第2話 目覚める機内と嫌なデジャヴ
心臓が、一回、強く跳ねた。
陽翔は、肺の底まで空気を吸い込んでから、ようやくそれが自分の呼吸だと気づいた。
見慣れない天井。
頭上の荷物棚。
隣の席との間にある細い肘掛け。
視界の端にふわりと揺れる、客室乗務員のスカーフ。
「……機内、か」
喉がひどく乾いていた。
さっきまで、潮と血の匂いしかしない場所にいたはずなのに。
今は、コーヒーと機内食の残り香が混ざった空気が支配している。
眼下には、白い雲の海。
さっきまで飲み込まれた黒い“海”とは正反対の光景だ。
違和感は、消えない。
夢だった。
そう考えるのが一番楽だ。
だが、胸の奥に残る圧迫感と、倒れていた誰かの名前を呼ぶ声の感触だけは、指でなぞれるくらい鮮明だった。
「……また、ここか、ね」
さっき、自分がそう言っていた気がする。
何度目かの終わり。
そう言った瞬間の、諦めとも覚悟ともつかない感情が、まだ指先に残っていた。
「お客様、起こしてしまいましたか」
通路側から声がした。
客室乗務員が、申し訳なさそうに微笑んでいる。
「まもなく那覇空港に着陸いたします。シートベルトをお締めになって、テーブルをお戻しください」
「あ、はい」
陽翔は反射的に答え、膝の上の小さなテーブルを畳んだ。
ペットボトルの水が半分ほど減っている。
いつ開けたのか、覚えがない。
スマホを取り出すと、画面には未読の通知がいくつも並んでいた。
母親からのメッセージ。
会社からのメール。
航空会社からの「ご搭乗ありがとうございました」の定型文。
その中で、一番上に固定されている通知だけが、現実味を持って胸に刺さる。
「ツルおばぁ、亡くなったよ」
一週間前、母から届いた短いメッセージ。
その下に送られてきたのは、仏壇の前に置かれた遺影の写真と、小さな骨壺の画像だった。
画面をタップしようとして、指が止まる。
その瞬間、どこからともなく潮の匂いがした気がした。
「……気のせいだ」
自分に言い聞かせるように呟いてから、陽翔は通知をスワイプした。
代わりに、ニュースアプリのポップアップが目に入る。
「久高島近海で小規模な地震 被害報告はなし」
その見出しを見た瞬間、また胸がひゅっと縮んだ。
「久高島……?」
声に出してみると、口の中でその名前が妙に馴染んだ。
行ったことはない。
少なくとも、記憶の上では。
だが、「初めて聞いた」とは思えない。
懐かしさと同時に、足元を掬われるような不安が混じる。
「お客様、窓側よろしいですか」
隣の席のサラリーマン風の男が、窓の外を指差した。
「すみません、そろそろ写真撮りたくて」
「どうぞ」
陽翔は体を少し引き、男に窓を譲る。
その視線の先に広がる雲の切れ目から、青い海と、細長い島影がちらりと見えた。
「あれ、どこだろ。久高かな」
男が独り言のように呟いた。
一瞬、視界が揺んだように感じた。
先ほどまで見ていた闇の“海”と重なる。
足元から、何かがにじり寄ってくる感覚。
陽翔は、無意識のうちに自分の足首を掴んでいた。
ジーンズ越しに触れた肌は、ちゃんと温かい。
「……やっぱ寝不足だな」
東京を発つ前日、ほとんど眠れていない。
仕事の片付けと、上司への挨拶と、最後の飲み会。
「沖縄か、いいなあ。俺も行きたいわ」
半分酔った同僚の声。
「観光じゃないですから」と笑って返した自分の顔。
祖母の訃報メールを見たときの、あの妙な空虚さ。
悲しいのかどうかも分からないまま、「今週中には帰る」とだけ母に返した。
スマホをスリープにしながら、陽翔は画面に映った自分の顔をちらりと見た。
少しやつれた頬。
寝不足のせいだけではないクマ。
「はあ……」
ため息をひとつ落としてから、ふと別の名前が頭に浮かぶ。
真帆。
中学まで一緒だった幼馴染。
高校からは別々になり、そのまま陽翔は東京へ。
真帆は沖縄に残り、今は民俗学の研究をしているはずだ。
連絡先は、スマホの中に残っている。
「『今、沖縄戻ってる』……さすがに、いきなりこれはないか」
指先が、メッセージアプリのアイコンの上で止まる。
タップすれば、トーク履歴が開く。
最後のやり取りは、大学に入った頃のものだ。
「おめでとう。東京でも頑張りなさい」
「そっちも。なんか変な祈りとかに連れていかれないように」
そんな軽口で終わった会話が、そのまま数年放置されている。
今さら、どんな顔をして「久しぶり」と送ればいいのか分からない。
祖母の死をきっかけに連絡するのも、図々しい気がした。
結局、陽翔はメッセージアプリを開かず、機内モードのままホーム画面を閉じた。
シートベルトのサインが点灯し、「まもなく着陸いたします」というアナウンスが日本語と英語で流れる。
窓の外の雲の切れ間が広がり、はるかな下に、沖縄本島の輪郭が見えてきた。
海の青が、都会で見るどんな色よりも濃い。
「お帰りなさいませ」というアナウンスが、妙に刺さる。
故郷。
だが、もう「帰る場所」ではない。
ツルおばぁの家。
名護の実家。
十年近く離れて、東京で積み上げた自分の生活。
どこが「帰る場所」なのか、自分でもよく分からない。
ふと、耳鳴りがした。
キーンという鋭い音と一緒に、誰かの声が重なる。
――「影に引かれるなよ、ハルト」
その声は、懐かしかった。
優しくて、少しだけからかうような、あの独特のイントネーション。
ツルおばぁの声だと理解した瞬間、鳥肌が立った。
「……いや、いやいや」
自分で自分に突っ込みを入れる。
死んだ人の声を聞いたと認めるには、現実が近すぎる。
頭を振って、窓の外に視線を戻す。
海と島の境目に、影のような線が見えた。
さっきのニュースの見出しが、脳裏に浮かび上がる。
「久高島近海で小規模な地震」
あの島の名前を見たときの、あの胸騒ぎ。
足元がずるりと滑りそうになる感覚。
そして、拝所の前で、何度も死んだ気がする自分。
「……デジャヴってレベルじゃないだろ、これ」
小さく呟いた言葉は、エンジンの唸りにかき消された。
飛行機が高度を下げるたびに、胃が持ち上がるような感覚がする。
それと同時に、胸の奥で、何かがカチリと音を立てた気がした。
ここに来るのは、初めてではない。
そんなあり得ない確信が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
「お客様、着陸態勢に入りますので、背もたれを元にお戻しください」
客室乗務員の声に、「はい」と反射的に答える。
シートを起こし、深く座り直した瞬間、頭の中でさっきの言葉が反芻された。
――また、ここか。
夢の中の自分が吐き捨てた一言。
その一文が、窓の外の沖縄の景色に、薄い影を落としていく。
陽翔は、無意識のうちに指を組み、息をゆっくり吐いた。
息を落とせ。
流れを戻せ。
誰かに教わったような気がするその言葉を、まだ思い出せないまま。
飛行機の車輪が、滑走路に触れた。
鈍い衝撃と共に、彼の「何度目か分からない始まり」が、静かに動き出す。




