第22話 観光客と黒い影(前)
翌朝の久高島は、妙に静かだった。
ナミの家のちゃぶ台に、味噌汁と焼き魚と島豆腐が並ぶ。昨日より質素でも、ちゃんと湯気のある朝ご飯だ。
「リコ、足、どうね」
ナミが味噌汁をすすりながら、ちらりと璃子の足もとを見る。
「見た目はノーダメっすよ」
璃子は、靴下の上から足首をくるりと回してみせた。
「ただ、アイス食べ過ぎたあとみたいな、変な冷たさはちょっと残ってる感じ」
「たとえが雑なんだよ」
陽翔は、魚の骨を外しながらため息をつく。
「でも、昨日より顔色はだいぶマシだ」
「にぃにぃが引っ張ってくれたおかげだからね」
璃子は、いつもの調子を取り戻したように笑う。
陽翔は、その笑いをひとまず確認してから、自分のマブイの流れに意識を落とした。
頭の奥から足の先まで、体の中をめぐる、見えない川。
昨日、影の触手に引っ張られたときに一度ぐしゃぐしゃにされたその流れは、どうにかひとつのマブイの流れとして、体中を巡ろうとしている。
ただ、ところどころに鈍い痛みが残っていた。特に、頭の芯と目の奥。
(昨日の、あれのせいか)
時間が伸びた感覚。
女の声。
あの瞬間のあと、視界がぐらついて、鼻の奥に鉄の味が広がった。誰にも気づかれないように袖でぬぐった鼻血の感触を、まだはっきり覚えている。
「ハルト」
真帆が、隣から小声で覗き込む。
「顔、ちょっと青いよ。無理しないでって、昨日リコに言ってた側じゃなかった?」
「寝起きが悪いだけだ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
言い張ると、向かいの璃子がじとっとした目で見てきた。
「にぃにぃが“ほんとに”って二回言うとき、大体ほんとじゃないんだよなあ」
「統計取るな。黙って食え」
ちゃぶ台の端では、玉城が新聞をたたみながら、苦い顔をしている。
「いやあ……昨日の黒い触手思い出すと、朝から胃がキリキリしますね」
「先生、何もしてないのに胃だけ削れてません?」
「精神的ダメージってやつだよ」
「先生のメンタルのライフ、紙装甲すぎる」
軽口が飛ぶ中、ナミは湯飲みを置き、みんなの顔を見回した。
「今日も、森に行くよ」
「やっぱり行くんですね」
美琴が、箸を止めて顔を上げる。
「昨日、あんなことがあったのに」
「昨日、あんなことがあったからさ」
ナミの目は、いつものゆるさを消していた。
「ツルさんが昔、泉の口を封じた御嶽がある。今の黒い水は、そこから溢れる影が土を伝って顔出してる。昨日の場所も、そのひとつ」
陽翔の体を巡るマブイの流れが、かすかに震えた。
「ツルおばぁが封じた、跡……」
「そう」
ナミは、ちゃぶ台を指先でとん、と叩く。
「昨日見た黒い滲みは、泉の力の末端みたいなもんさ。あれくらいなら、まだ弱い。けど、何も知らん人がうっかり踏んだら、それだけでマブイを影に浸食されて、向こう側へぐいっと引き込まれる」
座敷の空気が、じわりと冷えた。
「体はここに残るのに、マブイは影に持っていかれる。外から見たら、“ちょっと様子がおかしくなった”ぐらいで済むかもしれん。でも、マブイの半分以上を影に引っ張られたら、引き戻すのは難しい」
「昨日のリコちゃんは……」
美琴が、不安そうに璃子を見る。
「足先、かすったぐらいさ」
ナミは、璃子の足首に視線を落とした。
ナミの目には、璃子の体を巡るマブイが、うっすらと光の流れになって見える。その表面に、かすかな影のノイズがまとわりついているが、深くは食い込んでいない。
「ゆいのマブイの使い手にはね、人のマブイがどれくらい影に浸食されてるか、なんとなく色みたいに見えるさ。リコは、縁がちょっと曇ったぐらい。まだちゃんと戻れる」
「マブイを“色”で……」
真帆が、小さく息をのむ。
「昨日はそれどころじゃなくて、全然分かってませんでした」
「昨日のは、ツルさんの古い結び目と、島のマブイと、わんの力、たまたま全部が上手い具合に噛み合っただけさ」
ナミは、そこで一拍置いた。
「でも、あれを毎回あてにしてたら、そのうち誰かが沈む。だから、森の中の“ここまで”を、もっと分かりやすくしておかんとね」
「観光客……ですよね」
玉城が、渋い顔になる。
「最近、久高もオーバーツーリズム気味って聞きました」
「そう」
ナミは、ため息をついた。
