第20話 森の中の「ここまで」
味噌汁の湯気が、すうっと揺れた。
ナミの家のちゃぶ台には、焼き魚と島豆腐、素朴なおかずがいくつか並んでいる。窓の外では、朝の風が木の葉をゆらしていた。
「よく寝られたかね」
湯飲みにお茶を注ぎながら、ナミが皆の顔を見回す。
「うん。久しぶりに“ちゃんと寝た”って感じでした」
真帆が、肩を回しながら答える。
「私は、森の中エンカウント地獄の夢でした」
璃子が、焼き魚をつつきながら言った。
「マップ黒塗りのくせに敵だけ出てくるタイプ」
「お前の夢の仕様が一番怖いんだよ」
陽翔がため息をつく。
「大丈夫ですよ、にぃにぃ。チュートリアルは昨日終わったから、今日は本編です」
「その本編が、泉の影なんだろうが」
ちゃぶ台の端で、玉城が味噌汁をすすりながら顔をしかめた。
「朝から“本編”とか聞きたくなかったですねえ……」
「はいはい、現実のほうの予定確認するよ」
ナミが茶碗を置き、皆を見渡す。
「今日は森に入って、“ここまで”って場所を決める。泉から溢れ出してる影と、島のマブイの流れが、ちょうど同じ強さでぶつかってるところさ」
「そこに縄を張って、赤い布で印つけるんですよね」
美琴が復唱する。
「そう。島の子なら足が勝手に止まる場所だけど、最近は“何も知らん観光客”もいるさ。だから目に見える印も増やしときたい」
ナミは、ふっと表情を引き締めた。
「あの泉はね、体はここに残るのに、全身をめぐるマブイの流れを影に浸食して、向こう側へ引き込もうとする。外から見たら“なんか様子がおかしい”ぐらいで済むかもしれん。でも、流れの半分以上を向こうに持っていかれたら、引き戻すのはかなり難しい」
「半分以上……」
璃子が、箸を止めてつぶやく。
「数字で言われると、ゲームのHPバーみたいで余計怖いんだけど」
「怖がって正解さ」
ナミはあっさり言う。
「怖いもんは、怖いままちゃんと見といたほうが守りになる」
陽翔は、静かに息を吸った。
自分のマブイの流れに意識を落とす。
頭の先から指先まで、ひとつの川のようなものが体中をめぐっているのがわかる。ところどころざらつきはあるが、どうにか一本の流れとしてつながっている。
「じゃ、行こうか」
ナミが腰を上げた。
◇
森へ向かう道は、昨日歩いたはずなのに、今日のほうが狭く見えた。
集落を抜けると、足もとは砂から土に変わる。落ち葉と、露出した木の根。頭上では枝が重なり、空を細く切り取っている。
「音が減ってますね」
真帆が、周りを見渡す。
「風の音はするけど、鳥も虫も少ない。空気の密度が違う感じがします」
「島のマブイの流れが深くて静かな場所さ」
前を歩くナミが振り返る。
「そこに泉から溢れた影が混ざってきてるから、余計に音が変になってる」
「港のほうとは、全然違いますね」
美琴が、胸の前で指を重ねるようにして小さく息を整えた。
「こっちは、“奥”に入っていく感じがします」
「ホラー映画なら“ここで引き返せ”ってテロップ出てる場所だな」
玉城がぼそっと言う。
「先生、自分でフラグ立てないでください」
璃子がすかさずツッコむ。
そんなやり取りのあとで、先頭を歩く玄武が、ふいに足を止めた。
「この辺だ」
短く言って、足もとを見る。
陽翔もつられて地面を見下ろした。
一見、普通の土と落ち葉。ただ、あるラインを境に、落ち葉の色がわずかに褪せている。木の根の影も、その先だけ濃く沈んでいた。
「ここから先で、地面の重さが変わる」
玄武が、土を軽く踏む。
