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マブイロスト  作者: カーシュ
第1章 影の島への帰郷
14/32

第14話 島巡りと、泉の入口

 朝の久高島は静かだが、どこか「島に見られている」ような気配があった。


 港のほうから小さなエンジン音、どこかの家のラジオのニュース。

 あとは波と鳥の声だけが、島全体を薄く包んでいる。


「おはようさん」


 具志堅ナミの家に行くと、玄関先でナミと宮城玄武が待っていた。

 二人とも島ぞうりにラフな服装。歩き回る気満々だ。


「今日は島を回るよ。水と帽子、ちゃんと持ったね?」


「はい」


 ペットボトルを掲げる陽翔の隣で、璃子が大あくびをかみ殺す。


「島巡り、朝イチからボス前ダンジョン感あるんだけど、にぃにぃ……」


「朝からゲーム脳やめろ」


「いい例えだと思いますよ。今日のフィールドワークは、まさに“ボス前下見”ですし」


 玉城が妙に楽しそうに言い、真帆がすぐさま突っ込む。


「先生、それを学生に言った瞬間サボり率跳ね上がりますからね」


 そんなやり取りの中、南風原美琴がおそるおそる手を挙げた。


「あの……ダンジョンとは、“少し危ない探索ルート”という理解でよろしいんでしょうか」


「訳が真面目だな」


 陽翔が苦笑すると、ナミがぱん、と手を叩いた。


「はいはい、朝から漫才ありがとさん。

 今日は重い話も混ざるからね。元気なうちに歩くよ」


「今日は、久高の御嶽と、泉に続く道の入口。

 それから、ツルが話してた“あっちの御嶽”の話も少しね」


「あっち、というのは……本島側の斎場御嶽ですか?」


 美琴が確認すると、ナミはうなずく。


「そう。ツルが最初に拾われたのは久高じゃなくて、南部の斎場御嶽。

 久高は、戦の終わりに辿り着いた場所。ツルにとっては二番目の御嶽さ」


 陽翔は心の中で、自分の中の「ツル=久高スタート」のイメージを書き換えた。


「斎場、拾われた場所。久高、避難してきた場所……」


 美琴が小さな手帳に素早く書き込む。


「真面目すぎて眩しいな」


「こうしておかないと、あとで頭の中がぐちゃぐちゃになるので……」


 美琴が照れたように笑い、ナミがくるりと背を向ける。


「じゃ、行こうか。暑くなる前に、一番ややこしい話から片付けようね」


 先頭を玄武、そのすぐ後ろをナミ。

 陽翔たちは、その後ろに列を作った。


 ◇


 集落を抜けて少し歩くと、低い石垣に囲まれた小さな御嶽に着いた。

 古びた石と、低い木が一本だけ伸びている。


「ここが、久高の“入口の御嶽”の一つさ」


 ナミは柵の手前で静かに頭を下げる。

 玄武も無言で深く礼をした。


 陽翔たちも、見よう見まねで身体をかがめる。


「観光では『神さまのいる場所』とか『拝所』って説明されること多いさね」


 ナミは御嶽を見たまま続けた。


「でも、ノロからするとね。ここは“向こうからの風が通る窓の縁”みたいな場所さ」


「窓……」


 美琴がつぶやく。


「人の祈りも通るし、向こうからの気配も通る。

 斎場と久高は、窓枠は違っても、同じ風の道に開いてる感じ」


 美琴の目が少し大きくなる。


「では、“命の風”が通る道があって、

 その道に別々の窓が開いているような……」


「その言い方、嫌いじゃないね」


 ナミが笑う。


「ツルは、最初に斎場の窓の縁で拾われて、

 戦の終わりに、久高の窓の縁まで流れ着いた。

