第七話 ピアノ
朝の始業前、教室にあるピアノを前にしている。
すっと息を吸って背筋を伸ばし、息を吐くと同時に指が動く。
何か大切な物が終わってしまったように嘆く、GとF#の不協。
手を伸ばしても届かないことを知りながら、それを追いかけるアルペジオ。
希望なんてものがあるから、底のない絶望に気付いてしまう、無機質な曲調。
あぁ、良い曲だ。
でも、この曲に出会わない人生を選べたら良かったのかも知れない。
こんなに、自分の感情に合う曲があるせいで、焦燥感が加速している。
「レナードの朝」という映画の「dexter's tune」という曲。
頭の中に流れていた曲を、感情のまま鍵盤にぶつけている。
始業まではあと30分程ある。
くそ、いつまでも、弾いていたい。
──
ピアノを弾くのは好きだった。
初めは大して上手くもなかったが、教師としての魅力を高める為に鍛えた、という理由だけでなく、そもそも音楽が好きだった。
集中したい時は部屋の電気を消して、ただ思うままに時間を忘れて弾く。
聴覚以外の情報を遮断することで、より音楽の世界に没入することが出来るのだ。
真っ暗な中で一心不乱にピアノを弾く様は、外部から見れば異様だが、何かに没入して無になっていく時間が自分には必要だった。
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光田さゆは、登校中にその物悲しい曲を聞いた。
いつもの、子供達を迎える為の掃除をしている姿がそこには無く、彼の教室からピアノの音だけが聞こえた。
光田さゆが幼稚園の頃過ごした時に、彼はよく子供向けの童謡や、お遊戯のクラシックを弾いてくれた。
でも、今教室から聞こえるのは、幼稚園では聞いたことのない、明るいようでとても悲しい曲だった。
先生の泣いている声のように聞こえて、少し胸が苦しかった。
なんでもないって、言ったのに。
それなら、何でこんな悲しい曲が弾けるんだろう。
(先生、何があったの。さゆには、相談すらしてくれないの。)
ピアノの音色を通して、彼の苦悩が伝播していった。
このまま、彼の元へ行って、いつものように「おはよう」と後ろから抱きしめてあげたら、彼のこの悲痛な叫びのようなピアノは終わるんだろうか。
そうでもしないと、こんな、いつまでも止まない雨が降っているような悲しい気持ちは止まらないような気がする。
(樹里先生──)
光田さゆは、学校のことなんて放っておいて、彼の胸に飛び込みたかった。
いつもの自分の居場所がそこにないと言うのは、自分にとって帰るべき場所を無くしてしまったかのように彼女は地に足が付いていない気持ちになった。
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「おはようございます!!」
朝から思い切りピアノを弾けて、俺は少しスッキリした。
行き場のない思いから、仕事もあまり乗り気ではなく、趣味のゲームや読書も水の上に浮かぶ油のように、何も内容が入ってこなかったが、目の前にいる生徒にはいつもの俺を演じる事ができた。
職員室にある、"教師は役者たれ"という貼り紙。
先人よ、俺は役者になれていますか。
答えにならない答えを求めて、俺は昨日の明日ではない、ただの今日を過ごした。
明日はいつか来るんだろうか。
一つ、思い付いた事があった。
止まっていた時計の針を前に進める方法が、あるんじゃないか。
「dexter's tune」名曲ですよね。