表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
21/32

第21話 影が触れる場所

「……来るぞ」


 玄武が低く言った。


 土の壁の間をすり抜けた細い触手が、地面を這って縄のすぐ手前まで近づいてくる。


「うわ、あいつだけステルス性能高くない?」


 璃子が、思わず一歩下がった。


 踏んだ落ち葉の下で、小枝がぱき、と折れる。


 体のバランスが崩れた、その瞬間。


 細い触手が、弾かれたみたいに跳ね上がった。


「リコ!」


 陽翔の叫びより早く、黒い触手が璃子の足首に巻き付いた。


 


 氷を直接、骨の内側に押しつけられたような冷たさが、一気に駆け上がる。


「……っ!」


 璃子の喉から、息だけが漏れた。


 足先から、冷たい何かが逆流するように体の中を這い上がってくる。全身をめぐるマブイの流れが、一瞬で逆さに押し返される。


 耳の奥で、声がした。


『楽になろう』


 甘く、やわらかい声。


『解放してあげる。学校も、将来も、にぃにぃのこと悩んでるのも、全部置いていこう』


 目の前の森の色が、少しずつ薄れていく。


 縄の向こうに、白い砂浜がちらりと見えた気がした。風は暖かく、波は穏やかで、自分の好きな音楽だけが遠くで鳴っている。


『ここなら、自由になれるよ』


『好きな夢だけ見てればいい。朝も、現実も来ない』


 足が、一歩、前へ出そうになる。


「リコッ!」


 陽翔の声が、遠くから飛んでくる。


 時間が、ぐにゃりと伸びた。


 赤い布が、スローモーションで揺れる。黒い触手の棘が、璃子の足首に食い込もうとする寸前の形をはっきりと捉える。


 そのとき、別の声が耳の奥で響いた。


『またか。お前は、何度、流れを壊すつもりだ』


 女の、冷えた声。


 全身をめぐる陽翔のマブイの川が、一気に荒れた。


「……黙れ」


 陽翔は、自分でも驚くほど低い声で呟き、縄のぎりぎり手前まで飛び込んだ。


 縄の向こうには出ない。


 かわりに、その場から腕を伸ばし、璃子の手首をつかむ。


 指先から、璃子の体に流れ込む感触があった。二人のマブイの流れが、一瞬だけ混ざる。


「に、ぃにぃ……?」


 璃子の瞳に、わずかに焦点が戻る。


 だが、黒い触手の棘が、さらに深く足首に食い込んだ。


 


 ナミの目には、はっきり見えていた。


 璃子の体の内側をめぐるマブイの流れが、足もとから三割ほど黒く染まりかけている。全身を巡る川の一部が、泉の側に引っ張られ始めていた。


(まだ間に合う。今なら引き戻せる)


 ナミは一歩前へ出る。


 足の裏で、島の大地を踏みしめた。


 地の奥を通る重たいマブイの流れが、ナミの足から体の内側へゆっくり上がってくる。胸でも頭でもなく、全身を通る一本の川として。


 両手を下へ向け、指先でその流れをすくい上げる。


「結のマブイ――」


 ナミは、静かに息を整えた。


 両手の間で、大地のマブイと自分のマブイの流れを丸くまとめる。


魂環たまわがえし」


 その名を告げた瞬間、ナミの足もとから、淡い光の輪がすっと広がった。


 輪は地面を這い、縄の手前でふわりと持ち上がる。


 璃子の足首に絡みついた黒い触手と、そのすぐ上で逆流しかけている璃子のマブイの流れを、一緒に囲い込んだ。


「戻るほうに、意識合わせて」


 短い言葉でも、十分伝わる。


 陽翔は、握った璃子の手に、自分のマブイの流れをぶつけるような感覚で意識を流し込んだ。二人分の川が、輪の内側で同じ方向へ押し出される。


 玄武は、拳を地に押し付けたまま、地のマブイを輪の下から支えるように押し上げる。


 光の輪が、ぎゅうっと縮んだ。


 黒い触手が、音もなくきしむ。


 泉の影の逆流が、璃子を向こう側へ連れ去ろうとする。


 島の大地と、人のマブイの流れが、この側へ引き戻そうとする。


 見えない綱引きだった。


『楽になろう』


『全部、解放してあげる』


『夢だけ見てればいい』


 影のささやきは、まだ耳の奥で甘く響いている。


 璃子は、歯を噛みしめた。


「……やだ」


 かすれた声で、たった二文字を押し出す。


「にぃにぃと、一緒に残る」


 その言葉に、光の輪の内側の流れがぴんと張りつめた。


 陽翔のマブイの川が、さらに強く前へ踏み出す。


 ばちん、と何かが弾ける音がした。


 黒い触手が、一気に縄の向こう側へ引き戻される。棘が土の表面をざりざりと削りながら、黒い滲みに吸い込まれていった。


 


