第21話 影が触れる場所
「……来るぞ」
玄武が低く言った。
土の壁の間をすり抜けた細い触手が、地面を這って縄のすぐ手前まで近づいてくる。
「うわ、あいつだけステルス性能高くない?」
璃子が、思わず一歩下がった。
踏んだ落ち葉の下で、小枝がぱき、と折れる。
体のバランスが崩れた、その瞬間。
細い触手が、弾かれたみたいに跳ね上がった。
「リコ!」
陽翔の叫びより早く、黒い触手が璃子の足首に巻き付いた。
氷を直接、骨の内側に押しつけられたような冷たさが、一気に駆け上がる。
「……っ!」
璃子の喉から、息だけが漏れた。
足先から、冷たい何かが逆流するように体の中を這い上がってくる。全身をめぐるマブイの流れが、一瞬で逆さに押し返される。
耳の奥で、声がした。
『楽になろう』
甘く、やわらかい声。
『解放してあげる。学校も、将来も、にぃにぃのこと悩んでるのも、全部置いていこう』
目の前の森の色が、少しずつ薄れていく。
縄の向こうに、白い砂浜がちらりと見えた気がした。風は暖かく、波は穏やかで、自分の好きな音楽だけが遠くで鳴っている。
『ここなら、自由になれるよ』
『好きな夢だけ見てればいい。朝も、現実も来ない』
足が、一歩、前へ出そうになる。
「リコッ!」
陽翔の声が、遠くから飛んでくる。
時間が、ぐにゃりと伸びた。
赤い布が、スローモーションで揺れる。黒い触手の棘が、璃子の足首に食い込もうとする寸前の形をはっきりと捉える。
そのとき、別の声が耳の奥で響いた。
『またか。お前は、何度、流れを壊すつもりだ』
女の、冷えた声。
全身をめぐる陽翔のマブイの川が、一気に荒れた。
「……黙れ」
陽翔は、自分でも驚くほど低い声で呟き、縄のぎりぎり手前まで飛び込んだ。
縄の向こうには出ない。
かわりに、その場から腕を伸ばし、璃子の手首をつかむ。
指先から、璃子の体に流れ込む感触があった。二人のマブイの流れが、一瞬だけ混ざる。
「に、ぃにぃ……?」
璃子の瞳に、わずかに焦点が戻る。
だが、黒い触手の棘が、さらに深く足首に食い込んだ。
ナミの目には、はっきり見えていた。
璃子の体の内側をめぐるマブイの流れが、足もとから三割ほど黒く染まりかけている。全身を巡る川の一部が、泉の側に引っ張られ始めていた。
(まだ間に合う。今なら引き戻せる)
ナミは一歩前へ出る。
足の裏で、島の大地を踏みしめた。
地の奥を通る重たいマブイの流れが、ナミの足から体の内側へゆっくり上がってくる。胸でも頭でもなく、全身を通る一本の川として。
両手を下へ向け、指先でその流れをすくい上げる。
「結のマブイ――」
ナミは、静かに息を整えた。
両手の間で、大地のマブイと自分のマブイの流れを丸くまとめる。
「魂環がえし」
その名を告げた瞬間、ナミの足もとから、淡い光の輪がすっと広がった。
輪は地面を這い、縄の手前でふわりと持ち上がる。
璃子の足首に絡みついた黒い触手と、そのすぐ上で逆流しかけている璃子のマブイの流れを、一緒に囲い込んだ。
「戻るほうに、意識合わせて」
短い言葉でも、十分伝わる。
陽翔は、握った璃子の手に、自分のマブイの流れをぶつけるような感覚で意識を流し込んだ。二人分の川が、輪の内側で同じ方向へ押し出される。
玄武は、拳を地に押し付けたまま、地のマブイを輪の下から支えるように押し上げる。
光の輪が、ぎゅうっと縮んだ。
黒い触手が、音もなくきしむ。
泉の影の逆流が、璃子を向こう側へ連れ去ろうとする。
島の大地と、人のマブイの流れが、この側へ引き戻そうとする。
見えない綱引きだった。
『楽になろう』
『全部、解放してあげる』
『夢だけ見てればいい』
影のささやきは、まだ耳の奥で甘く響いている。
璃子は、歯を噛みしめた。
「……やだ」
かすれた声で、たった二文字を押し出す。
「にぃにぃと、一緒に残る」
その言葉に、光の輪の内側の流れがぴんと張りつめた。
陽翔のマブイの川が、さらに強く前へ踏み出す。
ばちん、と何かが弾ける音がした。
黒い触手が、一気に縄の向こう側へ引き戻される。棘が土の表面をざりざりと削りながら、黒い滲みに吸い込まれていった。
璃子の体が、縄のこちら側へと崩れ落ちる。
「リコ!」
陽翔が抱きとめる。
