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マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
18/31

第18話 浜辺のマブイグミ実習

 昼前の久高島。


 海からの風が少し強くなって、砂浜の表面だけがさらさらと流れていく。

 ナミの家から歩いて十分ほどの、小さな浜に、陽翔たちは立っていた。


「はい、整列」


 具志堅ナミがぱん、と手を叩く。


「先生、ここ浜辺ですよ。整列って言われると、なんか体育の授業みたいなんですけど」


 玉城が苦笑まじりにぼやく。


「体育より大事さ。ここでこけたら、骨折じゃ済まんかもしれんからね」


「先生の脅し文句が重い」


 璃子が肩をすくめた。


 白い砂浜。

 少し離れたところに岩場と、その上に小さな御嶽が見える。

 海は穏やかで、雲の切れ間から陽射しが落ちていた。


「じゃあ改めて、今日やること」


 ナミが足もとの砂をつま先で軽く蹴る。


「“マブイグミ”の練習。

 誰かが本当にマブイ落としたとき、慌てずに拾って戻せるように」


「わざと落とすってことですよね」


 真帆が確認する。


「そう。“ちょっとだけ”落としてもらう」


「“ちょっとだけ”って便利な言葉ですよね」


 玉城がため息をつく。


「その“ちょっと”が一番信用できないパターンとかありますけど」


「大丈夫さ。全部落とす前に止めるから」


 ナミはさらっと言った。


「最初は、わんがやるし。様子もわかってる」


「じゃあ最初の実験台は……」


 璃子の視線が、じりじりと玉城に向く。


「先生しかいないですよね、これ」


「ですよねって何だ。君ら、教師を何だと思ってる」


「一般人枠の中で、いちばん打たれ強そう」


「雑な選定理由だな、おい」


 そんなやり取りに、陽翔は少しだけ笑う。

 緊張をごまかすには、こういう軽口がちょうどいい。


「はい、最初はタマシロ先生ね」


 ナミが即決した。


「名前覚えてくれてるのは嬉しいけど、もう少し優しく扱ってもいいんですよ」


「これでも優しいよ。

 ほら、玉城。そこ、砂の上に正座」


「砂浜正座……」


 文句を言いながらも、玉城は素直に膝をついた。


「他のみんなは、少し離れて円になるように立って」


 ナミが指で砂の上にざっくりと円を描く。

 陽翔たちは、その線にそって玉城を囲むように立った。


「マブイ落とすって言ってもね、今日は“びっくり”だけをちょっと借りるさ」


 ナミが玉城の背後に回る。


「びっくり?」


「人のマブイがいちばん抜けやすいのは、“強い驚き”のとき。

 だから、その入口だけ軽くノックする」


「ノックって言い方こわいな」


 玉城が肩をすくめた。


「じゃあ、玉城。目つぶって」


「はいはい」


 玉城が素直に目を閉じる。


 ナミはすっと背後に回り、両膝を砂に落とした。

 右手を玉城の胸骨の上あたり、左手を首のうしろ、うなじのくぼみにそっと当てる。


「ここ、分かるね」


 喉の付け根と背骨のくぼみを、親指でごく軽く押す。

 押すというより、印を付けるみたいに、小さくトン、トンとリズムを刻む。


「ここばっかり固めて息するとね、頭のほうにだけ血がのぼるさ。

 胸でひゅって吸って、ひゅって吐いて」


 言われたとおりに、玉城の肩が小さく上下しはじめる。


 ナミの左手の指先が、首のうしろから背骨に沿って、すうっと三センチほど下へなぞり降りた。

 真ん中の線を描いて、途中でぷつん、と切るように止める。


「下のほう――腹とか腰のあたりの流れは、いったん忘れて。

 頭と目と耳ばっかり働かせてみて」


 耳元に落ちる声はやわらかいのに、指先の圧は“上だけ”を意識させる。


 数秒。


 玉城の顔から、すっと血の気が引いた。

 肩が少し落ちて、視線の焦点がぼやける。


「あ」


 美琴が、小さく息をのむ。


