第十話 光田さゆ
光田さゆは、七下みずきに自分の用件を切り出せず、悶々としていた。
大好きな先生に何かあった。
普段そんな素ぶりすら見せたことのない人だけど、きっと、彼は今悩んでいる。
幼稚園の頃から今までずっと自分を支えてくれた先生。
大きくなったら今なら、何か力になれるかも知れない。
そんな淡い期待と、七下みずきに声を掛けられない自分とは、いつまで経っても平行線のままだった。
そんな合わないと思っていたパズルのピースが、角度を変えればぴったりとはまったように、きっかけはふいに訪れた。
2時間目の休み時間。
ニコニコタイム、と学校で呼ばれている少し長めの休み時間。
他の子供達がトイレや遊びに行く中、七下みずきは先程の授業でやった内容が気になる内容だったらしく、まだ座って教科書を開いていた。
話しかけるには今しかない。元担任への思いが、光田さゆの背中を押した。
「あ、あの、みずきちゃん」
声を振り絞って出したつもりだが、読書に集中しているみずきの耳には入らず、教科書から視線を動かさずにいた。
「ねぇ、みずきちゃん!」
「え?どうしたの?」
声を掛けたのは良いものの、どう切り出そう。
変な風に、思われないかな。
「樹里先生、覚えてる?幼稚園の。」
「覚えてるよ!当たり前じゃん」
みずきがニヒヒと微笑んだ。
「なんか、最近様子がおかしいんだけど…… みずきちゃん何か知ってる?」
「あの先生なら、いつも様子がおかしいよ」
「いや、そうなんだけど、何か元気が無いって言うか……」
「そうなの?元気が無いフリじゃなくて?」
「うん、何かあったか、悩んでるんじゃないかなって」
「うーん…… 先生に限ってそんな事は無いと思うけど、ていうか私よりさゆちゃんの方が詳しいんじゃないの?」
やっぱり、彼女は何も知らないんだ。先生の悩みに、秘密に気付いているのは私だけ──
光田さゆは、みずきなら知っているんじゃないか、という心の一方で、先生の秘密を独占してるような気持ちになった。
思っていた答えは返ってこなかったが、その気持ちのせいで悲しくなるようなことは無かった。
ただ、振り出しに戻っただけ。
いや、自分から行動できたことは、振り出しよりも進んでいる。
「私にも分からない。今日も凄く悲しいピアノを朝から弾いていて。とっても心配になった。」
「恋人にフラれたとか?子供の私らには分からないよ。」
(私が知ってる友達で、一番大人に近いのは、みずきちゃんなんだけどな。)
みずきで分からない事は、他の誰かでも分からないだろう。
光田さゆは、これ以上みずきに聞く事は諦めた。
「そっかぁ…。みずきちゃん、ありがとう。」
「ううん、分かんなくてごめんね。そもそも私、卒園してからあんまり先生と話してないし。」
七下みずきはそういうと、教科書に視線を戻した。
俯いて席に戻ろうとした光田さゆは、少し顔を赤らめ、目線が泳いでいる七下みずきの様子に気が付いた。
みずきは明らかに動揺しているように見えた。
光田さゆに話しかけられたことに?元担任が悩んでいることに?
その答えはみずきにしか分からなかった。
光田さゆは、それ以上話しかけることをやめて、着席した。
ニコニコタイムはまだ残っていた。
でも、光田さゆはもう行動しようとはせず、ただ幼稚園の思い出を思い出していた。
(幼稚園では初めてのことが怖くて、泣いている時に、先生は怒りも励ましもせず、ただニコニコと私が自分の足で進む事を待っていてくれた。)
(上手くは出来なかったけれど、歌や工作、私なりに頑張ったことを、先生は自分のことのように喜んでくれた。)
(お母さんは、初めての先生が男の人で不安だったみたいだけど、卒園式の日には初めての先生が樹里先生で良かったと泣きながら感謝を伝えていた。先生も、私も泣いていた。)
(あの時、クラスで一人だけ泣いていなかった気がするけど、誰だったっけ)
彼女は、幼稚園時代に知らず知らずのうちにその先生から一つの感情を教わっていた。
教室は、いつの間にか、光田さゆと七下みずきの二人だけだった。




