第16話:消失(ロスト)
夜の静寂が降りる、仲宗根ツル――由美にとっての祖母ツルの家。
仏壇に焚かれた線香の香りが、まだ微かに座敷に残っていた。
その一角で、由美は灰色のスーツの男と向かい合っていた。
男は名乗った。「沖縄県霊災対策課の者です」と。
「祖母ツル……仲宗根ツル様の件で、少々お話がありまして」
言葉遣いは丁寧ながら、男の目には温度がなかった。
何かを“計る”ように、由美の顔を見つめている。
その時、玄関先で、車のブレーキ音とスライドドアの開閉音が聞こえた。
複数の足音が駆け足で近づいてくる。
「……陽翔?」
由美は息を呑み、立ち上がる。男の視線も玄関へと向いた。
引き戸が勢いよく開かれ、璃子が駆け込んでくる。
「ただいまっ!」
靴もそのままに、ばたばたと中へ駆ける璃子。続いて、真帆、玉城、そして――
「ごめん、遅くなった。事故渋滞に巻き込まれて……」
陽翔が顔を見せた。少し疲れた表情だったが、その姿に由美の緊張が一瞬だけ緩む。
ふと気づいて、全員の視線が、座敷にいる男へと向かう。
見知らぬ訪問者。その異様な空気に、場が凍る。
男――新垣はゆっくりと立ち上がり、丁寧に一礼した。
「ご家族の皆さんもお揃いのようで、何よりです。少し、お話を……」
その言葉の途中で、真帆はふと――違和感を覚えた。
新垣の周囲に、“何か”が揺れている。
煙のような、波紋のような、風の流れのような……目には見えないはずの“マブイの気配”。
(……見えてる? まさか、これが……)
久高島で出会ったナミさんが言っていた、「結のマブイ」。
「あなたの中に、縁を繋ぐ力がある」と言われた時の言葉が、頭をよぎる。
(これが、ナミさんが言ってた“結のマブイ”?)
確信はない。ただ、何かが自分の中で変わり始めている――
真帆はそれを肌で感じていた。
しかしその時、新垣のまなざしが、ふと彼女へと向けられた。
――目が合う。
何か真帆の背筋に冷たい電流のようなものが走る。
新垣もまた、“何か”を見ている目だった。
彼の視線は、ただ真帆を見るものではなかった。
その奥に――彼女の内に揺れる“流れ”を、まるで透かし見るような……。
真帆は思わず息を止める。
(……この人も、“見えてる”?)
確証はない。けれど、彼のまなざしが、ただ者ではないことは明白だった。
家族の再会に安堵したのも束の間。
この座敷には、別の空気が漂い始めていた。
* * *
「……県の“霊災対策課”と申します。おばあ様の件、少しだけ話を伺えればと」
新垣は微笑を浮かべながらも、ひとつひとつの動作がどこか研ぎ澄まされていた。
名刺にある役職はあまりにも物々しく、県の下部組織とは思えない雰囲気を醸し出している。
座敷には、香炉の煙がゆらりと漂っていた。かすかに残るツルおばぁの気配に、由美の背筋が緊張する。
「ツルさんの封印と、ご家系に伝わる“流れ”のことを……ほんの少し」
新垣の視線が、静かに陽翔へ向いた。
そのときだった。
陽翔の目が、ふと桐箱の上にある一枚の写真に吸い寄せられる。
すでに一度、目にしたはずのそれ。
七十六年前の写真――ツルと、陽翔とうり二つの青年が並ぶモノクロの一枚。
けれど今、そこから何かが“満ち始めている”のを陽翔は感じた。
――空気が変わる。
古びた写真の中央が、わずかに白くきらめいた。
光の粉のようなものが、ゆっくりと浮かび上がり……まるで静かに、空間を破ろうとするかのようなひびのようなものが走る。
「……なに?」
真帆が、胸元を押さえる。心臓の奥から、ぬるりとした熱が這い上がってくる。
(これは……流れてる?)
