第11話 島の守り人
久高島の港は、思ったよりも静かだった。
観光客の声もあるにはあるが、那覇の港みたいなざわざわした感じはない。
白いコンクリートの岸壁と、低い待合所。
その向こうに、赤瓦の屋根と、緑の木々が覗いている。
「おおー、エンカウントだ」
タラップを降りた瞬間、璃子が小声でつぶやいた。
「敵じゃないからな?」
「分かってるよ。島のNPC」
「そういう言い方やめとけ」
そんなやりとりをしながら、陽翔は足元を確かめるように、ゆっくりとコンクリートに降り立った。
足の裏に、硬さと、ほんの少しだけ湿った感触。
潮の匂いが、さっきまでより濃くなった気がする。
「ようこそ、久高へ」
少ししゃがれた声が、正面から飛んできた。
顔を上げると、港の入り口近くに一人の男が立っていた。
日焼けした肌に、がっしりした体つき。
キャップの下から覗く髪は白く混じり、目尻には深いしわ。
胸元には、どこかで見たことのある守り袋のようなものがぶら下がっている。
宮城玄武。
真帆が事前に名前を出していた、久高の「守り人」。
「宮城さん、おはようございます」
真帆が先に頭を下げた。
「今日はお世話になります」
「おうおう、おれが世話されるほうだよ、喜屋武先生」
玄武は、にやりと笑う。
「遠いところ、ご苦労さん。名護からでしょ?」
「はい。途中で寄り道しながらですけど」
「寄り道する余裕あるんだったら、まだまだ若いさ」
そう言ってから、玄武は陽翔たちに視線を向ける。
「そっちが、言ってた子たちね」
「はい」
真帆が、陽翔と璃子、美琴を順番に紹介していく。
「宮里陽翔です」
「仲宗根璃子です。よろしくです」
「南風原美琴と申します。本日は、勉強させていただきます」
三者三様の挨拶。
玄武は、陽翔の顔をまじまじと見つめた。
「宮里……どこの宮里?」
「名護です。もともとは本部の方ですけど」
「本部?」
玄武の目の奥に、かすかな光が走った。
「備瀬か?」
「はい。母の実家が、本部町の備瀬で」
「ふうん……」
玄武は、陽翔の顔を、もう一度、上から下まで舐めるように見た。
それから、ぽつりと言った。
「備瀬のツルの孫か?」
心臓が、一瞬止まったような気がした。
「ツルおばぁ、知ってるんですか」
陽翔が問い返すと、玄武は「当たり前さ」と笑う。
「知らんやつのほうが少ないよ、この島で。昔な」
「昔?」
「その話は、あとでゆっくりね」
そう言って、玄武は手を叩いた。
「まずは荷物置いて、島の空気に慣れるところからさ。いきなり大事な話したら、マブイ落とすよ」
「マブイ落とすって、普通に言うんですね」
璃子が小声で突っ込む。
「当たり前さ。ここは沖縄だよ」
玄武は、笑いながら港の出口の方へ歩き出した。
「とりあえず、集落の中案内しながら、ノロの具志堅ナミのところ行こうね。あの人の許可取らんと、泉の話もできんさ」
具志堅ナミ。
真帆から名前だけは聞いていた、「久高のノロ」。
「ナミさん、今日は?」
真帆が歩きながら聞く。
「朝から御嶽回り。昼前には家に戻るはずよ。先に顔見せしとけば、午後からの段取りもしやすいさ」
玄武の足取りは、見た目に反して軽い。
陽翔たちは、少し早足になりながら、その背中を追った。
◇ ◇ ◇
港から集落へ続く道は、思ったよりも狭かった。
両側には石垣とフクギ並木。
ところどころに小さな御嶽があり、足元には白い砂がうっすらと積もっている。
「ゲームのフィールドにしたら、絶対マップ広くするタイプのやつだ」
璃子が、きょろきょろと周囲を見回しながらつぶやく。
「でも、現実はコンパクトだね」
「うるさいよ」
玄武が笑う。
「ここは、だらだら歩く場所じゃない。立ち止まって、島の音聞くところさ」
