第12話 ノロの座敷
畳の匂いが、鼻の奥にじわりと広がった。
具志堅ナミの家の座敷は、想像していたよりも広い。
壁際には低い棚と年季の入った箪笥。正面には、小さな仏壇が据えられ、海で拾ったらしい貝殻や、色の薄くなった三線のバチ、古い線香立てが並んでいる。
島の家にありがちな、生活の匂いと祈りの匂いが、ゆっくりと混ざり合っていた。
「はい、そこ。正座してね」
ぱん、とナミが短く手を叩く。
その音だけで、さっきまで玄関に残っていた笑い声が、すっと引いていく。
陽翔は言われるまま、座敷の中央に正座した。右隣に璃子、左隣に真帆。少し下がった位置に、美琴と玉城も腰を下ろす。
仏壇の前には線香が三本、静かに煙を立ちのぼらせていた。
この家の先祖のための場所、のはずなのに。
どこか「久高の土地そのもの」が座っているような、そんな気配が薄く混じっている。
(久高のノロの家、か)
玄関先で見たナミの立ち姿を思い出しながら、陽翔は背筋を伸ばした。
ナミは仏壇に一礼すると、こちらを振り向く。
「はい。ここからは、観光客の時間じゃないさ」
落ち着いた声が、座敷の隅まで届いた。
「名前、順番に言ってもらおうね。フルネームで。歳も」
「名前、ですか?」
璃子が首をかしげる。
ナミはにこりともせずに続けた。
「門の前で言うのは、挨拶用の名前。
ここで言うのは、その人のマブイごと覚える名前さ。ノロの座敷に座るってのは、そういうことよ」
マブイ。
さっき玄武からも何度か聞いた言葉。
それでも陽翔の中で、それはまだ「魂」とか「精神」とか、ぼんやりしたイメージ以上のものにはなっていない。
ナミの視線が、まっすぐ陽翔を射抜いた。
「じゃあ、あんたから。宮里の孫」
「……宮里陽翔。二十七歳です」
フルネームを口にした瞬間、ナミの目が、ほんの少しだけ細くなった。
その変化だけで、背中に冷たいものが走る。
隣で、璃子がむっと頬を膨らませた。
「にぃにぃ、それ就活の自己紹介じゃん。もっとこう、初手で好感度上げていこうよ」
「好感度とか言うな」
「はい、次」
ナミがあっさりと遮る。
璃子は胸を張り、わざとらしく明るい声を出した。
「仲宗根璃子、十七歳。にぃにぃの、えーと……」
一瞬だけ言葉を詰まらせてから、笑顔で押し切る。
「義妹。高校生。ゲーム廃人寄り!」
「寄り、をつけてもアウトだからなそれ」
真帆がため息まじりに突っ込む。
ナミは笑わない。ただ、璃子の顔と名前を一度だけなぞるように見て、ぽつりと言った。
「仲宗根璃子。……よう通る声してるさ」
「褒めてます?」
「半分はね」
ナミの視線が、左隣へ移る。
「次、その幼なじみ」
「幼なじみって限定つけるの、やめてほしいんですけど」
真帆が眉をひそめる。
それでも、観念したように姿勢を正した。
「喜屋武真帆。二十七歳。琉球大学で民俗学を学んで、今は恩納村の資料館で非常勤やってます」
「喜屋武真帆……ふん。真帆は、前から少し匂いがしたね」
「匂い?」
「人と人の縁を結ぶ匂い。後で話すさ」
さらっと告げられて、真帆の肩がぴくりと揺れた。
その隣で、美琴が緊張したように膝の上で手を組み直す。
「南風原美琴と申します。二十四歳です。
那覇で観光関係の仕事をしながら……少しだけ、ノロ筋の血があると聞かされています」
「南風原。ああ、あっちの筋か。そりゃ風向きに敏いはずよ」
ナミはひとりで納得したように頷く。
美琴は意味が分からず、困ったように笑うしかなかった。
最後に、玉城が小さく咳払いをする。
「えー、玉城真吾。三十五歳。
