第13話 戦の終わり
線香を替えて、お茶を一口ずつ飲んだあと。
具志堅ナミは、さっきと同じ場所にすっと座り直した。
さっきまでのゆるい空気が、また少しずつ張りつめていく。
「じゃあ、続きね」
ナミは仏壇に向かって、短く頭を下げる。
位牌の並んだその前で、煙が細く立ちのぼっていた。
「さっき話したのは、ツルが戦の中で“おかしな泉の匂い”に気づいたところまでだったさね。
ナミがこの話を最初に聞いたのは、自分が三十前ぐらいの頃。
ツルは、もう七十後半、八十に手が届くくらいだったはずよ」
「そんな前から、ナミさんはツルおばぁと?」
真帆が目を丸くする。
ナミは「んふ」と笑った。
「島のノロ見習いみたいなことしてた頃さ。
久高の御嶽の線を継ぐ人間には、“昔、何があったか全部覚えときなさい”って、
何回も何回も同じ話を聞かされたわけ。
最初は、『おばぁは昔話好きだね』ぐらいに思ってたけどね」
「それが、今につながってるってことか……」
陽翔が、小さく息を吐く。
ナミは、そこで表情を少しだけ引き締めた。
「今から話すのは、全部、ナミがツルから聞いた話。
ナミの目で見た戦争じゃないさ。
でも、何度も聞かされて、自分の記憶みたいに染み込んでる話だから、そのつもりで聞きなさい」
陽翔たちは、自然と背筋を伸ばした。
「戦が終わった、って言葉だけが先に広がってた頃さ。
でもツルの話だと、空気はまだ全然終わってなかったって」
ナミの声が、別の誰かの記憶をなぞるような調子に変わる。
「斎場御嶽のあたりで風に当たるとね、ツルは“泉の匂い”が分かったって言ってた。
本来は山側からふわっと上がってくるはずの流れが、戦の終わり頃には、
海のほうから逆向きに押し寄せてきた感じがしたって」
「逆向き……」
陽翔の胸が、微かに軋む。
久高に来てから何度か聞いた「流れの反転」という言葉が、頭の端をよぎった。
「その頃、一緒に来てた本土の人たちも、別のやり方で“おかしな揺れ”を感じてたらしい。
道具の名前までは、ツルもナミも知らんけどね。
大事なのは、『海の向こうで、マブイの流れがおかしくなっている』って、
あの人たちもツルも、同じ方向を見てたってこと」
「海の向こうって、久高島ですか」
美琴がおそるおそる尋ねる。
ナミは頷いた。
「久高の方向から、“生きてる人の命の流れをもぎ取ろうとするみたいな力”を感じたって。
それと同じ頃、久高のほうからも妙な噂が届いたらしいさ。
急にぼーっとして海に歩き出す人が出たとか、御嶽の近くで倒れる人が続いたとかね」
「……今、聞いてる話と、ほぼ同じですね」
真帆が低く言う。
ナミは肩をすくめた。
「だから、わんもただ事だと思ってないわけさ」
少しだけ間を置いてから、続ける。
「ともかく、その頃、“久高のほうでも様子がおかしい”って話がまとまって、
本土の人たちが『確かめに行く』ってことになった。
戦のあとに残ったものを見る、っていう上の人向けの言い方はあったけど──
本当のところは、“久高の泉が、戦に乗じて暴れ始めてないか確かめる”ってことだったはずね」
「そこで、ツルおばぁも一緒に行ったんですね」
陽翔の問いに、ナミは頷いた。
「ツルは、斎場の御嶽でマブイの流れを読むのに慣れてたから。
現地で“何がどうおかしいか”を感じる役として、連れて行かれたって。
久高に行くまでの細かいことは、『どうでもいいさ』って、
あの人ほとんど話さんかったよ」
ナミは、そこで一度息をつく。
「ナミがツルから何度も聞かされたのは、そこから先。
久高の御嶽に入って、“泉と向き合った”ときの話さ」
◇
「島の御嶽に足を踏み入れたときのこと、ツルはよく話してたよ」
ナミは、ツルの言葉をたぐるように、ゆっくり語る。
「海の風が遠ざかって、代わりに土と石と祈りの匂いが肌に張りついたって。
斎場の御嶽と少し似てるけど、もっと深く潜る感じ。
足もとから上がってくるマブイの風が、背中から頭のほうまで一気に登ってきたってね」
「……聞いてるだけで、ちょっと足がすくみますね」
美琴が小さく肩をすくめる。
