第14話 島巡りと、泉の入口
朝の久高島は静かだが、どこか「島に見られている」ような気配があった。
港のほうから小さなエンジン音、どこかの家のラジオのニュース。
あとは波と鳥の声だけが、島全体を薄く包んでいる。
「おはようさん」
具志堅ナミの家に行くと、玄関先でナミと宮城玄武が待っていた。
二人とも島ぞうりにラフな服装。歩き回る気満々だ。
「今日は島を回るよ。水と帽子、ちゃんと持ったね?」
「はい」
ペットボトルを掲げる陽翔の隣で、璃子が大あくびをかみ殺す。
「島巡り、朝イチからボス前ダンジョン感あるんだけど、にぃにぃ……」
「朝からゲーム脳やめろ」
「いい例えだと思いますよ。今日のフィールドワークは、まさに“ボス前下見”ですし」
玉城が妙に楽しそうに言い、真帆がすぐさま突っ込む。
「先生、それを学生に言った瞬間サボり率跳ね上がりますからね」
そんなやり取りの中、南風原美琴がおそるおそる手を挙げた。
「あの……ダンジョンとは、“少し危ない探索ルート”という理解でよろしいんでしょうか」
「訳が真面目だな」
陽翔が苦笑すると、ナミがぱん、と手を叩いた。
「はいはい、朝から漫才ありがとさん。
今日は重い話も混ざるからね。元気なうちに歩くよ」
「今日は、久高の御嶽と、泉に続く道の入口。
それから、ツルが話してた“あっちの御嶽”の話も少しね」
「あっち、というのは……本島側の斎場御嶽ですか?」
美琴が確認すると、ナミはうなずく。
「そう。ツルが最初に拾われたのは久高じゃなくて、南部の斎場御嶽。
久高は、戦の終わりに辿り着いた場所。ツルにとっては二番目の御嶽さ」
陽翔は心の中で、自分の中の「ツル=久高スタート」のイメージを書き換えた。
「斎場、拾われた場所。久高、避難してきた場所……」
美琴が小さな手帳に素早く書き込む。
「真面目すぎて眩しいな」
「こうしておかないと、あとで頭の中がぐちゃぐちゃになるので……」
美琴が照れたように笑い、ナミがくるりと背を向ける。
「じゃ、行こうか。暑くなる前に、一番ややこしい話から片付けようね」
先頭を玄武、そのすぐ後ろをナミ。
陽翔たちは、その後ろに列を作った。
◇
集落を抜けて少し歩くと、低い石垣に囲まれた小さな御嶽に着いた。
古びた石と、低い木が一本だけ伸びている。
「ここが、久高の“入口の御嶽”の一つさ」
ナミは柵の手前で静かに頭を下げる。
玄武も無言で深く礼をした。
陽翔たちも、見よう見まねで身体をかがめる。
「観光では『神さまのいる場所』とか『拝所』って説明されること多いさね」
ナミは御嶽を見たまま続けた。
「でも、ノロからするとね。ここは“向こうからの風が通る窓の縁”みたいな場所さ」
「窓……」
美琴がつぶやく。
「人の祈りも通るし、向こうからの気配も通る。
斎場と久高は、窓枠は違っても、同じ風の道に開いてる感じ」
美琴の目が少し大きくなる。
「では、“命の風”が通る道があって、
その道に別々の窓が開いているような……」
「その言い方、嫌いじゃないね」
ナミが笑う。
「ツルは、最初に斎場の窓の縁で拾われて、
戦の終わりに、久高の窓の縁まで流れ着いた。
その途中で、一度だけ泉に触った」
泉、と聞いた瞬間、空気がわずかに冷えた。
「その話の続きは、もう少し先でね」
ナミは御嶽にもう一度頭を下げ、一行は歩き出した。
◇
やがて視界がぱっと開け、白っぽい砂と青い海が広がった。
「ここ」
ナミが、砂浜の少し高くなったところの平たい岩を指さす。
「ツルが戦後、久高に戻ってきたとき、よくここに座ってたよ。
わんも若い頃、一緒に座って、ただ海を見ながら話を聞いた」
岩の表面は少し滑らかで、浅い窪みがある。
