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マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
23/31

第23話 観光客と黒い影(後)

 岩壁に走ったひびが、一気に広がった。


 ゴキッ、と嫌な音を立てて、石の一部が内側から押し割られる。


「来る!」


 玄武が短く叫ぶ。


 黒い影に覆われた男が、岩の欠片を踏み砕きながら、一歩、こちら側に体を乗り出した。


 関節の角度が、人間のものとどこか違う。影が後ろに残像を引きずり、腕の周りには黒い触手が絡みついている。


 その気配に、陽翔は思わず息をのんだ。


 縄のすぐ手前まで一歩出ると、シャツの胸ポケットにそっと指先を当てる。そこには、ツルおばぁから託された白い石――神石が入っていた。


 布越しなのに、その場所だけ、ひやりとした冷たさが肌に染みる。体の中をめぐる自分のマブイの流れが、その冷たさに触れるたび、少しだけ輪郭を取り戻すような感覚があった。


「下がって!」


 ナミが叫んだときには、もう男の足は岩の檻を半分抜けていた。


 その目は、完全に何か別のものに飲み込まれている。ナミには、彼のマブイの流れが、ほとんど泉のほうへ持っていかれているのが見えた。


(八割……いや、それ以上か)


 体の中を巡る光は、豆粒ほどしか残っていない。そこに無理やり手を伸ばせば、残りの光ごと、全部壊してしまう。


「ナミさん!」


 真帆の声が飛ぶ。


「助けられますか!」


「……この人は、もう戻らん」


 ナミは、奥歯を噛みしめた。


 彼女の視線は、男の後ろ――まだ尻もちをついたままの女と、腰を抜かしたもう一人の男へと移る。


 その二人のマブイは、まだ半分以上こちら側にある。縁が黒く曇り始めているが、流れそのものまでは持っていかれていない。


「助けるなら、あっち二人。全部には手を伸ばせん」


 ナミは地面に手をついた。


 指先で、大地のマブイの流れをすくい取る。


 土の下を這う柔らかな光。木の根から幹へと上がっていく、細い光の筋。久高島全体を巡る、静かな呼吸。


 それを自分のマブイの流れに繋ぎ替える。


「結のマブイ――」


 ナミの体を巡る光が、一瞬、強くなった。


 胸から指先へ、そして地面へ。そこからまた、大地と木々へ。


 無数の光の糸が、一斉に立ち上がる。


「魂環返し《たまわがえし》!」


 宣言と同時に、光の糸が走った。


 土から、木から、岩から立ち上がった光が、女ともう一人の男のマブイへ、そして縄に巻かれた赤い布へと伸びていく。


 島のマブイと、二人のマブイと、境界の印を、すべて一本の環のようにつなぐ光の網。


 黒い触手が、それを押し返そうと暴れた。


 縄の向こう側の土が、びりびりと震える。


「……ナミ、負荷が大きい」


 玄武が、歯を食いしばる。


「地のマブイで、支える」


「あんたは足を押さえて」


 ナミが短く返すと、玄武は、暴れ続ける黒い滲みの手前に拳を叩きつけた。


「地のマブイ・岩牢がんろう!」


 先ほどより細い岩の柱が、再び男の足もとに突き上がる。今度は完全に抜け出されないよう、膝のあたりまで石で固定する形だ。


 男の動きが、一瞬だけ鈍った。


 その隙に、光の糸が二人の観光客の体の中へ深く潜り込む。


 ナミの目には、二人の体を巡るマブイの流れが、影の黒に引きずられながらも、少しずつ島のほうへ戻されていくのが見えていた。


「戻るほうに、意識を寄せて!」


 ナミの声が響く。


「自分の“今”を思い出しなさい。ここが、あんたたちの居場所さ」


 女が、震えるまぶたをこじ開ける。


 その視界には、森ではなく、自分のアパートの一室や、いつもの通勤電車や、家族と食べた夕飯の光景が、一瞬だけよぎった。


 もう一人の男の頭の奥には、コンビニの明かりや、職場のモニターの光が浮かぶ。


 それらの断片が、それぞれのマブイの流れに絡みつき、“今ここ”へとつなぎ止める錘になった。


 黒い影が、それを引き剥がそうとする。


 光の糸がきしむ。


 縄に巻かれた赤い布が、ばさばさと激しく揺れた。


「ナミさん!」


 美琴が叫ぶ。


「さっきより、光……増えてます!」


 彼女の目には、光の糸がどんどん太くなっていくのが見えた。大地と木々のマブイが、ナミを経由して二人の中へ送り込まれ、影の冷たさを外側から押し返している。


「にぃにぃ!」


 璃子が、陽翔の袖をぎゅっとつかむ。


「リーダーの人、やばい顔してる!」


 視線の先では――


 黒い影に覆われた先頭の男が、岩の檻の中で身をよじっていた。


 マブイの流れは、ほとんど完全に黒に飲まれている。


 ナミの目には、彼の中に残っている光が、もはや豆粒ほどしかないのがはっきり見えていた。


(これ以上は、引き戻せん)