琉球大学で民俗学の講師をしております。……いちおう一般人のつもりなんですけどね」
「自分で一般人って言う人ほど、一般人じゃないこと多いさ」
「手厳しいですね」
玉城が肩を落とすと、座敷の空気が少しだけ和らいだ。
「よし。名前は覚えた」
ナミは仏壇の方へ一度だけ目を戻し、短く祈り言を唱える。
線香の煙が、その言葉に合わせるように揺れた気がした。
「じゃあ、マブイの話しようね。
あんたたち、ここへ来る前に、どのくらい知ってた?」
「えっと……」
陽翔は言葉を探しながら答える。
「マブイ落とした、って言い方は、聞いたことがあります。
小さい頃、こけてぼんやりしてると、ツルおば……祖母が『まーぶい落としたな』って言って」
「マブヤーマブヤー、ウーテクーヨー、ってやつ?」
璃子が、どこか懐かしそうに唱える。
「それそれ。子どものころは、おまじないみたいなもんだと思ってましたけど」
「おまじないで、間違ってないさ」
ナミがうなずく。
「マブイ落とした、っていうのはね。びっくりしたり、大きなショック受けた時に、
その人のマブイの流れが体からずれて、その場にふっと残ってしまうこと。
だから『マブイよマブイよ、戻っておいで』って、落とした場所でその時の流れを呼んで、
自分の体にまた重ねてやるのが、マブイグミ」
「そんな感じのこと、ツルおばぁも言ってました」
陽翔の胸に、縁側で祖母に額を撫でられた感触がよみがえる。
少しだけ、喉が熱くなった。
「でもね」
ナミの声が、そこで少し低くなる。
「あの泉は、落ちたマブイだけじゃないさ。
生きてる人のマブイの流れごと、自分の底の方へ向きを変えさせようとする」
座敷の空気が、ひやりと冷えた気がした。
「あれは、マブイグミだけでどうにかなる相手じゃない」
玉城が、ごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
「……それ、大学の講義で話したら、学生にドン引きされるタイプのやつですよ」
「学生より先に、先生が逃げそうさね」
「否定はしづらいですね」
空気を軽くしようとする玉城に、璃子がこっそり親指を立てる。
ナミは、そのやり取りを横目で見ながら、淡々と続けた。
「マブイって言葉は、沖縄なら誰でも知ってるさ。
でも『マブイの力』ってなると、ほとんどの人が分からない」
真帆が、小さく頷く。
「本土の民俗学だと、見えない力とか、呪術とか、気とか、そういう枠組みで……」
「うん、それとはちょっと違う」
ナミが、きっぱり遮る。
「外から借りてくる力は、神さまとか、名前のついた何かに頼る話さね。
祈りや言葉で、外のものを動かす型。
気っていうのも、自分の体の中を巡らす息で、鍛えたら強くなる」
畳の上に伸ばした指先で、ナミは何か見えない線をなぞる。
「でもマブイは、その人の体と心と記憶、それから土地との縁が、ひとまとまりになった命の流れ。
借りてくるんじゃなくて、生まれたときから抱えているものさ」
「命の……流れ」
陽翔は、思わず口の中で繰り返した。
自分の胸の奥で、何かがざわり、と小さく渦を巻く感覚がする。
「マブイの力っていうのは、その流れに触ること。
自分の流れを整えたり、人の流れにそっと手を添えたり、時には流れ同士をより合わせたり」
そこで、ナミの視線がゆっくりと真帆へ向かう。
「真帆のマブイは、結ぶ流れが強い。
マブイとマブイを繋いで、馴染ませる力を持ってるさ。結のマブイって呼ばれる筋ね」
「……そんな立派なものじゃないですよ」