 その途中で、一度だけ泉に触った」


 泉、と聞いた瞬間、空気がわずかに冷えた。


「その話の続きは、もう少し先でね」


 ナミは御嶽にもう一度頭を下げ、一行は歩き出した。


 ◇


 やがて視界がぱっと開け、白っぽい砂と青い海が広がった。


「ここ」


 ナミが、砂浜の少し高くなったところの平たい岩を指さす。


「ツルが戦後、久高に戻ってきたとき、よくここに座ってたよ。

 わんも若い頃、一緒に座って、ただ海を見ながら話を聞いた」


 岩の表面は少し滑らかで、浅い窪みがある。

 誰かが何度も腰を下ろした痕だ。


「座りなさい。立って聞くには、ちょっと重い話さ」


 ナミが岩に腰を下ろし、玄武も近くの岩に座る。

 陽翔たちも砂や岩に腰を下ろした。


「ツルは、戦の話はあまりしなかった。

 でも泉の話と、泉の“匂い”の話は、何度もしてた」


 ナミは海を見たまま言葉を置いていく。


「『戦の前の泉は、雨上がりの土の匂いだったさ』って。

 濡れた土が、日が出れば乾いていく途中の匂い。

 “変わったけど、まだ日常に戻れる前の匂い”」


「戻れる前の匂い……」


 美琴が静かに復唱する。


「戦の終わりが近づいた頃、その匂いが少しずつ変わった。

 海の底で腐った藻みたいな匂いが混ざってきたって」


 浜を吹き抜ける風が、一瞬だけ重くなる。


「腐った藻は、もう元には戻らん。

 ツルはね、その匂いを嗅いだとき、

 『泉の底で、何かの終わり方が変わり始めてる』って感じたって」


 陽翔は、備瀬で見た黒い染みと、母が海に歩いていきかけた姿を思い出す。


「ツルが一度だけはっきり言った言葉がある」


 ナミの声が少し低くなった。


「『戦争の最中より、今のほうが怖いさ』ってね」


「今のほうが……ですか」


 美琴が顔を上げる。


「戦の最中は、怖いのが当たり前。

 みんな必死で、明日まで生きることで精一杯。

 でも、終わったあと、人は忘れようとする。

 泉のことも、マブイのことも、戦のことも」


 ナミは指先の砂を払う。


「『忘れられていくほうが、よっぽど怖いさ』って。

 覚えてる人が減れば、そのことに祈る人も減る。

 祈りが減れば、命の流れを整える力も細くなる。

 その隙間を、影みたいなものが狙う」


「“守る仕組み”が、だんだん弱くなってしまう……みたいな」


 美琴が言葉を選ぶと、ナミは「そう」と笑った。


「だからツルは、ナミに何度も話した。

 『忘れさせんでよ』って顔してね」


 陽翔の胸が、じくりと痛んだ。


(俺は……泉の話、ほとんど聞いたことがない)


 祖母は、確かに何かを話そうとして、やめたことが何度かあった。

 その続きを、今、別の場所で聞かされている。


「メモ、取らないんですね?」


 璃子が隣で美琴に囁く。


「……これは、紙じゃなくて、胸の中に書いておきます」


 美琴は、手帳を閉じて胸の前で両手を重ねた。


「いいね、それ」


 真帆がどこか嬉しそうに笑う。


「紙よりも、そっちのほうが消えにくいし」


「先生は今、『全部録音して論文に……』とか考えてる顔ですけどね」


 陽翔が横目で玉城を見ると、案の定、目がきらきらしていた。


「いやあ、“久高島における泉伝承の口述史”…」


「先生、それ本気でやったら島の人と泉の両方から怒られますよ」


 真帆のツッコミに、浜の空気が少しだけ和らぐ。


 波の音が一度深く沈んで、ゆっくり戻ってきた。


「よし。座って聞く話は、今日はここまで」

 