 それでも影は、彼の体を使おうとする。


 岩の隙間から伸びた黒い腕が、今度はナミと玄武のほうへ向かってきた。その動きは、さっきまでよりさらに速い。


「離れて!」


 ナミが叫ぶ。


 だが、黒い腕は別の方向へ跳ねた。


 さっき光の糸でつかみそこねた、まだマブイの輪に入っていない相手――


 玉城のほうへ。


「え、ちょ、待っ――」


 玉城の悲鳴が、森に響いた。


 黒い腕と触手が、彼の喉を狙って伸びる。


「先生!」


 陽翔の視界が、再びきしんだ。


 音が、薄くなる。


 黒い腕の軌道。


玉城の喉元。


 その先の岩壁。


 このままだと――頭のどこかが、「最悪のパターン」を見せてくる。


 岩の角に、玉城の頭が叩きつけられ、嫌な音がする未来。


『左。肩を押せ』


 あの女の声が、また聞こえた。


『お前の腕一本で、ルートは変えられる』


「っ……!」


 陽翔は、考えるより早く動いた。


 時間のすき間を縫うように、玉城の横に滑り込む。


 黒い腕が届くギリギリの位置で、玉城の肩を全力で横に弾いた。


 次の瞬間。


 黒い腕が、玉城の頬をかすめ、その先の岩壁を深く抉った。


 石の欠片が飛び散り、土が舞う。


 時間が、現実の速度に戻る。


 頭の芯が、焼けるように痛くなった。


 視界の端が暗くなり、膝から力が抜ける。


「は、はると!」


 真帆が支えに入る。


「ちょっと、鼻血出てる!」


「……マジか」


 璃子が、青ざめた声をあげた。


 陽翔は、自分の鼻の下を雑に拭った。指先が赤く染まる。


「平気だ。今は、そっちのほうが先」


 彼が顎で示した先では――


 ナミの光の糸が、女ともう一人の男をしっかりと囲っていた。


 影の黒が、表面から少しずつ剥がれ落ちていく。


 代わりに、大地と木々から流れ込んだ光が、二人のマブイの流れを塗り直していく。


「……!」


 女が、息を大きく吸い込んだ。


 もう一人の男も、咳き込むように息を吐く。


 目の焦点が、ゆっくりとこちらに戻ってきた。


「よし、こっちは戻った」


 ナミが、小さく息を吐く。


 その顔色は、さすがに少し青い。島中のマブイと自分のマブイを流し込んだ反動が、体のあちこちをじんじんと痺れさせていた。


「ナミ」


玄武が短く呼ぶ。


 黒い影に覆われた男が、まだ岩の檻の中で暴れている。


 目は完全に黒。


 口元には、人間だった頃の癖も、迷いもない。


「……やるしかないね」


 ナミは、静かに立ち上がった。


「これ以上、影に使われる前に」


「にぃにぃ」


 璃子が、陽翔の袖を握る手に力を込めた。


「助からないの、あの人」


「ああ」


 陽翔は、唇を噛んだ。


 ナミの目に映っているものが、なんとなく自分にも伝わってくる気がする。


 ほとんど泉に持っていかれたマブイの流れ。


 ここで無理に引っ張れば、きっと全部壊れてしまう。


「せめて、これ以上誰かのマブイを引っ張る道具にされないように」


 ナミは、地面に膝をつき、手のひらをそっと土に押し当てた。


 玄武も、隣に腰を落とす。


「地、借りるぞ」


「ああ」


 二人のマブイの流れが、一瞬だけ太くつながる。


 大地のマブイと、結のマブイと、地のマブイ。


 それらが、岩の檻の中に向けて、ひとつの流れを形作った。


「地のマブイ・岩牢がんろう


「結のマブイ・魂環返し《たまわがえし》」


 重なる声。


 岩の柱が、内側へわずかに締まった。


 黒い影が、石とぶつかり合って、きしきしと不快な音を立てる。