「今の、見た?」


 ナミが周囲に視線を巡らせる。


「タマシロ先生の顔。

 さっきまでちゃんとここ見てたのに、急に“どっか向いてる”感じになったでしょ」


「分かります。

 講義中に、内心だけ遠い世界に行ってる学生の顔です」


 真帆が、妙に具体的な例えを出した。


「それ、自分もよくやってるだろ」


 陽翔が小声でツッコむ。


 玉城は、目を閉じたまま、口を半開きにしていた。


 呼びかけても――返事はない。


「ね。これが“マブイがちょっとだけ抜けかけてる”顔」


 ナミが、玉城の肩からそっと手を離した。


「完全に落ちたわけじゃないけど、自分の中心がここにない。

 こういうとき、足だけ勝手に動いたりするさ」


「足だけ?」


「急に道路に飛び出したり、段差でつまづいたり。

 自分じゃないみたいな動きしてね」


 その言葉に、陽翔の胸が、かすかにざわついた。


 高い場所から、ふっと足が出る感覚。

 “落ちた”のに、落ちていく自分を他人事みたいに見ている感覚。


「にぃにぃ?」


 璃子が心配そうに覗き込む。


「大丈夫だ」


 陽翔は短く答えて、息を整えた。


「じゃあ、戻すよ」


 ナミが、今度は砂の上にしゃがみ込む。


「タマシロ先生のマブイ、ちょっとだけ足もとに落ちてると思って。

 ここ。足の前あたり」


 そう言って、玉城の目の前の砂浜にそっと手を伸ばした。


「みんなも手を出して。すくうみたいに」


 陽翔たちは、ナミの動きを真似して、砂の上に両手を差し出した。

 指先が、まだひんやりした砂に触れる。


「声、出すよ」


 ナミが、ゆっくりと唱え始める。


「まーぶい、まーぶい、うーてぃくーよー」


 聞き慣れたはずの言葉が、今日は少し違って聞こえた。

 おまじないではなく――手順。儀式。


「はい、一緒に」


 ナミの促しで、全員が声をそろえる。


「まーぶい、まーぶい、うーてぃくーよー」


 砂浜に、妙に間の抜けた――けれど、背筋が伸びる響きが広がった。


「すくったマブイを、自分の胸じゃなくて“玉城の胸”に戻すイメージ」


 ナミが、ゆっくりと立ち上がりながら言う。


「はい。胸の前まで手を持ってきて――」


 陽翔は、すくった“何か”をそっと持ち上げるように、胸の前まで両手を運んだ。


「玉城の中心、ここ。そこに、ぽんって戻す」


 ナミが、玉城の胸の上あたりを軽く叩く。


 陽翔たちも、それぞれの手を胸の前で止めた。


 一瞬、風の音が遠くなった気がした。


「――ん」


 玉城の喉から、小さく声が漏れる。


「うわっ」


 肩がびくんと揺れて、目がぱちりと開いた。


「お、おおお……これ……」


「どうだった?」


 ナミが覗き込む。


「なんか……瞬きしたら、授業終わってたみたいな感覚ですね」


「それ、普段からツルってなってるだけじゃないですか、先生」


 璃子が容赦なくツッコむ。


「違う違う。さっきまでちゃんと意識あったはずなんだけど……

 いきなり“音だけ遠くなって”、気づいたら戻ってきた感じ」


 玉城は自分の胸に手を当て、何度か深呼吸した。


「頭の中が“間”を飛ばされた感じというか。こえーな、これ」


「でも、戻ってきてるでしょ?」


 ナミが笑う。


「はい。

 顔見たら、みんなの“心配”と“ニヤニヤ”が同時に刺さってきました」


「いい実験台でした、先生」


 真帆が真面目な顔で言う。


「フォローの言葉がどこにもない!」


 浜にも、ちゃんと笑い声は響いた。


「はい、次」


 ナミが今度は全員を見渡す。


「一人ずつ、自分のマブイを“わざと半歩ずらす”練習をする。

 でも今日は軽くね。酔う前に戻す」


「半歩ずらすって、どうやるんですか」


 陽翔が尋ねる。


「簡単に言うと、“意識のピントを外す”」


 ナミは、自分の目の前で指を一本立てた。


「これ見て。指にピント合わせたら、後ろの景色ぼやけるさ?」