懐かしくて、知らない感覚。
“久高島のナミさん”が言っていた「結のマブイ」という言葉が、脳裏を掠める。
(まさか、今のが……?)
「……にぃに、どうしたの」
璃子が不安げに陽翔に寄り添った。
だが陽翔の意識は、すでに写真に釘付けになっていた。
何かが、心の奥底で小さく囁く。
「お前はまだ、帰ってきていない」と。
陽翔はそっと写真に手を伸ばす。
陽翔の指が写真に触れた途端、
座敷の空気がふっと張り詰める。
光が――最初は小さな波となり、じわじわと畳を照らし始めた。
やがて、
写真の中心から淡い輝きが漏れ、畳の上に幾重もの円が浮かび上がる。
その輪郭はゆるやかに広がり、
まるで太古の御嶽に刻まれた“渦”や“結び”の紋様が、
静かに、だが確かに現れていく。
光の模様が陽翔の足元を包み、
絡まるようにして腕、胸へと忍び寄る。
静かなさざ波が肌を這う感触に、陽翔の心臓の音が響く。
真帆の胸元もまた、ほのかな光で波打ち、
ふたつの輝きが部屋の空気の中でそっと重なった。
部屋中に、沖縄の古き儀式を思わせる幾何学の文様が、
淡く、けれど鮮やかに浮かび上がる。
線と渦がゆるやかに回転し、
やがて天井へ、壁へと広がり出す――
陽翔が息を呑むと、
ひび割れるような音もなく、
現実の空間に見えない裂け目が生まれた。
光の模様は陽翔を中心に収束し、
やがて眩い渦となって彼を包みこむ。
「にぃにぃ――!」
誰かの叫びが、遠ざかる。
あたりは静かに裏返り、
気がつけば、陽翔の姿は光の中へと溶けて消えていた。
一閃の閃光。そして、静寂。
写真がふわりと空中を舞い、静かに桐箱へと戻る。
蓋が、コトン、と音を立てて閉じた。
リビングには、ただ静けさだけが残された。
誰も言葉を発せず、ただ消えた空間を見つめている。
やがて、璃子が膝を抱えたまま、ぽつりとつぶやく。
「……にぃにぃは、絶対に帰ってくる」
その声が、みんなの胸に小さな火を灯した。
真帆はしばらく動けずにいた。
胸元に手を添えると、そこにはさっきまで感じていた流れの名残が、かすかに残っていた。
(……あの温もりは、なんだったんだろう)
流れが読めた――そう思った途端に、彼が消えた。
ナミさんが言っていた“結のマブイ”という言葉が、また脳裏に浮かぶ。
「でも……私、まだ……わからない……」
言葉にするには不確かすぎて、手応えもない。
だけど、あの光の中で、確かに陽翔と“繋がった”感覚だけは、心に焼きついている。
由美は立ち尽くし、
桐箱の前で、静かに手を合わせていた。
その瞳には、怒りも悲しみも、ただ“覚悟”の色だけが灯っていた。
「おばぁ……どうして……」
心の中で問う。
すると――
ほんの一瞬だけ、瞼の裏に浮かんだあの光景。
さっき、新垣の背後にふいに現れた、ツルの幻影。
笑っていた。
まるで、すべてを知っているかのように。
ふいに、ツルおばぁの言葉が、微かな風となって全員の耳に届く。
『信じて待ちなさい。すべては、きっとなるようになるさぁ――』
その響きが、まるで見えない手で、皆の背をそっと押すのだった。
「……ばあば……」
由美は唇をかすかに噛み、涙をこらえた。
そのとき、璃子が顔を上げる。
頬には涙の跡。
でも、その目は赤くなりながらも、しっかりと前を向いていた。
「……にぃにぃは……絶対に、帰ってくるから……」
言葉の端は震えていたが、それでも懸命に続けた。
「あたし、信じてる。だから……絶対、迎えにいくんだからね……っ」
誰に向けたわけでもないその言葉に、真帆もゆっくりと頷いた。
「……そうだね。私たちで……陽翔を探そう」
胸に残る、あの温かい流れ。
あれが“何か”に繋がっていると、そう信じたい。
「必ず……何が起きたのか、突き止める。どんなことがあっても」
静かに、力強く。