 そして――


 男の体から、ふっと力が抜けた。


 黒い煙のようなものが、皮膚の表面から抜け出し、宙に溶けていく。


 それは、土地の影に戻ることも、空に昇ることもなく、どこか見えない隙間に吸い込まれていった。


 ナミには、男の中に残ったマブイの光が、豆粒みたいに小さくなっているのが見えた。


 生きてはいる。


 けれど――もう、自分の力だけで歩いて戻ってくることはないだろう。


 森に、静けさが戻る。


 ただ、全員の呼吸と心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……生きて、ますか」


 美琴が、おそるおそる問う。


「体はね」


 ナミが、静かに答える。


「マブイはほとんど泉に持っていかれた。戻って来んと覚悟しといたほうがいい」


 女ともう一人の男は、縄のこちら側でぐったりと座り込んでいた。


 足首にまとわりついていた黒さは薄れ、肌にはうっすらと赤みが戻っている。マブイの流れも、まだ乱れてはいるが、半分以上はこちら側に戻ってきていた。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 女が、震える声で何度も繰り返す。


「冗談だと思ってて……こんな……」


「謝るなら、まずはあの人にだね」


 ナミが、岩の中の男に視線を向ける。


「港まで送る。診療所と県警にも話さんといけない」


「俺も行きます」


 玉城が、深く息を吸った。


「こういう現場見た以上、学者としても黙ってられませんから」


「にぃにぃ」


 璃子が、改めて陽翔の顔を覗き込む。


「さっきの、なに? 二回くらい世界がスロー再生になってたんだけど」


「……さあな」


 陽翔は、頭痛と吐き気をごまかすように笑った。


「たまたま、体が勝手に動いただけだろ」


「たまたま二回は、たまたまじゃないんだよなあ」


 玉城が、頬をさすりながらぼそっと言う。


「さっきも、タクシーにひかれかけた人助けるレベルだったぞ」


「例えが雑だ」


 陽翔は突っ込みながらも、視界の端でナミの視線を感じた。


 ナミは、じっと陽翔を見つめている。


 彼の体を巡るマブイの流れは、他の誰とも違う揺れ方をしていた。今の一瞬、どこか“別の流れ”に触れて戻ってきた跡が、うっすらと残っている。


(やっぱり、戦の頃のツルと似てるね)


 心の中だけでそう呟き、ナミは視線を外した。


「今日は、ここまで」


 ナミが、きっぱりと言う。


「これ以上、森の奥には入らん。こっちのマブイが持たんさ」


「……はい」


 真帆が、短くうなずいた。


 彼女の結のマブイにも、さっきの戦いのひずみが残っている。繋ぎかけて切らざるをえなかった線。そのきしみが、体中を鈍く痛ませていた。


「一回、ナミの家で落ち着いてから、ちゃんと話そう」


 玉城が、深く息を吐く。


「久高だけの問題じゃないってことは、もう誰の目にも明らかですから」


 森を出る道のりは、来るときよりずっと長く感じた。


 陽翔の頭の中では、さっきの女の声が、まだ微かに反響している。


『左。肩を押せ』


『そのままだと、妹が刺さる』


 あれが誰の声なのか、今はまだ分からない。


 ただ一つだけ分かるのは――


 あの声に頼り続ければ、いつか本当に戻れなくなる。


 乾きかけた鼻血と、頭の奥の鈍い痛みが、それを無言で告げていた。

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