「島のマブイと、泉から溢れた影の力が、ちょうど同じ強さで押し合ってる場所だ」
「じゃあ、ここが“今日のここまで”ってわけですね」
真帆がつぶやく。
ナミは玄武の隣に立ち、同じ場所に視線を落とした。
「そう。ここに縄を張る。ハルト、そこの木の前に立って」
「なんで俺」
「昨日、御嶽の前まで勝手に行った罰」
ナミがさらっと言う。
「……理不尽だ」
文句を言いつつも、陽翔は示された場所に立った。
ナミは腰の縄をほどき、太い木の幹にくくりつける。結び目のところに赤い布をぎゅっと巻いた。
「その布って、よく御嶽に巻いてあるやつですよね」
璃子が覗き込む。
「そう。島の人にとっては“ここから流れが違うよ”って印さ」
ナミは布をぽん、と軽く叩く。
「今日はあんたたちにとっての“ここまで”の目印」
縄は、陽翔の前を横切るように、左右の木へ渡されていく。玄武が反対側で、無駄のない手つきで結び目を作っていく。
「先生、この木お願いしていいですか」
真帆が、玉城に赤い布を渡した。
「また私ですか」
「フィールドワークです」
「最近のフィールドワーク、マジで何でもアリですね……」
ぶつぶつ言いながらも、玉城は器用に布を巻きつけた。
やがて、一本の縄が森の中に線を引いた。
縄のこちら側は、湿った土と葉の匂いのする空気。
縄の向こう側は――土の色が、ほんの少し濃い。影の落ち方も、不自然に深い。
「……見えます?」
陽翔が呟く。
縄のすぐ向こう、地面の一角がじわりと黒く滲んでいた。乾いた土の上に、ゆっくりと墨を染み込ませていくような黒。
全身をめぐるマブイの川が、一瞬きしむ。
「泉から溢れる影の“手”みたいなもんさね」
ナミが言う。
「あれだけ見たらただの水染みみたいだけど、足を踏み入れたら、その人のマブイの流れを何度でも浸食してくる」
「何度でも、っていうのが一番イヤなやつだ……」
玉城が、思わず肩をすくめる。
そのとき。
黒い滲みが、ふっと震えた。
土の上の黒が、中央から盛り上がる。
一本の細い線が、ぬるりと立ち上がった。
「……触手、ですね」
真帆が、研究者の顔になる。
墨で描いた線をそのまま立体にしたような、黒い触手。表面には、細かな棘がびっしり生えている。それが、地面からにゅるにゅると這い出してきた。
二本、三本と増え、縄のほうへ、ゆっくりと伸びてくる。
「宮城」
ナミが短く呼ぶ。
「ああ」
玄武は、静かに一歩前へ出た。
全身をめぐる重いマブイの流れを、足から地面へ落とし込む。腕から拳へ、その流れをぐっと集める。
拳を握りしめ、そのまま地面に叩きつけた。
「地のマブイ・岩脈陣」
拳が土を打った瞬間、地面に淡い紋様が走る。
ひび割れにも似た線が、黒い滲みの周囲に円を描いて広がった。その線に沿って、低い土の壁が盛り上がる。
黒い触手は、その壁にぶつかり、棘を立てて絡みついた。
「今の……」
美琴が目を見開く。
「地面が、守ってくれてる……?」
「玄武、派手にやるね」
璃子が半分感心、半分おびえた声を出す。
だが、黒い触手は、土の壁に絡まりながらも、じわじわと押し広げていく。壁の内側が、少しずつ黒く染まり始めた。
「影の力、想定より強いね」
ナミが眉をひそめた。
そのとき、黒い滲みの一角から、ほかのより細い触手が一本、するりと伸びた。
それは、土の壁の隙間を探るように地面すれすれを這い、ゆっくりと縄のほうへ近づいてくる。
細く、静かに、獲物の足を狙う蛇のように。
陽翔たちは、その黒い線がこちらへ忍び寄るのを固唾を飲んで見つめていた。




