いつか本当に戻れなくなる。
乾きかけた鼻血と、頭の奥の鈍い痛みが、それを無言で告げていた。




