第1話 沖縄への帰郷
はじめまして、生まれも育ちも沖縄のカーシュです。
この作品『マブイロスト』は、沖縄の伝承や霊的な世界を題材にした物語です。
この物語は、一人の青年が祖母の死をきっかけに、マブイを通じて自らのルーツと沖縄に眠る謎に向き合っていく物語です。
戦後の影を残すこの島で、彼は何を見つけるのか。
「マブイを失う」ということは、いったい何を意味するのか——。
ぜひ、最後までお付き合いください。
機体が雲を割るたび、窓ガラスに海面の青が瞬く。
宮里陽翔は肘掛けに指を絡め、深く息を吐いた。十年ぶりの沖縄行き。だが胸を満たすのは郷愁ではない。祖母ツルの訃報が、帰郷という言葉から色を奪っていた。
ポケットで震えるスマホを取り出す。未読のLINEが二つ光っている。
最上段は母・由美。
気をつけて帰っておいでね。
おばあのこと、一緒に見送ろう
短い文面に強さと脆さが同居していた。
その下には義妹・璃子からの連投。
にぃにぃ、今どこ?
母さん、おばあの部屋にこもってるよ……
早く帰ってきて……
いつもなら派手なスタンプを連射する彼女が、句読点でしか心情を綴れないでいる。陽翔は返信を打とうとした指を止め、そっと画面を伏せた。
もう一つ、既読だけついた会話がある。
幼馴染の喜屋武真帆――大学で民俗学を学び、研究調査で島を飛び回る彼女からの一行は淡白だった。
久しぶり。沖縄に着いたら連絡ちょうだい
それだけ。それなのに、陽翔の親指は「了解」と打っては消し、結局何も送れないまま電源ボタンを長押しした。
「那覇空港まで、あと十五分ほどで降下いたします」
機内アナウンスが落ち着いた声で告げる。窓外には、珊瑚礁を帯びた海岸線が弧を描き始めていた。
陽翔は拳を膝に置き、目を閉じる。
――俺は、何を忘れている?
遠くで波の音がした。
それは記憶の底で鍵を探すような、ざわりとした違和感だった。
* * *
那覇空港に降り立つと、湿った南風が頬を撫でた。
床に反射する蛍光灯の白さがやけに眩しく、陽翔は視線を落としたままレンタカー受付へ向かう。
「本部町まで、ですね。お気をつけて」
鍵を受け取ると、小さな電子音とともに車がライトを瞬かせる。
ハンドルを握り、国道58号線を北へ。左に海、右に山。窓を三センチだけ開けると、潮と土の匂いが混ざった風が流れ込んできた。
スピーカー越しのナビが距離を読み上げる。
それをBGM代わりに、陽翔はルームミラー越しに自分の目を見た。都会のネオンで磨り減った目は、懐かしい景色を映してもなお、どこか焦点が合わない。
(忘れ物を取りに来たのか。……でも、何を?)
その問いに答えるように、スマホが再び震えた。
画面に映るのは見知らぬ番号――いや、通知ではない。画面は真っ黒なまま、振動だけが続く。
「誤作動……?」
ブレーキを踏み、路肩に停車する。振動はぴたりと止んだ。
画面を強く押しても電源は入らない。まるでバッテリーが瞬時に空になったかのようだった。
胸を掠める嫌な感覚。だがそれを振り払うように、陽翔はエンジンを掛け直した。
* * *
名護の市街を抜ける頃には、太陽が山の端へ傾いていた。
やがてフクギ並木の緑が道をトンネルのように覆う。木漏れ日がフロントガラスに斑を落とし、通り過ぎる度に影絵が走る。
――ざわり。
車内に入り込んだ一筋の風が、乾いた音でスマホの画面を叩いた。
ディスプレイが唐突に点灯する。
既読︰真帆
「着いたら知らせて」
通知音は鳴っていない。それでも画面は薄く光り、背面がわずかに震えていた。
陽翔は息を止め、ステアリングに指を強く掛ける。
並木を抜けた先に、赤瓦の屋根が朱い光を返していた。
祖母ツルが「風除けになるさ」と語っていた家。縁側の干し網、月桃の香り。
懐かしさのはずなのに、胸の鼓動は異物を拒むように早まる。
――カチッ。
スマホの画面が暗転した。
ただし、黒い鏡面に映る自分の瞳は、どこか別人のように深く揺れていた。
陽翔はシフトをパーキングに入れ、深く息をつく。
ドアを開けた瞬間、フクギの梢がざわめき、線香の甘い匂いが風に乗って届いた。
懐かしさと、不気味な既視感――。
その混ざり合う匂いの中で、陽翔はひとつだけ確信する。
ここで、何かが待っている。
* * *
線香の甘い香りが、玄関を開ける前から漂っていた。
宮里陽翔〈みやざと・はると〉は取手をそっと引き、薄暗い廊下に足を踏み入れる。
「にぃにぃ……!」
制服姿の仲宗根璃子〈りこ〉が奥から駆け寄ってきた。勢いのまま胸にぶつかりそうになるが、寸前で踏ん張り、袖口を握って上目づかいに見上げる。
「帰るの、遅いよ」
声は強がっているが、赤く泣き腫らした目が隠しきれない。
