第一話 現実
「おはよう!」
屈託のない笑顔が校門に入ってすぐ飛び込んでくる。
俺は掃除中の箒を片手に、笑顔で返して手を振る。
「さゆちゃん、おはよー。」
教室は向こう側なのだが、反対側の俺の元へ笑顔のまま近付いてくるさゆを俺は迎えた。
彼女は少し恥ずかしそうにしながらも、笑顔のまま両手を挙げて尚も歩み寄る。
教室は逆だ、こっちじゃない。
こっちに来ちゃいけない。
でも、彼女は俺への歩みを止めなかった。
またか。
もう3年生なのに、まだ元担任にハグを求めるか。
多分外部から見たら犯罪行為なのだが、彼女の好意に応えなければ、何か、傷付けてしまうような気がして、素直にそれに従ってしまう。
気持ちは嬉しい反面、どこかで切り出さねば、と心に思う。
友達も見てるし、手を振るだけで嬉しいよ、ハグは本当に好きな人にするんだよ。
と、何度も心の中でつぶやいた。
「今日も可愛いよ、さゆちゃん。学校、頑張ってな。応援してる。」
彼女を腕の中で抱きながら、今の自分に出来る精一杯のエールを彼女に贈り、また、手を振る。
彼女は遠くまで俺に手を振りながら教室に向かった。どこか、誇らしげ、いや、単純に嬉しいというのが後ろ姿から溢れていた。まるで体中から花柄のエフェクトが出ているようだった。
同級生の中で一際幼かった彼女は、きっとまだ俺に居場所を求めているんだろう。
居場所とされてしまった俺は、決してそれを裏切る事が出来なかった。切り離す勇気がなかった。
彼女が、その手を引くまでは。
幸せそうな後ろ姿を見送りながら、俺は心から黒い煙が立ち昇るような最悪の罪悪感に狩られる。
3年生の女児をハグしてしまった────からではない。
それはまぁ言わば不可抗力だっただけで、向こうから求められたもんだ。俺からハグを求めたらそれはもう本当に犯罪なんだけど。
実際は違う事に罪悪感を感じていた。
自分が発した、最後のあの言葉だ。
『学校頑張ってな。応援してる。』
これは本来、彼女に向けた言葉では無い。
俺は本当は、違う子に言いたかった言葉だった。
彼女と同学年の、七下みずき。
俺の頭から一時も離れない教え子。
本来は彼女に伝えるべき言葉だった。
でも、それはきっと彼女は受け取らない。
さゆというフィルターを通して、俺はみずきに言いたかった言葉を伝えてしまったのだ。
伝えたくて、伝えたくて、自分の中で堂々巡りしていた、自分から彼女への思いだった。
それは行き場を失って、黒い煙を吐きながら、純白を形にしたようなさゆに辿り着いた。
言葉通りの意味を受け取って、幸せ気分で登校していったさゆに申し訳が立たなかった。
もちろん、さゆ自身も俺にとっては可愛く、今でも大切な教え子だ。
さっきの言葉に嘘は一つもないこともまた事実だ。
でも、本来はみずきに向けて言いたい言葉だった。
それを受け取って貰えない怖さから、絶対に受け止めてくれるさゆに伝えてしまった自分の弱さに心が痛い。
俺はさゆの優しさ、自分に対する好意に付け込んで、彼女を身代わりにしてしまったのだ。
大切な教え子だけに心が痛い。
君には、きっと君にだけ掛けられる言葉があったはずなのに。俺はそれを反故にしてしまった。
頭の隅から離れない、みずきのせいにして。
──────────
さゆが靴箱を経由して校舎に入って行ったのを見送ってから、俺は最悪の気持ちのまま、始業を迎えた。
いつからこうなってしまったんだろう。
どうしてこうなってしまったんだろう。
燻ったままの心は、登校時間の朝8時の空のように青い色をしていた。