璃子は、肩で荒い息をしながらしばらく目を閉じていたが、やがてゆっくり瞼を開けた。
「……にぃにぃ」
「おかえり」
陽翔は、それだけ言った。
足首に触れると、まだ氷みたいに冷たい。けれど、全身を引き抜かれそうだった冷えは、少しずつ引いていく。
「ナミさん、今の……」
真帆が、ナミを見た。
「一瞬、輪みたいな光が見えました。リコと地面を一緒に囲んでましたよね」
「島の大地の流れと、その子のマブイをひとつの輪でまとめて、影の逆流を押し返しただけさ」
ナミは、軽く肩を回しながら答える。
「魂環がえし。個人のマブイを、いったん島の側に繋ぎ直して守る技ね」
「ナミさんには、どんなふうに見えてたんですか?」
美琴が、おずおずと聞く。
「リコの全身をめぐるマブイの川が、足もとから三割くらい黒く染まりかけてた。ゆいのマブイがあれば、どのくらい影に浸食されてるか、だいたい色で分かる」
ナミは璃子の足首をちらりと見る。
「今くらいならまだ間に合う。でも、半分こっち、半分あっちまで行ったら、かなりきつい」
「半分あっちは、想像したくないですね……」
玉城が青ざめた。
「……さっきの声」
璃子が、小さな声で言う。
「“自由になろう”って、“夢だけ見てればいい”って、ずっと言われてた。正直、一瞬だけ“それもいいかな”って思った」
ナミは、穏やかな目でうなずく。
「しんどいときなら、誰だって揺れるさ。でも“やだ”って言えた。あんた、自分の流れがどこにいたいか、ちゃんと知ってる」
「にぃにぃも、すごく引っ張ってくれてた」
璃子は、陽翔の袖をつかむ。
「にぃにぃの手、あったかくてさ。なんか、“前にもこうやって引っ張られたことある”みたいな感じした」
陽翔は、返す言葉を見つけられない。
知らない景色の断片が、頭のどこかでちらついた。
「黒いほうも、思ったよりしぶといな」
玄武が、縄の向こうをにらむ。
黒い滲みは、再び静かになっている。だが、さっきより広がっていた。赤い布の先はすっかり黒くなり、縄の一部は炭のように脆くなっている。
「今日はここまでだね」
ナミが息を吐く。
「こっちの流れも、だいぶ使った」
「縄、張り直したほうがいいですか?」
真帆が問う。
「今は触らん。古い縄には、ツルさんたちが結んだ“戻るほうの流れ”も染み込んでる。それを全部捨てたら、逆に守りが薄くなる」
ナミは、静かに縄を見つめた。
「今日のところは、ここを“ここまで”って島にも泉にも分からせた。それで十分さ」
森を戻る道は、来るときより長く感じた。
木々の隙間から見える空は、少し傾き始めている。鳥の声は、さっきより近い。
「リコ、歩けるか」
「にぃにぃ、それもう二回目」
璃子は、足首をかばいながらも、わざと大げさに歩いて見せた。
「冷たいのは残ってるけど、さっきみたいに全身まで凍ってる感じはしないよ」
「その表現が一番怖いんだよ」
陽翔がため息をつく。
「でも、まあ……顔色は戻ってきたな」
「ナミさんと、にぃにぃのおかげだよ」
璃子は、少し照れたように笑った。
ナミの家が見えてくるころには、空に夕方の色がにじみ始めていた。
玄関先で立ち止まり、ナミが振り返る。
「今日は、よう頑張ったさ」
皆の顔を一人ずつ見て、うなずく。
「森の中に、“ここまで”って場所が一つ生まれた。明日からは、そこを足場にして、もう少し泉のほうに近づける」
「……“明日は行かなくていい”って選択肢は、やっぱりないんですね」
真帆が、苦笑まじりに言う。
「泉の影は、土を伝って、海を伝って、あっちこっちで顔出してる」
ナミが空を見上げた。
「久高だけ抑えても終わらん。本島のほうにも、もう黒い滲みが出始めてるかもしれん。ハルトの故郷の海にもね」
全身をめぐる陽翔のマブイの流れが、きゅっと軋む。
備瀬の浜。ツルの家の前の海。
そこにも、同じ黒い影が近づいてきている――そんな予感が、ひやりと背筋をなぞった。
「今日はここまで。ご飯食べて、風呂入って、ちゃんと寝なさい」
ナミが、いつもの調子で言う。
「マブイの流れ整えるには、それが一番の近道さね」
言葉だけは柔らかい。
けれど、陽翔の中では、森の黒い滲みと、冷たい触手の感触と、ナミの光の輪が、何度も何度も繰り返し浮かび続けていた。