「森を抜けて、一番奥まで行くと、空が少しだけ開けてたって。
その真ん中に、石で囲まれた丸い窪み。
底まで透き通った水が湧いてて、落ち葉ひとつ浮いてない。
波紋ひとつない鏡みたいな水面」
息をのむ気配が、畳の上を伝ってくる。
「見た目だけなら、ただ綺麗な泉さ。
でもツルは、『静かすぎて、どうしようもなく怖かった』って言ってた。
泉の縁に近づいただけで、足首のあたりを見えない何かにくるっと巻かれた感じがしたって」
「それ、もうその時点でアウトでは……」
玉城が顔をしかめる。
ナミは小さく笑って、すぐ真顔に戻った。
「空気の温度が一段下がって、息をするたびに、胸の中のマブイの流れが下のほうへ引っ張られる。
“ここは、落ちたマブイを休ませる場所じゃない。
生きてる人の命の流れまで底に引きずり込もうとしてる”──ツルはそう感じたって」
「戦争で亡くなった人たちの影、だけじゃないってことですよね」
真帆が、眉間に皺を寄せる。
「うん。
戦で増えた“重たいもの”が泉に流れ込んだのは、きっかけの一つだったんだろうね。
でもツルの言い方だと、その奥にはもっと古くて、あまり良くない何かが、
ずっと前から息を潜めてたって」
ナミは、仏壇のほうに一瞬だけ視線を送る。
「その“顔を出しかけたもの”を押し戻すために、ツルは本土の人たちと一緒に祈って、泉と向き合った。
どういう形でやったかは、あの人、詳しく話したがらなかった。
聞かせてくれたのは、感覚だけ」
ナミは、拳を軽く握って胸の前に置いた。
「胸の中のマブイの流れが、何度も何度もひっくり返されそうになって。
“ああ、ここで終わるかもしれんな”って思う瞬間が、いくつもあったって。
それでも、気づいたらちゃんと戻ってきてた、ってね」
「……それで、“向こう側を踏んで戻ってきた人”って話になるんですね」
陽翔が、言葉を選びながら静かに言う。
ナミは頷いた。
「ツルは自分で難しい言い方はしなかったけどね。
ナミから見たら、あの人の年のズレも、目の奥に残ってた光も、
一回“外側”を踏んで戻ってきた人のものだとしか思えんさ」
「ツルおばぁから、その話を何度も聞かされてたんですか」
璃子が問いかける。
ナミは、少し懐かしそうな顔になった。
「ナミが二十代の終わりから三十代の頃にかけてね。
久高と本島を行ったり来たりする時期があって、そのたびに“あんたは聞いとかんといけないさ”って。
毎回、少しずつ違うところを強く話すわけ」
「違うところ、って?」
「あるときは“泉の匂い”の話だけ。
あるときは“久高の御嶽の空気”の話だけ。
あるときは“マブイの流れがひっくり返りかけた感覚”の話だけ。
バラバラに聞かされて、何年かかけてようやく一つの絵になる感じだったよ」
「それ、完全に“後継者教育”ですね」
玉城のぼそっとした一言に、ナミは肩をすくめた。
「そうかもしれん。
あの人から見たら、ナミはだいぶ年の離れた“次の線”だったからね。
だから、ツルの話の中では、戦の頃の自分のことを『あの頃のツルは』って言う。
ナミが“あの子”って言うのは、その頃のツルの姿のことさ」
ようやく違和感の理由がつながって、陽翔は小さく頷いた。
◇
「今日はここまで。明日、泉の手前まで行ってみようね。
ツルが見た場所の手前ぐらいまでは、案内してあげる」
「泉の、手前」
陽翔は、ごくりと唾を飲み込む。
森の奥で感じた、あの冷たい気配が蘇る。
「ツルが子どもだった頃に立った場所と、今の泉の匂い。
それを比べてみんと、話だけじゃ分からんこともあるさ」
ナミは立ち上がり、仏壇に向かってもう一度だけ頭を下げた。
「ツル。あんたの孫たち、連れて行くよ。
ちゃんと見せんといけないもの、まだ残ってるからね」
仏壇の前は、当然ながら何も答えない。
けれど、線香の煙が、さっきより少しだけ高く立ちのぼったように見えた。
ツルが見た泉。
ツルが一度「終わり」を踏んだ場所。
そこに、自分たちも立つことになる。
陽翔は、座敷を出るとき、自分の足音がいつもより少し重く響くのを感じていた。




