第十一話 感情
昨日書いた手紙をポケットの中に隠して、俺は放課後を迎えた。
多分、俺がとっている行動は相当おかしな行動だろう。
今更教え子に手紙なんて、わざわざ書く必要が無いのだ。
適切な距離で、たまに偶然出会って、その場でエールを送る。
今まで俺もそうして来たように、それが教え子と俺の距離感だった。
それが、何故か一人の教え子に対して、特別なことをしようとしている。
正直、頭の中はみずきでいっぱいだった。
それが苦しくて、逆に頭の中にみずきが居ない瞬間を探した。
その感情を何と呼べば良いのか分からなかった。
元担任と教え子というだけで、何か変なことをしようとか、一線を超えるようなつもりは毛頭ない。
そんなことで、みずきと俺の関係が崩れてしまうことは嫌だった。
みずきはもちろん、俺を慕ってくる教え子達全員を裏切るような事はしたくない。
だからこの感情に名前を付けるなら、放っておかない、みずきへの剥き出しの「愛」だと思う。
「愛情」なんて綺麗な形じゃない。
素朴で独りよがりの、どうしようも無いやつだ。それは、俺の心を巣食うほど膨らんで、やがて俺の心から飛び出した。
ただ、それだけのことだ。
今までそいつは火種となって、黒い煙を吐き続けていたが、それは行き先を見つければ、きっと満足して帰ってくるだろう。
手紙──いや、ポケットの中のそいつに言い聞かせて俺はみずきを探した。
──────────
その時が、来た。
幼稚園のテラスから、下校している小学生達の姿が見える。
あの中に、みずきがいるはずだ。
前みたいな偶然ではなく、俺は自分から視野を広くして彼女を探した。
そして、その中から水色のランドセルを背負ったみずきを見つけた。
久しぶり、元気だった?
作品展見たよ、凄くよく出来てた。
用事も聞かずに逃げるなよ、たまには話しに来いよ。
俺はいつでも、みずきを応援してる。
みずきに掛けたかった言葉が、波のように自分の頭に押し寄せる。
まだみずきは気付いていない、行くなら今だ。
トントンと段差を降り、その距離を詰める。
ほんの5秒でいい、手紙を渡すだけでいい、話はできなくてもいい。
その時間だけ俺に許して欲しい。
そんな淡い期待は、みずきに近付くに連れ膨らんでいった。
ポケットに入れたそいつも、その時を待っていた。
急激なアドレナリンに汗が噴き出る。
あと少しで、みずきに手が届く。
そう思った時だった。
「樹里先生ー、何してるの?」
下校中の別の教え子から、ふいに声を掛けられて、俺は左に振り返った。
その声を聞いて、みずきも目前に迫っていた俺に気付く。
みずきは驚いた顔をして、俺の両目を見た。
ドクン、と心臓がなった。
「みずき、用事がある!」
逃げられまいと、先手を打った。
そんな俺の手を振り解いて、みずきは走り去った。
どうしてこいつは、さほど運動神経が良い方では無いのに、逃げ足だけは早いんだ。
「待て、みずき!」
俺は脇目も振らずに水色のランドセルを追いかけた。
これを逃したら、もうチャンスは訪れないかもしれない。
みずきに警戒されないままの、俺で居たかった。
君に、パパになって欲しいと、思われたままの俺で居たかった。
自分のことを追いかける、変なやつに成り下りたくない。
「みずき、手紙が──」
手を伸ばしてそう叫んだ時、彼女は他の友達と共に校門を出てしまった。
俺の叫びは、下校時の喧騒に掻き消され、白紙の吹き出しになった。
きっと、みずきの耳には届いていないだろう。
呆然と立ち尽くす俺を、先ほど声を掛けてきた教え子が覗き込んだ。
「先生、どうしたの?」
「あずさ…久しぶり。ちょっと、みずきに用事があってな。」
「そうなの?じゃあ呼んでこようか?みずきちゃーん」
「いや、いいんだ。ごめん。」
この手紙は、直接渡したい。
俺は自分の本意をその教え子、瀬下あずさに気付かれないように隠した。
俺を避けるみずきの姿が脳裏に焼き付く。
3年間同じ場所で足踏みしていた俺と、前に進んでいる教え子達とでは、埋めようもない差を感じる。
自分自身と、そしてみずきと、きちんと向き合っていたら、こんな事にはならなかった。
俺は今まで、何をしていたんだ。
絶望から思わず唇を噛んだ。
そして、ポケットの中の独りよがりのそいつは、暴れ狂っていた。
今まで以上のドス黒い煙を吐いて、爆発した。
自分の抱いていた特別な感情に、目を逸らせ続けていた報いのようだった。
みずきに向けた手紙、という名前の「愛」。
それはそんな綺麗なものじゃなかった。
行き場を失い、化け物に変わったそれを止める手段を、俺はもう宥めることが出来ない。
俺もそれに飲まれて慟哭した。
────────
その様子を、光田さゆは複雑な思いで見届けた。
(先生…?みずきちゃん…?)
この間、七下みずきに話しかけた時、彼女は何も知らないと答えた。
それが、放課後直接先生と対峙していた。
切羽詰まった先生の横顔に、光田さゆの心はちくりとした。
さゆの心にみずきへの疑念が生まれた。
(何も知らないなんて嘘?)
自分だけが、何も知らない。それは光田さゆにとって、世界に刃物を向けるような、そんな感情だった。