誰かが何度も腰を下ろした痕だ。
「座りなさい。立って聞くには、ちょっと重い話さ」
ナミが岩に腰を下ろし、玄武も近くの岩に座る。
陽翔たちも砂や岩に腰を下ろした。
「ツルは、戦の話はあまりしなかった。
でも泉の話と、泉の“匂い”の話は、何度もしてた」
ナミは海を見たまま言葉を置いていく。
「『戦の前の泉は、雨上がりの土の匂いだったさ』って。
濡れた土が、日が出れば乾いていく途中の匂い。
“変わったけど、まだ日常に戻れる前の匂い”」
「戻れる前の匂い……」
美琴が静かに復唱する。
「戦の終わりが近づいた頃、その匂いが少しずつ変わった。
海の底で腐った藻みたいな匂いが混ざってきたって」
浜を吹き抜ける風が、一瞬だけ重くなる。
「腐った藻は、もう元には戻らん。
ツルはね、その匂いを嗅いだとき、
『泉の底で、何かの終わり方が変わり始めてる』って感じたって」
陽翔は、備瀬で見た黒い染みと、母が海に歩いていきかけた姿を思い出す。
「ツルが一度だけはっきり言った言葉がある」
ナミの声が少し低くなった。
「『戦争の最中より、今のほうが怖いさ』ってね」
「今のほうが……ですか」
美琴が顔を上げる。
「戦の最中は、怖いのが当たり前。
みんな必死で、明日まで生きることで精一杯。
でも、終わったあと、人は忘れようとする。
泉のことも、マブイのことも、戦のことも」
ナミは指先の砂を払う。
「『忘れられていくほうが、よっぽど怖いさ』って。
覚えてる人が減れば、そのことに祈る人も減る。
祈りが減れば、命の流れを整える力も細くなる。
その隙間を、影みたいなものが狙う」
「“守る仕組み”が、だんだん弱くなってしまう……みたいな」
美琴が言葉を選ぶと、ナミは「そう」と笑った。
「だからツルは、ナミに何度も話した。
『忘れさせんでよ』って顔してね」
陽翔の胸が、じくりと痛んだ。
(俺は……泉の話、ほとんど聞いたことがない)
祖母は、確かに何かを話そうとして、やめたことが何度かあった。
その続きを、今、別の場所で聞かされている。
「メモ、取らないんですね?」
璃子が隣で美琴に囁く。
「……これは、紙じゃなくて、胸の中に書いておきます」
美琴は、手帳を閉じて胸の前で両手を重ねた。
「いいね、それ」
真帆がどこか嬉しそうに笑う。
「紙よりも、そっちのほうが消えにくいし」
「先生は今、『全部録音して論文に……』とか考えてる顔ですけどね」
陽翔が横目で玉城を見ると、案の定、目がきらきらしていた。
「いやあ、“久高島における泉伝承の口述史”…」
「先生、それ本気でやったら島の人と泉の両方から怒られますよ」
真帆のツッコミに、浜の空気が少しだけ和らぐ。
波の音が一度深く沈んで、ゆっくり戻ってきた。
「よし。座って聞く話は、今日はここまで」
ナミが立ち上がる。
「続きは、泉の手前に立ったときに話したほうが早いさ。
そろそろ森に入るよ」
「はい」
陽翔たちも立ち上がった。
ツルが座っていた岩の窪みが、さっきより少し重く見えた。
◇
浜から離れ、島の中央へ向かうと、緑が濃くなっていく。
枝が頭上で絡み合い、光が細かく刻まれて地面に落ちる。
蝉の声と葉擦れの音が、耳の奥でひとまとまりのざわめきになった。
「ここも、御嶽ですか?」
真帆が小声で尋ねる。
「うん。さっきとは役目の違う御嶽ね。
昔は男の人は、そう簡単には入らんかった場所」
「じゃ、俺アウトか」
「入口までだからセーフ」
ナミが軽く笑った、その時。
音が、ふっと薄くなった。
さっきまで近くに聞こえていた蝉の声が、少し遠ざかる。
「……今の、分かりました?」
美琴がぴたりと足を止め、胸元に手を当てた。
「何か感じた?」
ナミが振り向く。