そう言われて、陽翔は耳を澄ませた。
港のざわめきが遠ざかり、代わりにフクギの葉がこすれ合う音が近くなる。
鳥の声。
どこかの家から聞こえるテレビの音。
それに混じって、聞き慣れないリズムの太鼓のような音も微かにする。
「祭り?」
美琴が小さく尋ねる。
「いや、今日は祭りじゃないさ。御嶽で誰かが太鼓叩いてるだけ」
玄武は、何でもないことのように答える。
「ここはな、普通の暮らしと、神さまの暮らしが、そんなにきっちり分かれてないわけよ」
「いいなあ、そういうの」
真帆が、羨ましそうに言った。
「那覇にいると、神さまも書類出してからじゃないと動けない気がしてくる」
「お前の周りにいる神さま、可哀想だな」
陽翔が思わず突っ込んだ。
玄武は、そんな会話を聞きながら、ふと立ち止まった。
「ほら」
指さした先には、小さな御嶽があった。
石で組まれた小さな屋根の下に、貝殻と、小さな酒瓶のようなものが置かれている。
「ここ、なんだか分かるね?」
「……御嶽?」
美琴が答える。
「そう。集落の御嶽さ。ここを通るときは、挨拶して行く」
玄武は、軽く頭を下げた。
それに倣って、真帆と美琴も、ぺこりと頭を下げる。
「お邪魔します、って感じ?」
璃子が小声で聞く。
「それでいいさ。あとは、心の中で何か思っててもいいし、何もなくてもいい」
玄武は、陽翔の方を見る。
「宮里の兄ちゃんは?」
「え?」
「何か、言いたいことあるなら、適当に言っときなさい。聞いてる人は、聞いてるかもしれんから」
聞いてる人。
誰のことかは、分からない。
けれど、ここで「何もありません」と言うのも、何だか違う気がした。
陽翔は、小さく息を吸う。
「……ツルおばぁが、昔お世話になりました。今日は、その……様子だけ見させてもらいます」
御嶽に向かって、そうつぶやいた。
誰も何も言わない。
一瞬だけ、周りの音がすっと引く。
鳥の声も、テレビの音も、遠ざかったように小さくなる。
すぐに、ざわめきが戻る。
「はい、よくできました」
玄武が、軽く笑う。
「そういうのでいいさ。ちゃんとマブイ持って挨拶できるなら、島もそんなに怒らん」
「マブイ持って、って」
「あんたたち、最近の若い子は、『マブイ落とした』って言われたことある?」
玄武は、歩きながら尋ねた。
「私は、まあ」
陽翔は、ツルおばぁの手を思い出しながら答える。
「びっくりしたときとか、おばぁたちに『マブヤー落とすさ』って言われて、『マブイグミ』してもらってました」
「『マブヤーマブヤー、ウーテクーヨー』ってやつね」
璃子が、調子を合わせるように口にする。
「そう、それ」
玄武は、にっと笑った。
「マブイはな、こういう島では普通にあるもんとして扱われてる。魂とか、気持ちとか、元気とか、まあいろいろだ」
「でも、『マブイのせいさー』って言い出すと、すぐ迷信扱いされますよね」
真帆が、肩をすくめる。
「そうそう。そこから先は、ノロとユタのしごとさ」
玄武は、少しだけ真面目な顔になった。
「具志堅ナミは、その中でも、昔から『マブイグミが上手い』って評判よ」
「マブイグミが上手い……」
璃子が、興味津々で身を乗り出す。
「スキルレベル高いってこと?」
「ゲームの話じゃないよ」
美琴が小さく苦笑する。
「でも、分かりやすいかもしれませんね。うちの方でも、同じお祈りでも人によって効き方が違う、って言われますし」
「そういうの、研究すると面白いんだけどねえ」
真帆がぼやく。
「倫理委員会に怒られるから、なかなか数字にはできない」
「怒られるの前提で話すな」
陽翔が突っ込んだ、そのときだった。
「……あーーっ!」
少し先の路地から、子どもの泣き声が響いた。
玄武が、すぐに顔を向ける。