「島の子は、小さい頃から“ここから先は行っちゃダメ”って言われて育つさ。体が覚えてるから、足が勝手に止まる。でも、最近増えた本島や内地の観光客は、その声を一度も聞いてない」
「地図アプリと“映えスポット”だけで動いてる人たちか……」
真帆が眉をひそめる。
「泉の“手”が届くところまで、平気で踏み込む可能性は高いですね」
「だから先に、島の側と泉の側の境目を見て、縄を張り直す」
玄武が、短く言った。
「地のマブイから見ても、あの辺はもう揺れている」
「というわけで」
ナミが、ちゃぶ台を軽く叩く。
「今日も森コース決定。怖くなって帰りたい人は、今のうちに港まで送るさ」
「ここで帰ったら、一生ネタにされるやつですね」
玉城は、自嘲気味に笑った。
「行きますよ。怖いのは嫌いですけど、“知らないまま”のほうがもっと怖いですから」
「さすが先生」
璃子がぱちぱちと手を叩く。
「じゃ、行きますか。“続・森のマブイ体験ツアー”」
「そういうタイトルつけると、全部安っぽく聞こえるからやめろ」
陽翔は、額に手を当てながらも立ち上がった。
◇
森の入口に近づくにつれ、空気の密度が変わっていく。
枝と枝の隙間から差し込む光は、薄い布越しに見ているように柔らかく、地面の土は昨日よりも少し湿っているように感じられた。
「やっぱり、港のほうとは空気がぜんぜん違いますね」
美琴が、肩をすくめる。
「音が、減ってる感じがします。風の音だけ残って、他が遠い」
「島の中の“奥のほう”の音さ」
ナミが、縄の束を肩に担いだまま答える。
「もともと島の呼吸が深い場所。そこに泉から溢れる影が混ざってきてるから、余計におかしく聞こえる」
玄武は無言で先頭を歩いていた。足の裏で土の硬さを確かめるように、一歩一歩踏みしめている。
やがて、昨日「ここまで」と決めた縄の場所が見えてきた。
「……やっぱり、増えてる」
真帆が息をのむ。
縄の向こう側、土の表面に広がっていた黒い滲みが、昨日より明らかに大きい。赤い布のいくつかは、先だけでなく巻き付けた根元近くまで黒く染まり、布地が固くなっている。
「ここが、島のマブイと泉の影が拮抗してるラインさ」
ナミが、縄の前にしゃがみ込む。
「この縄は、その境目の印。今はまだぎりぎり均衡してるけど……こっちが何もしなければ、そのうち影のほうに傾く」
「久高だけの話じゃないんだよな、これ」
玉城が、頭をかきながら眉間を押さえた。
「土を伝って、海を伝って、本島のほうにも……」
「その話は、森を出てから」
ナミが言った、そのとき。
森の奥から、笑い声が聞こえた。
「え?」
璃子が顔を上げる。
「今、人の声しましたよね」
「聞こえた」
陽翔も眉をひそめる。
ざくざく、と落ち葉を踏む足音が近づいてきた。縄の向こうではなく、少し外側の獣道から、三人の若者が姿を現す。
二十代くらいの男二人と女一人。派手な色のパーカーにリュック。手には自撮り棒とスマホ。
「マジでなんもねーなここ。店も自販機もゼロ」
「そういう“何もない”がエモいんでしょ。ほら、“ガチの聖地”って感じじゃん」
「てか見て、“ロープあるとこ絶対なんかある説”」
先頭の男が、ニヤニヤしながら縄のほうへ歩き出す。
「おい、そこまで」
玄武が、珍しく鋭い声を出した。
三人は足を止めて、こちらを見た。
「え、誰っすか」
「島の人? ガイド?」
「今日はここから先、立ち入り禁止だよ」
ナミが、縄のこちら側から静かに言う。
「島の神さまの場所さ。観光のノリで入るところじゃない」
「えー。でもネットで“ここの泉ヤバいパワースポット”って見たんすけど」
先頭の男が、露骨に不満そうな顔をする。
「せっかく来たのに。写真一枚くらいよくないっすか?」
「“ヤバい”の意味、ぜんっぜん違うんだよなあ……」
璃子が、小声でぼやいた。
「本当に危ないから、戻りなさい」
ナミの声には、いつものゆるさがなかった。
「島の子は、小さい頃から“この先行ったら戻ってこれないよ”って言われて育つさ。あんたたちは、その話を一度も聞いてない」
「でもさあ」
男は笑いながら、縄に近づく。
「こういう“本気で怒られた”動画って、逆に伸びるんだって。な? 行こうぜ」
「動画の再生数と命を天秤にかけるな」
玉城が、めずらしく低い声で言った。
「足もと見ろ。ロープの向こう、土の色がおかしいだろ」
「え、なんか濡れてる?」
女が、スマホをかざして覗き込む。
「昨日雨だったっけ?」
「降ってねーよ」