「はい……外の音の“膜”が一枚剥がれて、
耳の中のほうにある音だけが前に出てきたような……変な感覚で」
「層が一つずれた、ってことね」
ナミの目が細くなる。
「それ、誰に教わった?」
「昔……那覇で、“視ること”を教えてくれた人がいて。
ここぞという時は、こうやって息を整えろって、手の動きも」
美琴は、無意識に空中で輪を作るような指の動きをしていた。
「ちゃんとしたノロの弟子ってわけじゃない?」
「……正式な修行ではなくて、私が勝手に“師匠”と呼んでいただけです」
「ユタやノロに学校はないさ。
でも、“視ること”を教えてくれたなら、その人は美琴にとって師匠さね」
ナミは美琴の肩を軽く叩く。
「ヤマトの術と島の線が、ちょっと混ざってるタイプ。
泉の前で、その混ざり方がどう出るかは、ナミも見たいところさ」
「実験台扱いされてる気がします……」
「大丈夫、大丈夫、みこっちゃんはテストプレイヤーだから」
璃子が肩を組み、美琴が小さくため息をついた。
「テストプレイヤーって言われると、バグった自分が怖いんですけど」
「最悪バグったら、にぃにぃがセーブポイントからやり直してくれるし」
「だからどこにあるんだよ、そのセーブポイント」
陽翔が反射的に突っ込み、玉城が「いいフレーズですね」と真面目にメモを取ろうとして真帆に止められた。
◇
さらに少し進むと、空気のざらつきが一段濃くなった。
玄武が、ぴたりと足を止める。
「この先が、泉に続く道の入口だ」
顎で示した先には、他の道とは違う、細い獣道のようなものが続いている。
草の高さはたいしたことがないのに、その奥だけ、妙に暗く沈んで見えた。
ナミは入口から二、三歩手前で止まり、振り返る。
「今日は、ここまで」
さっきまでとは違う、きっぱりした声。
「泉は、好奇心で近づいていい場所じゃない。
ツルも戦の後は、そう言ってたさ」
「あの……一つ伺ってもいいでしょうか」
美琴が丁寧に手を挙げる。
「泉というのは、“マブイが落ちやすい場所”という理解でいいのか、
それとも、“マブイが溜まった場所”でしょうか」
「どっちも正解で、どっちも違う、って感じだね」
ナミは少し考え、続けた。
「落ちやすいし、溜まりやすい。
でも泉はただ“溜まる”だけじゃなくて、“流れの向きを変える”場所でもある」
「向き……」
「普通は、上から下。生きて、死んで、命の流れは海の底のほうへ静かに落ちていく。
でも泉の底に何かが溜まって、向きが反転したら、
下から上に、無理やり引っ張る流れになる」
「だから、生きている人まで引きずり込まれる……」
美琴の言葉に、ナミがうなずく。
「ツルはね、『戦の終わりの頃、泉の匂いがひっくり返る瞬間を感じた』って言ってた。
生きてる人の命の流れを、底からもぎ取ろうとするみたいな力を、はっきり感じたって」
玄武が、入口より少し手前の土を足先で軽く踏んだ。
「この先は、明日だ」
踏んだ場所の土は、他より少し湿って見える。
「今日は、この入口まで近づいたときの“自分の感じ”だけ覚えときなさい。
胸が重いか、頭がぼうっとするか、足が勝手に前に出そうになるか」
ナミが、一人ひとりの顔を見る。
陽翔は、自分の鼓動に意識を向けた。
早すぎはしない。ただ、喉がやけに乾いている。
「……変な感じがします」
「どんな?」
「初めて来たのに、前にもここまで来たことがあるような。
ここに立って、この道を見てた誰かの肩越しの景色を、もう知ってるような……」
言いながら、自分で寒気がした。
「ふん。ツルも戦後ここまで来たとき、似たこと言ってたよ」
ナミが鼻を鳴らす。
「『子どもの自分と、戦の終わりの自分と、今の自分が、全部ここに並んでる気がする』って」