玉城は窓の外を見やったまま、腕を組む。
「時の力か……封印か……いや、マブイそのものの現象かもしれん。だが、情報が足りない」
彼もまた、まだ顔を上げられない璃子に目を向け、
「立ち止まってる暇はないな」と、かすかに呟いた。
リビングに沈黙が戻る。
だが、そこにあるのは絶望ではなかった。
陽翔が消えたその空間に、
“彼が必ず戻る”と、全員が信じている温度だけが、残されていた。
そして誰も知らない。
* * *
光の残滓がまだ微かに揺れている座敷で、誰もが言葉を失っていた。
璃子は膝を抱えて俯き、真帆は胸元を押さえたまま、呆然とした瞳で空間の裂け目があった場所を見つめている。
由美もまた、震える指先で桐箱の蓋をそっと閉じた。
空になったその中に、陽翔の気配だけが残っているようだった。
そんな静寂を破るように、新垣が一歩、前へ出た。
「……まずは、お伝えしなければなりません」
落ち着いた低い声が、部屋に響く。
その声音には同情も哀しみもない。ただ、事実を淡々と告げる役目としての冷徹な響きがあった。
「我々“霊災対策課”は、県の独立機関です。
表向きには存在しない部署とされていますが……今この地で起きている霊的異常に対処するため、特別に設けられたものです」
彼のスーツの胸元に見え隠れする黒い徽章。
それが確かに、行政の一端に連なる存在であることを静かに主張していた。
玉城が険しい顔で問いかける。
「ツルさんの“封印”……それが今の異変とどう関係してる?」
新垣は頷き、視線を写真のあった場所へと向けた。
「仲宗根ツルさんの系譜には、まだ明かされていない“封印”が存在しています。
それは、ごく限られた記録の中にすら現れない……忌避された力の流れです。
そしてそれが、近年多発している“影の顕現”と密接に結びついていると我々は見ています」
「……影……」
璃子が呟く。
かつてツルおばぁが語っていた“見えざるもの”の存在を、彼女だけがふと思い出していた。
「これ以上の詳細は現時点では申し上げられませんが……」
新垣は言葉を選ぶように一拍置き、続けた。
新垣は、静かに家族と仲間を見渡す。
「……お伝えしなければなりません。
この家系は、未だ明かされていない“封印”と、それを巡る流れの只中にあります。
これから先、皆さんも――例外ではいられません」
その目は、まるで未来の災厄を見通しているかのようだった。
その言葉に、真帆の眉がわずかに動いた。
彼女に向けられた新垣の視線は、ほんのわずかに鋭さを増していた。
(やっぱり……私のマブイを、見えてる?)
真帆の胸にはまだ、あの温かな残響がわずかに残っていた。
結のマブイ――そうかもしれない、けれど確証はない。
ナミさんが言っていた言葉が、今さらながら胸の奥で反芻される。
新垣はそれ以上踏み込まず、静かに言った。
「……今日はこれ以上、詮索はいたしません。だが、覚えておいてください。
“流れ”は、思いもよらぬ形で人を選び、試練を与える。
皆さんが何も知らぬまま巻き込まれたとは、我々も思っていません。
――ですが、それは“免罪符”にはなりません」
静かな宣告だった。
リビングの空気は張りつめていた。
誰もが喪失の余韻を抱えながら、
その中に、確かに“始まりの気配”を感じ取っていた。
ツルの幻影が語ったあの言葉――
「信じて待ちなさい。すべてはなるようになるさぁ」
それは、ただの優しい慰めではない。
この先に訪れる現実の荒波を、覚悟せよという声にも聞こえた。
こうして、「家族の団らん」は、
いつしか“異界への扉”へと変貌していた。
残された者たちの胸に、それぞれの決意が芽吹いてゆく。
――そして、新たな物語が静かに、動き出す。
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