 ナミが立ち上がる。


「続きは、泉の手前に立ったときに話したほうが早いさ。

 そろそろ森に入るよ」


「はい」


 陽翔たちも立ち上がった。

 ツルが座っていた岩の窪みが、さっきより少し重く見えた。


 ◇


 浜から離れ、島の中央へ向かうと、緑が濃くなっていく。


 枝が頭上で絡み合い、光が細かく刻まれて地面に落ちる。

 蝉の声と葉擦れの音が、耳の奥でひとまとまりのざわめきになった。


「ここも、御嶽ですか?」


 真帆が小声で尋ねる。


「うん。さっきとは役目の違う御嶽ね。

 昔は男の人は、そう簡単には入らんかった場所」


「じゃ、俺アウトか」


「入口までだからセーフ」


 ナミが軽く笑った、その時。


 音が、ふっと薄くなった。


 さっきまで近くに聞こえていた蝉の声が、少し遠ざかる。


「……今の、分かりました?」


 美琴がぴたりと足を止め、胸元に手を当てた。


「何か感じた?」


 ナミが振り向く。


「はい……外の音の“膜”が一枚剥がれて、

 耳の中のほうにある音だけが前に出てきたような……変な感覚で」


「層が一つずれた、ってことね」


 ナミの目が細くなる。


「それ、誰に教わった?」


「昔……那覇で、“視ること”を教えてくれた人がいて。

 ここぞという時は、こうやって息を整えろって、手の動きも」


 美琴は、無意識に空中で輪を作るような指の動きをしていた。


「ちゃんとしたノロの弟子ってわけじゃない?」


「……正式な修行ではなくて、私が勝手に“師匠”と呼んでいただけです」


「ユタやノロに学校はないさ。

 でも、“視ること”を教えてくれたなら、その人は美琴にとって師匠さね」


 ナミは美琴の肩を軽く叩く。


「ヤマトの術と島の線が、ちょっと混ざってるタイプ。

 泉の前で、その混ざり方がどう出るかは、ナミも見たいところさ」


「実験台扱いされてる気がします……」


「大丈夫、大丈夫、みこっちゃんはテストプレイヤーだから」


 璃子が肩を組み、美琴が小さくため息をついた。


「テストプレイヤーって言われると、バグった自分が怖いんですけど」


「最悪バグったら、にぃにぃがセーブポイントからやり直してくれるし」


「だからどこにあるんだよ、そのセーブポイント」


 陽翔が反射的に突っ込み、玉城が「いいフレーズですね」と真面目にメモを取ろうとして真帆に止められた。


 ◇


 さらに少し進むと、空気のざらつきが一段濃くなった。


 玄武が、ぴたりと足を止める。


「この先が、泉に続く道の入口だ」


 顎で示した先には、他の道とは違う、細い獣道のようなものが続いている。

 草の高さはたいしたことがないのに、その奥だけ、妙に暗く沈んで見えた。


 ナミは入口から二、三歩手前で止まり、振り返る。


「今日は、ここまで」


 さっきまでとは違う、きっぱりした声。


「泉は、好奇心で近づいていい場所じゃない。

 ツルも戦の後は、そう言ってたさ」


「あの……一つ伺ってもいいでしょうか」


 美琴が丁寧に手を挙げる。


「泉というのは、“マブイが落ちやすい場所”という理解でいいのか、

 それとも、“マブイが溜まった場所”でしょうか」


「どっちも正解で、どっちも違う、って感じだね」


 ナミは少し考え、続けた。


「落ちやすいし、溜まりやすい。

 でも泉はただ“溜まる”だけじゃなくて、“流れの向きを変える”場所でもある」


「向き……」


「普通は、上から下。生きて、死んで、命の流れは海の底のほうへ静かに落ちていく。

 でも泉の底に何かが溜まって、向きが反転したら、

 下から上に、無理やり引っ張る流れになる」


「だから、生きている人まで引きずり込まれる……」


 美琴の言葉に、ナミがうなずく。


「ツルはね、『戦の終わりの頃、泉の匂いがひっくり返る瞬間を感じた』って言ってた。

 生きてる人の命の流れを、底からもぎ取ろうとするみたいな力を、はっきり感じたって」


 玄武が、入口より少し手前の土を足先で軽く踏んだ。


「この先は、明日だ」


 踏んだ場所の土は、他より少し湿って見える。


「今日は、この入口まで近づいたときの“自分の感じ”だけ覚えときなさい。

 胸が重いか、頭がぼうっとするか、足が勝手に前に出そうになるか」


 ナミが、一人ひとりの顔を見る。


 陽翔は、自分の鼓動に意識を向けた。

 早すぎはしない。ただ、喉がやけに乾いている。