石垣の角を曲がった先、小さな広場のような場所があった。
木陰の下で、三歳くらいの男の子が地面に座り込んで泣いている。
その傍らで、若い母親が慌てたように抱き起こそうとしていた。
「ごめんね、ごめんね、痛かったねえ」
「いやああああ!」
子どもは、体を反らせて泣き叫ぶ。
膝に擦り傷があるが、それほどひどい怪我ではない。
泣き方の激しさの割に、傷は小さい。
「おっと」
玄武が、足を速めた。
「宮城さん?」
真帆も、後を追う。
「大丈夫ね?」
「み、宮城さん……」
母親がほっとしたように顔を上げた。
「ごめんなさい、段差に足が引っかかって……」
「頭打ってる?」
「いえ、膝だけ。でも、さっきからずっと、『こわい、こわい』って……」
子どもは、母親の腕の中で、周りを見ないように目をぎゅっと閉じている。
その足元の影が、木陰の影と重なって、妙に濃く見えた。
美琴の視界にだけ、影の中心から薄いもやが立ち上っているのが見える。
黒いというより、灰色の煙のようなもの。
それが膝のあたりから胸の方へ、じわじわと這い上がろうとしている。
「……」
美琴は、無意識に胸の前で指を組みかけた。
が、その前に、玄武が子どもの前にしゃがみ込んだ。
「おーおー、どうしたね。久しぶりに派手にマブイ落としたね」
あくまで優しい声で言う。
子どもの泣き声は止まらない。
玄武は、そっと子どものおでこに手を当てた。
「痛いとこ、どこ?」
「ひざ……」
か細い声。
「じゃあ、マブイ探しに行こうね」
玄武は、立ち上がるフリをして、わざと少し離れたところに歩いていく。
さっき子どもがつまずいたらしい、石の段差の前。
そこで、腰をかがめ、両手ですくうような仕草をした。
「おーい、マブヤー。ここに落ちてたよー」
そう言って、何かを両手で大事そうに包み込む。
ゆっくりと子どものところに戻ってきて、その小さな胸に、すくった手をそっと当てた。
「マブヤーマブヤー、ウーテクーヨー」
低い声で、ゆっくりと唱える。
母親も、周りにいた年配の女性も、一緒になって小さな声で繰り返した。
「マブヤーマブヤー、ウーテクーヨー」
その一節ごとに、泣き声が少しずつ弱くなっていく。
さっきまでざわざわしていた木陰の空気が、じわりと柔らかくなる。
美琴の目には、子どもの足元の影にまとわりついていた灰色のもやが、ふっと薄くなっていくのが見えた。
さっきまで胸のあたりまで伸びていた影が、ただの輪郭に戻る。
子どもの泣き声が、さらに小さくなった。
「こわくない、こわくない。マブイ戻ってきたよ」
玄武が、子どもの頭を優しく撫でる。
「……うん」
ようやく、子どもは目を開けた。
さっきまで強張っていた表情が、少しだけ緩む。
「よし」
玄武は、安心したように笑った。
「ほら、お母さんにぎゅーしてもらいなさい」
母親が、子どもをぎゅっと抱きしめる。
「すみません、ありがとうございました」
「いいさ。島の子は、マブイ落とすくらい元気なほうがいい」
軽口で返してから、玄武は陽翔たちの方へ振り向いた。
「今のが、マブイグミ」
「……」
思わず、陽翔は息を飲んだ。
ツルおばぁがやってくれたマブイグミと、同じ流れ。
でも、どこか違う。
玄武の手つきは、もっと意図的で、型があるように見えた。
「どうだったね、宮里の兄ちゃん。都市伝説に見えた?」
「いえ……」
陽翔は、言葉に詰まる。
「見慣れた感じ、です」
「そうか」
玄武は、意味ありげに笑う。
「ツルの孫なら、そうだろうね」
真帆は、横でメモ帳を取り出し、何かを書き留めていた。
「今の、やっぱり“落ちてた”感じありましたね」
小声で、美琴に話しかける。
「はい。影が……少し、濃かったです」