陽翔の頭の中で、場所が繋がる。
斎場御嶽。
南部の浜。
本部の備瀬。
そして、久高の泉。
ツルの時間が通ってきたルートと、自分たちが今立っている場所が、一本の線になっていく。
「にぃにぃのその“懐かしいかも”って感覚、多分ツルおばぁからのおすそ分けだよ」
璃子が珍しく真面目な声で言う。
「ツルおばぁが見た景色のログが、にぃにぃのどっかにも残っててさ。
ここ来た瞬間、既視感フラグがぴこーんって」
「ログとかフラグとか、便利に言うな」
陽翔がため息をつくと、玉城が腕を組んだ。
「いやあ、“ログとフラグとマブイの流れ”。
この一族の物語、講義一本できそうですね」
「先生、その講義受けた学生のマブイが先に落ちそうです」
真帆が即座に止めに入り、玄武が小さく笑った。
「あの……もう一つだけ」
美琴が控えめに手を挙げる。
「泉に近づくとき、“怖い”と感じたほうがいいのか、
それとも“何も感じないようにする”ほうがいいのか……
どちらが、泉の前では安全なんでしょうか」
ナミと玄武が、一瞬だけ顔を見合わせた。
「何も感じないふりをするのが、一番危ないさ」
先に口を開いたのはナミだった。
「怖いなら、“怖い”って分かってたほうがいい。
何も感じないふりをすると、自分のマブイがどっかに逃げてるのに気づかんままになる」
「怖いと感じるのは、まだ命の流れが身体の中にいる証拠。
何も感じん、何も考えたくないってなってるときは、もう半分外に出かけてるときだ」
玄武が短く付け足す。
「……それは、確かに、嫌です」
美琴は自分の胸元を押さえた。
「怖いときは、“怖いです”って言っていいからね」
ナミが笑う。
「あんたは、“怖さの種類”を言葉にできる人だから。
泉の前では、それが武器になるさ」
「どっちにしてもだ」
玄武がまとめるように言う。
「ここから先は、一人で来るな。
来週も来月も、どうしても来たくなったら誰か連れてこい。
ツルもそれだけは守ってた」
「……はい」
森の空気が、少しだけ軽くなった気がした。
「今日はここまで。
真っ直ぐ戻って、ご飯食べて寝る。
腹が減ってる人間と寝不足の人間から、マブイは落ちやすいからね」
ナミが踵を返し、玄武が並んで歩き出す。
戻りながら、美琴がそっと陽翔の隣に並んだ。
「さっき、“懐かしい”っておっしゃってましたよね」
「まあ……うん」
「それは、怖くはないですか」
美琴の声は真剣だった。
「私、多分ここを懐かしいと感じたら、怖くて仕方がなくなると思って。
だから、気になって」
陽翔は少し考えてから答える。
「怖くないわけじゃないけど……
“なんで懐かしいんだろう”って考えようとする分だけ、まだマシかな」
「考えようと、する分だけ」
「何も考えずに飲み込まれるより、
“懐かしい気がするけど、それ何だ?”って疑ってたほうが、
戻ってこられる気がする」
「……なるほど」
美琴の表情が、少しだけ和らいだ。
「では、私が何か変なことを感じたら、ちゃんと口に出すようにします」
「そうしてくれ」
「代わりに、ゲーム用語が分からなくなったら、その都度質問しますね」
「それは……璃子担当で」
「え、にぃにぃひどくない?」
璃子の抗議が森に響き、その声に少しだけ救われるような気持ちで、
陽翔は泉の入口から離れていった。
細い獣道の奥は、やはり暗い。
だが、その暗さの向こう側で、誰かの笑い声と泣き声が重なったような気がした。
ツルが一度だけ「終わり」を踏んだ場所。
明日、自分たちは、その手前まで足を踏み入れる。
怖さと、どうしようもない好奇心と。
胸のざわつきを抱えたまま、陽翔は島の音のほうへ歩き続けた。