「……変な感じがします」


「どんな?」


「初めて来たのに、前にもここまで来たことがあるような。

 ここに立って、この道を見てた誰かの肩越しの景色を、もう知ってるような……」


 言いながら、自分で寒気がした。


「ふん。ツルも戦後ここまで来たとき、似たこと言ってたよ」


 ナミが鼻を鳴らす。


「『子どもの自分と、戦の終わりの自分と、今の自分が、全部ここに並んでる気がする』って」


 陽翔の頭の中で、場所が繋がる。


 斎場御嶽。

 南部の浜。

 本部の備瀬。

 そして、久高の泉。


 ツルの時間が通ってきたルートと、自分たちが今立っている場所が、一本の線になっていく。


「にぃにぃのその“懐かしいかも”って感覚、多分ツルおばぁからのおすそ分けだよ」


 璃子が珍しく真面目な声で言う。


「ツルおばぁが見た景色のログが、にぃにぃのどっかにも残っててさ。

 ここ来た瞬間、既視感フラグがぴこーんって」


「ログとかフラグとか、便利に言うな」


 陽翔がため息をつくと、玉城が腕を組んだ。


「いやあ、“ログとフラグとマブイの流れ”。

 この一族の物語、講義一本できそうですね」


「先生、その講義受けた学生のマブイが先に落ちそうです」


 真帆が即座に止めに入り、玄武が小さく笑った。


「あの……もう一つだけ」


 美琴が控えめに手を挙げる。


「泉に近づくとき、“怖い”と感じたほうがいいのか、

 それとも“何も感じないようにする”ほうがいいのか……

 どちらが、泉の前では安全なんでしょうか」


 ナミと玄武が、一瞬だけ顔を見合わせた。


「何も感じないふりをするのが、一番危ないさ」


 先に口を開いたのはナミだった。


「怖いなら、“怖い”って分かってたほうがいい。

 何も感じないふりをすると、自分のマブイがどっかに逃げてるのに気づかんままになる」


「怖いと感じるのは、まだ命の流れが身体の中にいる証拠。

 何も感じん、何も考えたくないってなってるときは、もう半分外に出かけてるときだ」


 玄武が短く付け足す。


「……それは、確かに、嫌です」


 美琴は自分の胸元を押さえた。


「怖いときは、“怖いです”って言っていいからね」


 ナミが笑う。


「あんたは、“怖さの種類”を言葉にできる人だから。

 泉の前では、それが武器になるさ」


「どっちにしてもだ」


 玄武がまとめるように言う。


「ここから先は、一人で来るな。

 来週も来月も、どうしても来たくなったら誰か連れてこい。

 ツルもそれだけは守ってた」


「……はい」


 森の空気が、少しだけ軽くなった気がした。


「今日はここまで。

 真っ直ぐ戻って、ご飯食べて寝る。

 腹が減ってる人間と寝不足の人間から、マブイは落ちやすいからね」


 ナミが踵を返し、玄武が並んで歩き出す。


 戻りながら、美琴がそっと陽翔の隣に並んだ。


「さっき、“懐かしい”っておっしゃってましたよね」


「まあ……うん」


「それは、怖くはないですか」


 美琴の声は真剣だった。


「私、多分ここを懐かしいと感じたら、怖くて仕方がなくなると思って。

 だから、気になって」


 陽翔は少し考えてから答える。


「怖くないわけじゃないけど……

 “なんで懐かしいんだろう”って考えようとする分だけ、まだマシかな」


「考えようと、する分だけ」


「何も考えずに飲み込まれるより、

 “懐かしい気がするけど、それ何だ?”って疑ってたほうが、

 戻ってこられる気がする」


「……なるほど」


 美琴の表情が、少しだけ和らいだ。


「では、私が何か変なことを感じたら、ちゃんと口に出すようにします」


「そうしてくれ」


「代わりに、ゲーム用語が分からなくなったら、その都度質問しますね」


「それは……璃子担当で」


「え、にぃにぃひどくない?」


 璃子の抗議が森に響き、その声に少しだけ救われるような気持ちで、

 陽翔は泉の入口から離れていった。


 細い獣道の奥は、やはり暗い。

 だが、その暗さの向こう側で、誰かの笑い声と泣き声が重なったような気がした。


 ツルが一度だけ「終わり」を踏んだ場所。

 明日、自分たちは、その手前まで足を踏み入れる。


 怖さと、どうしようもない好奇心と。

 胸のざわつきを抱えたまま、陽翔は島の音のほうへ歩き続けた。

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