「ああ、はい」


「逆に、後ろの景色に意識合わせたら、指がぼやける」


 ナミは指をそのままにして、背後の海を顎でしゃくる。


「マブイもそれに似てるさ。

 今ここ、指のところに“自分の中心”合わせてる状態。

 それを少しだけ、“後ろの景色”にずらす」


「ずらしたまま戻ってこなかったらどうするんですか」


 美琴が不安げに聞く。


「そのときは、みんなでさっきみたいにマブイグミする。

 だから、“誰かが見てる場”でやるのが大事」


 そう言って、ナミは砂浜の真ん中に立った。


「じゃあ、最初は……」


 ゆっくりと視線を巡らせ――ぴたりと止める。


「璃子」


「はい来た」


 璃子は一瞬だけ驚いたが、すぐに笑顔に戻った。


「よっしゃ、エースアタッカー行きまーす」


「さっき自分で言った設定を回収するな」


 陽翔が小さくツッコむ。


「そこの岩の前まで来て」


 ナミが指さしたのは、海との境目にある、少し高くなった岩場の手前。

 足を滑らせても尻もちで済みそうな高さだ。


「ここなら、もしふらついても怪我はしない」


「本気で安全管理してるの、ちょっと笑えない」


 玉城が額を押さえる。


「足は肩幅。目を閉じて。

 さっき玄武が教えた呼吸、ゆっくり十回」


「いち、にー……」


 璃子は素直に数え始めた。

 肩の力を抜き、何度か呼吸を繰り返す。


「頭の中で、“ゲームのログアウト画面”をイメージして」


「急に具体的な例えきたね?」


「自分のキャラが画面の端っこに立ってて、

 『ほんとにログアウトしますか? はい/いいえ』って出てるの想像して」


「あるある……」


 璃子の声が、少しだけ遠くなる。


「“いいえ”にカーソル合わせたまま、指だけ“はい”のほうに近づけてみて」


「それ、押しちゃったらどうなるの」


 陽翔が思わず口を挟む。


「押す前に止めるさ」


 ナミが短く言う。


「璃子。今の体の重心はどこ?」


「んー……足の裏、かな。

 でも、なんかちょっと、頭が軽い」


「その“軽さ”が広がりすぎる前に、自分で戻しなさい」


 ナミの声が、少しだけ低くなる。


「足の裏。砂の感触。

 潮の匂い。風の音。

 それを一個ずつ、拾い直して」


 しばらく沈黙。


 陽翔は妹の顔をじっと見た。

 さっき玉城のときに見た“ここにいない顔”ではない。

 けれど、その一歩手前までは行っている――そんな感じ。


「……戻ってきた」


 璃子が、ふっと息を吐いた。


「おかえり」


 ナミが笑う。


「どうだった?」


「ログアウトボタンの上にカーソル乗ったけど、押す前にやめた感じ」


「なんだその分かりやすい報告」


 陽翔が呆れながらも、胸の中でそっと安堵する。


「でも、分かった。

 足の裏の砂の感じとか、波の音とか、“戻る場所”をちゃんと決めておけば、

 ちょっとくらいフラっとしても帰ってこられるっていうか」


「そう。

 マブイグミって、“戻る場所を自分で覚え直す”ための儀式でもあるさ。

 さっきの言葉も、動きも、その手助け」


「じゃあ、次は――」


 ナミの視線が、ゆっくり陽翔に向いた。


「ハルト」


「……だよな」


 予想はしていた。

 胸の奥で、あの“ぷつぷつ切れかける流れ”が、またざわめく。


「ここまで見てたでしょ。

 自分の番を飛ばしても、いずれ泉の前でやることになる」


「分かってる」


 陽翔は一歩前に出た。


 海の音が、さっきよりずっと近く聞こえる。

 ナミに言われる前に、軽く目を閉じた。


「呼吸、十回ね」


 玄武の声が、少しだけ柔らかく響いた。


「途中で苦しくなったら、そこでやめていい」


「……了解」


 陽翔は、鼻からゆっくり吸って、吐いた。


 一回。

 二回。

 三回。


 胸の奥の流れが、息に合わせて上下する。

 その中央で、いつもの“ぷつぷつ”が、じわりと顔を出し始めた。


「頭だけで考えようとするな」