もう一人の男が笑った、その瞬間。
先頭の男は、縄に手をかけた。
「やめろ!」
陽翔と玄武の声が、ほぼ同時に飛ぶ。
だが間に合わない。
ぎし、と黒ずんだ縄がきしみ、男の足が縄の向こう側に踏み出された。
次の瞬間、黒い滲みから、触手のようなものがいくつも飛び出した。
墨で描いた線が、そのまま立ち上がったみたいな細さ。だが表面には、鋭い棘がびっしりと生えている。冷たい闇を束ねて固めたようなそれが、一瞬で男の足首に絡みつき、ぎゅう、と締め上げた。
「うわっ、なにこれ……冷たっ……!」
男の顔から血の気が引いていく。
足首から、氷水が体の中を逆流していくような冷たさが走った。皮膚の上ではなく、マブイの流れそのものに、冷たい影が入り込んでくる。
「ちょ、やば……足、動かね……」
言葉の途中で、声がしぼむ。
瞳の色が、すうっと薄くなった。
ナミには、男の体をめぐるマブイが、すごい勢いで黒く染まっていくのが見える。
(速いね……もう三割、四割……)
黒い触手は、足首から腰、背中へと這い上がり、男自身の影と絡み合いながら、別の“何か”の形を取ろうとしていた。
そのとき、男の頭の中に、声が響いた。
『しばらくは、楽にしてあげる』
甘く、やわらかい声。
『何にも縛られず、自由になれるよ。頑張らなくていい。嫌なことも、怖いことも、ぜんぶ沈めてあげる』
楽。
自由。
その言葉が、どこか疲れていた心の奥をくすぐる。
『こっちに来れば、夢も叶えてあげる。誰にも文句言われない世界で、好きなだけ笑ってていい』
目の前の森が、少しぼやける。
代わりに、夜の街のネオンや歓声、拍手のようなものが、頭の奥に浮かんだ。自分が真ん中にいて、誰かに称賛されている映像。心のどこかで欲しがっていた景色。
『ほら、こっちおいで』
足が、もう一歩、黒い滲みの奥へ出そうになる。
「やめろ!」
玄武の叫びが飛んだ。
その声とほぼ同時に――陽翔の世界が、ぐにゃりと歪む。
音が、遠ざかった。
風も、鳥も、みんな薄いガラス越しになり、赤い布のひらめきだけが、やけにスローに見える。
黒い触手の一本が、縄の下をするりとくぐり、こちら側へ伸びてきた。
その先には、呆然と立ち尽くす女の観光客と、その少し前に出てしまった璃子。
(まずい)
頭の奥で、誰かの声がした。
『そこじゃない。半歩、右』
女の声。
どこか懐かしいような、聞き覚えがあるような、でも思い出せない声。
『そのままだと、お前じゃなくて、妹が刺さる』
体中を巡るマブイが、ぞくりと逆立った。
「……っ」
考えるより先に、体が動く。
陽翔は、縄のこちら側から飛び出し、璃子の肩を思い切り引き寄せた。
半歩、右へ。
その瞬間、黒い触手の棘が、女の観光客のすぐ前の地面をざり、と抉る。
少しでも判断が遅れていたら、璃子のふくらはぎを貫いていた。
時間が、現実の重さを取り戻す。
頭の奥が、焼けるように痛んだ。
鼻の奥に、また鉄の匂いが広がる。
「は、はると!?」
真帆の声が、遠くで響いた。
「今、なんか変な……」
「後で!」
陽翔は、痛みを押し込める。
視界の端が白く瞬く。だが、今は倒れている場合ではなかった。
「玄武!」
ナミの声が飛ぶ。
「ああ!」
玄武が踏み込み、拳を地面に叩きつける。
「地のマブイ・岩牢!」
足もとから、鈍い光が走った。
地面に円形の紋様が浮かび上がる。岩の線で描かれたようなその模様から、ゴゴッという低い音と共に土が盛り上がり、黒い滲みの周囲を囲むように石の壁が立ち上がる。
飛び出しかけていた黒い触手のいくつかが、岩に押し潰されるように消えた。
「うわ……完全に地属性魔法……」
玉城が思わず呟く。
「ヤマト風に言うと、そうなるさね」
ナミが短く返す。
けれど、岩の隙間から、ぬるりと別の触手が這い出てきた。棘が石をひっかき、耳障りな感触が森に響く。
その向こうで――
黒い影に包まれた先頭の男が、ゆっくりと顔を上げた。
ナミには、その体を巡るマブイが、八割方、完全に黒に飲まれているのが見える。
男の瞳から、光が消えていた。
残ったわずかな人間らしさを、黒い何かが内側から舐めるように覆い尽くしていく。
「……さむいな」
低い声が、石の檻の中から漏れた。
次の瞬間、岩の表面にひびが走る。
石と影が軋む音。
黒に染まったその目が、岩の割れ目からこちらを覗き込み、誰かひとりを選ぶように、じっと舐め回していた――。