真帆が慌てて首を振る。
「これまでは、人の縁を感じやすい体質、くらいに思ってて」
「感じるだけで済んでるうちは、まだ入口さ」
ナミは肩をすくめた。
「結ぶってね、便利よ。
あんたが糸をかけたら、相手は楽になることもあるし、逆に重くもなる。
どこからどこに結ぶかで、誰かの生き方が変わってしまうことだってあるさ」
真帆の喉が、ごくりと鳴る。
陽翔は、彼女の横顔に浮かんだ不安の色を見て、軽く肘でつついた。
「お前、昔から人と人を妙なタイミングで再会させるの得意だったろ。
就活のときも、俺と先輩、わざと同じ飲み会に呼んだり」
「それはただのお節介!」
「そういうのを結ぶって言うんじゃないの?」
「にぃにぃ」
不意に、璃子が割って入る。
少し膨れっ面で、真帆と陽翔の顔を交互ににらんだ。
「今、その二人の距離感実況中継する必要ある?」
「お前が一番トゲのある言い方してるぞ」
陽翔が頭を抱える。
ナミは、そこでようやく小さく笑った。
「まあ、陽翔と真帆は、もともと流れが繋がりやすいマブイしてるよ」
「ナミさん!」
真帆が素の声を上げる。
耳まで真っ赤になり、手をぶんぶん振った。
「何勝手に分析してるんですか!」
「マブイの話してるだけさ。
昔から一緒にいる人は、どうしても流れが太くなる。
それに逆らおうとしたら、逆に疲れるだけよ」
「別に逆らってません!」
「今、全力で否定したね」
陽翔がぼそっと突っ込む。
その横で、璃子は頬をふくらませたまま、じっと真帆を見ている。
「……にぃにぃは、私のにぃにぃだから」
「だから所有権主張やめろって」
ぽつぽつと笑いがこぼれ、座敷の空気が少しだけ和らいだ。
それでも、仏壇の線香の煙は、さっきよりも真っ直ぐに立ちのぼっているように見える。
ナミは一同の顔を順番に眺めてから、静かに口を開いた。
「まあ、今のうちは、それでいいさ。
マブイの力を、意識してちゃんと使える人なんて、沖縄でもほとんどいない。
ほとんどの人は、『マブイ落とした』って笑い話で終わるくらいが、一番幸せさね」
「じゃあ、私たちは?」
美琴が、おそるおそる尋ねる。
「私たちは、もうその『ほとんど』から外れちゃってるんですか」
「泉に近づいた時点で、少しは外れてるさ」
ナミは、はっきりと言った。
「泉は、普通の人のマブイの流れを止めて、影の方へ向けてしまう場所。
そこに近づいて、まだこうして座って話してるってことは、それだけで『普通』から半歩ずれてるってことよ」
陽翔は、森の中で感じた冷たさを思い出した。
足首を掴もうと伸びてきた黒い影。
あの、底の見えない水に引きずり込まれそうな感覚。
「だからこそ、ちゃんと知ってもらわんといけない。
マブイが何で、泉が何で、ツルが何をしたか」
ツル。
その名前を聞いた瞬間、陽翔の心臓が一拍分、強く脈打つ。
「ツルおばぁの、話ですか」
「そうさ」
ナミは、仏壇の方へ視線を向けた。
そこには位牌と、海で拾った貝殻たち。
けれど、ナミの目はもっと遠い場所を見ているようだった。
「ツルがまだ子どもだった頃、この泉の前で一度だけ、大きなことがあった。
戦の終わりの頃の話。わんが直接、本人から聞いた話さ」
線香の煙が、天井近くでくるりと輪を描く。
外からは波の音。
座敷の空気だけが、静かに重くなっていく。
ツルが見た泉。
ツルが選んだ「戦争の終わり」。
自分の知らない祖母の顔が、胸の奥で輪郭を取り戻しつつある気がした。
陽翔は、気づかないうちに膝の上で拳を握りしめていた。