陽翔は言葉の代わりに頭を撫でる。璃子は一瞬びくりと肩を震わせ、照れ隠しに前髪を整えた。
「母さんは?」
「おばあの部屋から……まだ出てこない」
そう答える璃子の指が制服の裾をつまみ、くしゃりと皺をつける。陽翔は小さく頷き、靴を脱いで家に上がった。
障子を開けると、畳の中央に白布で包まれた祖母ツルが横たわっていた。
蝋燭の灯が揺れ、影が壁を泳いでいる。
線香を継いでいた母・由美〈ゆみ〉が振り返り、ぎこちなく微笑んだ。
「よく来たね」
普段は張りのある声が、今はかすれている。それでも背筋を折らず座る姿は、気丈な母そのものだった。
陽翔は母の隣に膝をつき、線香に火を移した。煙の向こうで、祖母の口元がわずかに微笑んでいるように見える。
「昨夜まで庭を歩いてたのよ。星がきれいだって」
由美はそう言いかけ、唇を噛む。陽翔はそっと母の手を包んだ。指先は冷え切り、かすかな震えが伝わる。
祈り終えると、陽翔の視線は仏壇右手の桐箱に吸い寄せられた。
古い木目は埃を被り、長いあいだ触れられていなかった気配を宿す。
由美は箱へ向いた息子に、小さく首を振った。
「さっき見つけたばかりなの。けど、開ける気になれなくて……」
それ以上は語らなかった。
けれど箱が放つ静かな呼吸のような存在感が、陽翔の胸で鼓動を速めた。
座敷の空気が重く、陽翔はふと縁側に出た。
夜の庭では、フクギの巨木が風に揺れている。葉擦れと遠い波音が重なり、ざわりと背中を撫でた。
ポケットのスマホが突然震えた。
画面は真っ黒だが、わずかな振動が止まらない。再起動を試みた瞬間、一行だけ文字が浮かぶ。
真帆:着いたら知らせて
そのまま暗転。振動も途切れた。
胸の奥に冷たい杭が刺さる感覚――呼ばれているのか、警告なのか。
屋内から由美の驚いた声が響いた。
「陽翔! 箱が……」
振り向くと、桐箱の蓋が数センチ開いている。誰もそばにいない。座敷の灯りが隙間を照らし、白黒の紙片が覗いていた。
璃子が廊下を小走りにやってきて不安げに見上げる。「にぃにぃ……?」
陽翔は無言で箱へ膝をつき、蓋を開いた。
黄ばんだ写真が一枚――若き日のツルと、その隣に立つ陽翔とうり二つの男。背景に映るのは、今まさに闇に佇むフクギの木と祠。
「こんな……」
璃子の声は震え、袖口を掴む手に力が入る。
陽翔は写真を握りしめ、縁側の向こうに視線を走らせる。七十六年前の光景が、今ここで重なっている。
胸の奥で、何かが目を覚ます音がした。
それは、まだ言葉にならない。
* * *
写真を握ったまま、陽翔〈はると〉は縁側を飛び降りた。
夜露が残る芝が足裏を冷やす。フクギの巨木まで十歩。揺れる枝葉の下で、木肌に触れた。
ざらり。
指先の感触は確かに写真のそれと同じだった。根元を囲む石の祠も、欠けた位置まですべて重なる。
「……俺はここに、いたのか」
言葉に出した途端、心臓がひときわ強く脈を打つ。
背後で草を踏む小さな音。璃子〈りこ〉が遠慮がちに近づいてきた。
「ねえ、本当に七十年前ににぃにぃが――」
問いは最後まで続かず、夜気に溶けた。彼女はただ黙って兄の袖を握る。
そのとき、座敷の障子が開く音がした。
母・由美〈ゆみ〉が庭へ降りてくる。掌に一通の茶封筒を抱えている。
「これ……ツルおばぁが、“陽翔に渡して”って」
封筒の表には、滲んだ墨で〈陽翔へ〉。角が擦れ、紙は柔らかく毛羽立っていた。
陽翔は受け取ると、重さを確かめるように指で押した。中には紙が数枚入っているらしい。
封を切ろうとした瞬間、由美が袖をつまむ。
「読む前に、ひとつだけ言わせて。おばぁが持ってたあの写真――私も子どもの頃に見つけて聞いたの。『誰?』って。そしたら笑ってごまかしてね」
由美はうつむき、小さく息を整えた。
「“大切な人よ”って。それだけ」
言葉の余韻が夜に沈む。
陽翔は封筒を胸に当て、祠へ視線を戻した。石の隙間からひんやりした風が漏れ、封筒の端を撫でていく。
「中を読んでいい?」
璃子が囁く。兄を見る目が不安と期待で揺れている。
陽翔は頷きかけ――その手を止めた。
ふいに、フクギの梢が大きく鳴った。
空気が反転したように冷える。庭の隅から黒い影が伸び、御嶽の石を舐めるように這い上がった。
「……風、じゃない」
陽翔は封筒を握り直し、璃子を背中へ庇う。
影は一瞬で掻き消えたが、御嶽の上に立つ木札がバリ、と音を立てて割れた。
由美が短く叫ぶ。
その声を裂くように、玄関の方から鈴の転がる音が響いた。
軽やかで、どこか懐かしい――だが今は不気味な呼び鈴。
陽翔は家の方へ駆ける。璃子と由美が後を追う。
縁側を上がる直前、封筒が微かに熱を帯びた気がした。
(開けるのは、まだ早いのか?)