「風、じゃなくて、空気の重さで分かる感じ?」
「……そうですね。さっきまで、ここだけ息苦しい感じがしてました」
「なるほどね」
真帆は、軽く頷いた。
「ここで余計なことすると、島の人にバレるからね。今ぐらいのさじ加減がちょうどいい」
「バレたら、怒られますか?」
「怒られるっていうか、面倒くさい話になる」
その会話を聞きながら、璃子がぽつりと言った。
「なんか、普通に『マブイ』って言ってて、逆に怖いね」
「逆に?」
陽翔が聞き返す。
「だって、にぃにぃが見てる変な夢とか、波止まった話とかも、もし『マブイのせいさー』って片付けられたら、それはそれで怖い」
「確かに」
陽翔は、妙に納得した。
島では、マブイは「あるもの」として当たり前に扱われている。
そこに、自分の「おかしな感覚」が乗っかると、どこからが普通で、どこからがおかしいのか分からなくなる。
「ま、今日はその境目の話を、ナミに聞きに来たようなもんだからね」
真帆が、先を歩きながら言う。
「普通のマブイグミと、そうじゃない何かの違い。それを知らないと、泉の話にも触れられない」
「泉の話」
口にした瞬間、胸ポケットの神石が、かすかに震えた。
玄武は、その反応を見ていないふりをしながら、道を曲がる。
「ほら、あれが具志堅ナミの家」
指さした先には、赤瓦の屋根の、こぢんまりとした家があった。
庭には、サンゴ石の囲いと、古そうなフクギの木。
軒先には、干された洗濯物と、小さな風鈴が吊るされている。
風は感じないのに、風鈴だけがときどき小さく鳴る。
その音が、庭の内側と外側を分けているように思えた。
一見すると、どこにでもある島の家。
でも、何かが違う。
門の前に立った瞬間、耳の奥で音の層が変わる。
外のざわめきが少し遠くなり、土と線香と潮の匂いが、重なって押し寄せてくる。
「ナミさーん!」
玄武が、門の外から声をかけた。
「喜屋武先生が連れてきたよ。名護からツルの孫も来てる」
中から、少し低めの女の声が返ってくる。
「ツルの孫?」
その言葉が、妙にくっきりと耳に残った。
ガラガラ、と引き戸の開く音。
現れたのは、五十代くらいの女性だった。
日焼けした肌、落ち着いた目。
髪はひとつにまとめられ、シンプルな柄のワンピースの上から、薄いカーディガンを羽織っている。
具志堅ナミ。
ノロとしての衣装ではない。
けれど、その立ち姿は、どこか「立っているだけで場が整う」ような気配をまとっていた。
「備瀬のツルの孫って、どの子ね」
ナミの視線が、まっすぐこちらを射抜く。
陽翔は、無意識に背筋を伸ばした。
「……宮里陽翔です」
名乗ると、ナミは、じっとその顔を見た。
一瞬だけ、目の奥に何かが走る。
「……あんた、あの子に似てるさ」
「……あの子?」
思わず聞き返すと、ナミは庭の方に一度だけ視線を流してから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「昔ね、泉の前で笑ってた子がいたって、先代のノロのウタばぁから、よう聞かされたさ」
「先代ノロさんから?」
「わんは、その時代は生まれてないよ」
ナミは、そうはっきり付け加える。
「でもな、御嶽と泉に残ってるマブイの影が、今でもときどき顔を見せるわけさ。あの時そこに立ってた“誰か”の」
その目が、もう一度、陽翔の顔をなぞる。
「あんた、その“誰か”に、よう似てる」
言葉のひとつひとつが、胸のどこかに刺さる。
「中入りなさい」
ナミは、くるりと背を向ける。
「外で立ち話してたら、影に聞かれるさ」
その背中に続きながら、陽翔は、玄関の敷居をまたいだ。
久高のノロの家の中。
そこに何が待っているのか、まだ誰も知らない。