 璃子の体が、縄のこちら側へと崩れ落ちる。


「リコ!」


 陽翔が抱きとめる。


 璃子は、肩で荒い息をしながらしばらく目を閉じていたが、やがてゆっくり瞼を開けた。


「……にぃにぃ」


「おかえり」


 陽翔は、それだけ言った。


 足首に触れると、まだ氷みたいに冷たい。けれど、全身を引き抜かれそうだった冷えは、少しずつ引いていく。


「ナミさん、今の……」


 真帆が、ナミを見た。


「一瞬、輪みたいな光が見えました。リコと地面を一緒に囲んでましたよね」


「島の大地の流れと、その子のマブイをひとつの輪でまとめて、影の逆流を押し返しただけさ」


 ナミは、軽く肩を回しながら答える。


「魂環がえし。個人のマブイを、いったん島の側に繋ぎ直して守る技ね」


「ナミさんには、どんなふうに見えてたんですか?」


 美琴が、おずおずと聞く。


「リコの全身をめぐるマブイの川が、足もとから三割くらい黒く染まりかけてた。ゆいのマブイがあれば、どのくらい影に浸食されてるか、だいたい色で分かる」


 ナミは璃子の足首をちらりと見る。


「今くらいならまだ間に合う。でも、半分こっち、半分あっちまで行ったら、かなりきつい」


「半分あっちは、想像したくないですね……」


 玉城が青ざめた。


「……さっきの声」


 璃子が、小さな声で言う。


「“自由になろう”って、“夢だけ見てればいい”って、ずっと言われてた。正直、一瞬だけ“それもいいかな”って思った」


 ナミは、穏やかな目でうなずく。


「しんどいときなら、誰だって揺れるさ。でも“やだ”って言えた。あんた、自分の流れがどこにいたいか、ちゃんと知ってる」


「にぃにぃも、すごく引っ張ってくれてた」


 璃子は、陽翔の袖をつかむ。


「にぃにぃの手、あったかくてさ。なんか、“前にもこうやって引っ張られたことある”みたいな感じした」


 陽翔は、返す言葉を見つけられない。


 知らない景色の断片が、頭のどこかでちらついた。


「黒いほうも、思ったよりしぶといな」


 玄武が、縄の向こうをにらむ。


 黒い滲みは、再び静かになっている。だが、さっきより広がっていた。赤い布の先はすっかり黒くなり、縄の一部は炭のように脆くなっている。


「今日はここまでだね」


 ナミが息を吐く。


「こっちの流れも、だいぶ使った」


「縄、張り直したほうがいいですか?」


 真帆が問う。


「今は触らん。古い縄には、ツルさんたちが結んだ“戻るほうの流れ”も染み込んでる。それを全部捨てたら、逆に守りが薄くなる」


 ナミは、静かに縄を見つめた。


「今日のところは、ここを“ここまで”って島にも泉にも分からせた。それで十分さ」


 


 森を戻る道は、来るときより長く感じた。


 木々の隙間から見える空は、少し傾き始めている。鳥の声は、さっきより近い。


「リコ、歩けるか」


「にぃにぃ、それもう二回目」


 璃子は、足首をかばいながらも、わざと大げさに歩いて見せた。


「冷たいのは残ってるけど、さっきみたいに全身まで凍ってる感じはしないよ」


「その表現が一番怖いんだよ」


 陽翔がため息をつく。


「でも、まあ……顔色は戻ってきたな」


「ナミさんと、にぃにぃのおかげだよ」


 璃子は、少し照れたように笑った。


 


 ナミの家が見えてくるころには、空に夕方の色がにじみ始めていた。


 玄関先で立ち止まり、ナミが振り返る。


「今日は、よう頑張ったさ」


 皆の顔を一人ずつ見て、うなずく。


「森の中に、“ここまで”って場所が一つ生まれた。明日からは、そこを足場にして、もう少し泉のほうに近づける」


「……“明日は行かなくていい”って選択肢は、やっぱりないんですね」


 真帆が、苦笑まじりに言う。


「泉の影は、土を伝って、海を伝って、あっちこっちで顔出してる」


 ナミが空を見上げた。


「久高だけ抑えても終わらん。本島のほうにも、もう黒い滲みが出始めてるかもしれん。ハルトの故郷の海にもね」


 全身をめぐる陽翔のマブイの流れが、きゅっと軋む。


 備瀬の浜。ツルの家の前の海。


 そこにも、同じ黒い影が近づいてきている――そんな予感が、ひやりと背筋をなぞった。


「今日はここまで。ご飯食べて、風呂入って、ちゃんと寝なさい」


 ナミが、いつもの調子で言う。


「マブイの流れ整えるには、それが一番の近道さね」


 言葉だけは柔らかい。


 けれど、陽翔の中では、森の黒い滲みと、冷たい触手の感触と、ナミの光の輪が、何度も何度も繰り返し浮かび続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