胸騒ぎだけが鼓膜を打つ。
呼び鈴はもう一度鳴り、そして止んだ。
* * *
呼び鈴が途絶え、家じゅうが息を潜めたように静まった。
宮里陽翔〈はると〉は封筒を握りしめたまま玄関へ駆ける。廊下に転がった線香の灰が靴下を汚すが、気にする余裕はない。
戸を開けた。風が一陣、襟元を抜ける。
月明かりの石畳には誰もいない。ただ、軒先の風鈴が揺れもせずに微かに鳴った。
「いま確かに――」
璃子〈りこ〉が兄の背後で小さく震える。
由美〈ゆみ〉は胸の前で手を組み、早口で祖先への祈りを唱えはじめた。声を押し殺しているのに、恐怖が行間から零れる。
「……お邪魔していい?」
不意にかかった声に三人が振り向く。
敷石の影から、黒いワンピースの喜屋武真帆〈まほ〉が姿を現した。研究ノートを胸に抱え、息を弾ませている。
「着いたら知らせろって言ったのに」
肩越しの月光で、真帆の睫毛が震える。
陽翔は言葉を探し、結局短く頷いただけだった。肩が合うほど近くに立つのに、ふたりの間に昔のような言葉が見つからない。
真帆の視線が、陽翔の手に挟まれた封筒へ落ちる。
「それ……ツルおばぁの?」
「まだ開けてない。けど、さっきから妙に熱い」
陽翔が封筒を上げると、月光を撥ね返すように紙肌が鈍く光った。
真帆は目を細め、手帳の間から古いお守り袋を取り出す。赤い糸で縫われた小袋が、まるで磁石のように封筒へ引かれた。
「おばぁが私に預けたの。――開けるなら、ここで」
「ここ?」
「屋の中じゃ駄目。夜の風を遮ると“流れ”が滞る」
学者めいた説明に璃子が首を傾げかけた瞬間、封筒の口がひとりでに裂けた。
紙片が一枚、風に乗って宙へ舞う。陽翔が慌てて掴もうとしたが、黒い影が床を走り、紙を奪おうと伸び上がった。
「危ない!」
真帆がとっさにお守り袋を投げる。赤い糸が空気を切り、影に触れた瞬間、静電気のような火花が散った。
影は悲鳴もあげず霧散し、紙片だけがふわりと陽翔の掌に落ちた。
震える指で開くと、薄紙いっぱいに祖母の筆致が躍っていた。
〈──陽翔へ。マブイが“流れを超える”とき、必ず影が呼び寄せられる――〉
そこまで読んだところで、紙面がぼうっと淡く光る。
墨が水滴のようににじみ、文字がゆらぎながら消えていく。
「待て、まだ――!」
陽翔が声を荒げるが、文字は最後の一画まで溶け、紙はただの白に戻った。
静寂。
封筒の中には残り二枚の薄紙がある。握る手のひらで、今も弱い鼓動のように脈を打った。
「影……? さっきの黒いのが?」
璃子の囁きに、真帆はこくりと頷く。
「ツルおばぁの昔話じゃなく、本当に出たね……」
由美が気を取り直して灯りを点けようとすると、天井の蛍光灯がパチッと消えた。
次の瞬間、家全体の電源が落ち、闇が三人を呑み込む。
暗闇のなかで、封筒だけが淡く橙色に発光し始めた。
その微光が浮かびあがらせたのは、陽翔と真帆の互いの瞳――そして璃子の、不安と決意が交錯する表情だった。
「残り二枚。読めってことか」
陽翔の声は静かだが、指先はわずかに震えている。
真帆は足音を忍ばせ一歩近づき、肩が触れる距離で囁いた。
「開けるなら、私も一緒。ツルおばぁは、そう望んだはずだから」
その言葉にうなずいたとき、封筒の光が一段強く脈動する。
闇の向こうで、ふたたび風鈴が――今度は確かに、誰かの呼吸と重なるように鳴った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
「沖縄の風習や伝承に触れながら、現代と過去が交錯する物語を描きたい」
そんな想いから、この作品を執筆しました。
感想や応援コメントも大歓迎です!
それでは、また次回お会いしましょう!