 玄武の声が飛ぶ。


「足。砂。今どっちに重心があるか、ちゃんと感じろ」


 陽翔は意識を足もとに落とした。

 指の間に入り込む砂。

 かかとの少し冷たい感覚。


 それでも、胸の流れは勝手に揺れる。


 暗い拝所。

 黒い“海”。

 女の声。


『お前は……何度、流れを壊すつもりだ』


 あの声が、不意に耳の奥で蘇る。


「っ……」


 踏ん張った足が、わずかに砂の上でずれた。


「ハルト」


 真帆の声が、すぐ横から飛ぶ。


「今、どこ見てる?」


「……分かんない」


 陽翔は正直に答えた。


「目の前が、ちょっとだけ暗くなってる。

 さっきまで晴れてたのに、夜の音が混ざってる感じ」


 潮の音に、あの拝所の静けさが混じる。

 砂の感触と、湿った石段の感覚が、足裏で重なった。


「ハルト。“今ここ”を一個言って」


 ナミが、はっきりした声で言う。


「久高島。昼間。足もと砂。潮の匂い。波の音。

 にぃにぃの隣に、りこいる」


 最後の一つだけ、璃子の声だった。


「……ああ」


 陽翔は、少しだけ息を吐く。


 暗闇が、一歩ぶん遠ざかる。


「マブイグミ、行くよ」


 ナミが、陽翔の足もとを指さした。


「今、ハルトのマブイの一部が、そこにこぼれてる。

 自分で拾って、自分で戻す」


 陽翔は、言われたとおりに片膝をついた。

 砂に手を伸ばす。


 指先が、ひやりと冷たい何かに触れた気がした。


「声、出して」


 ナミの声が合図になる。


「まーぶい、まーぶい、うーてぃくーよー」


 陽翔は、自分の声が少しかすれていることに気づいた。


 それでも、砂の上から“何か”をすくって、胸の前まで持ち上げる。

 その動きに合わせて、周りからも声が重なる。


「まーぶい、まーぶい、うーてぃくーよー」


 胸の中心に、すくい上げた“何か”を押し当てるイメージをする。


 その瞬間――

 暗い拝所の光景が、一瞬だけ強くフラッシュバックし、

 次の瞬間には、潮の匂いと昼の光に上書きされた。


「……戻った?」


 璃子の声が、すぐ隣から聞こえる。


「……ああ」


 陽翔は、大きく一度息を吐いた。


「さっきより、胸の流れが、ちょっとだけ太くなった気がする」


「いいね」


 ナミが満足そうに笑う。


「それが分かるなら、泉の前でも、まだ戦えるさ」


「泉の前、ね」


 陽翔は、海のほうを見やった。


 今見ているのは、真昼の久高島の海。

 けれど、そのずっと先に――

 月のない夜と、黒い“流れの反転”が、確かに待っている気がした。


「今日はここまで。

 あんまりやりすぎると、逆に足もとふらつくからね」


 ナミが、手をぱんと打つ。


「午後は、各自好きにしていいよ。

 ただし、島からは出ないこと」


「はーい」


 璃子が元気よく返事をする。


「にぃにぃ、あとで砂浜で写真撮ろ。

 マブイ修行前後ビフォーアフター」


「顔色の差がひどそうだからやめろ」


 陽翔が苦笑する。


「じゃあ、ハルト」


 みんなが少しずつ散っていく中で、ナミが小さな声で呼び止めた。


「さっきの“夜の音”の話、あとで詳しく聞かせてね」


「……覚えてるとは限らないぞ」


「それでもいいさ。

 覚えてない“はず”のものが口から出てくるかどうか、それが大事だから」


 ナミは、そう言って海のほうを見た。


「泉に近づく前に、できるだけ“今ここ”を増やしときなさい。

 前と今の境目に、うっかり足を取られないようにね」


 陽翔は、小さくうなずくだけで答えた。


 砂浜には、さっきまで自分たちが立っていた足跡が、やわらかく残っている。

 それは、波がくればすぐ消えてしまうだろう。


 けれど――

 さっき胸に戻した“何か”だけは、簡単には消えないはずだと、

 なぜかそう確信できた。

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