カバンから取り出したバールのようなもの/アルブラ発売日+1日 月曜日の放課後
「隣にいる方は、お知り合いですか?」
と、背後から横瀬真美が話しかけてきたのはその日の帰り、下校途中の路上だった。
正直、〝出やがったな〟という気分である。
〝隣にいる方〟に心当たりがなかった俺は、一瞬、今日も友達の家に寄って帰ると言っていたみずほが、冗談で俺の後をつけていたのかと思ったが、あいつがそんなかわいげのある小細工をするとは思えない。
顔を前に向けたまま、目だけ動かして辺りを見回すが、やはり誰もいない。
“困った子とお近づきになっちゃったもんだなぁ。こいつが本物のサイコさんなら、無視しているのが一番なんだろうなぁ”てなことを考えつつ、するともなしに無視していると、横瀬は再び声をかけてきた。
「では、祓っても構いませんね?」
払う? 払うって何の代金?
アルブラ買ったから、今月は金なんてねーぞ?
などとアホなことを考えていると、背後でカバンを開ける音がした。
このまま無視していて、カバンから取り出したバールのようなもので殴られたりするのも嫌なので、俺は、警戒しながら振り返った。
横瀬が手にしていたのは、少なくとも金属製ではなく、物理的攻撃力は孫の手にも劣るであろうシロモノ。棒っ切れの先に幼稚園児の紙細工のような紙切れが付いた、平たく言うと、祓い串とか大幣とかってヤツだった。
理解できないまま動向を見守っていると、横瀬は、緊張の面持ちで歩み出ると、祓い串だか大幣だかで空中に輪を描いた。
その軌跡が残像のように、消えることなく空中に残っている。
「お、おぉ?」
最初は何がなんだか分からなかったが、その輪を眺めていると、中から黒い霧が渦を巻いて噴出しはじめた。
「わあああっ?!」
声なのか、単なる音なのか、それは分からないが、霧はブォーンという耳障りな低周波音を発しながら、〝騒霊新報〟のポルターガイストのような顔に姿を変えた。
ヤバい。めちゃくちゃヤバい。
みずほが言ったとおり、横瀬はマジに本物だ。
俺は地面を這いずりながら横瀬の後ろに回り込み、さらに電柱の陰に隠れた。
「現れましたね?!」
腰を抜かす俺をよそに、横瀬は勇ましく、外見にそぐわぬ凛とした声で、光明真言と般若心経をゴチャマゼにしたような呪文を唱えはじめた。
そのとたん〝顔〟は麻痺したように動かなくなった。
出現当初は、藪をつついて蛇を出した横瀬をあざ笑うかのような表情をしていたが、今は苦しそうな顔をしている。どうやら、蛇は横瀬の獲物だったことにやっと気付いたらしい。なんだか分からないが、あのおかしな呪文は効いているようだ。
時々〝アーメン〟と聞こえるのは、多分気のせいだろう。
得体の知れない呪文の詠唱時間が長くなるとともに,拳に巻かれた数珠が輝きを増す。やがて数珠は,調光ツマミをめいっぱい回した電気スタンドのように光量が変わらなくなった。多分,呪文が終わりに近づいているのだろう。
しかし,右手に祓い串、左手に数珠って、なんなんだそれ? 首には十字架とか掛けてんじゃないだろうな?
「ちゃアアアアアアアっ!」
示現流のような裂帛の気合とともに、短い手足を思い切り伸ばし、ジャンプする。そして、数珠を巻いた拳でダンクシュートのように〝顔〟を殴りつけた。
〝顔〟は、横瀬に殴られたところから崩れ、色を失っていった。化学実験の中和滴定で最後の一滴が落ちたときみたいに、と言えば分かりやすいだろうか。
消滅の直前、〝顔〟は、恐ろしい叫び声を上げた。
電柱の陰で座り込んだまま、呆然とする俺。
「……大丈夫ですか?」
声を掛けられて、俺は、やっと我に返った。
なんか、小さかったはずの横瀬が、えらく大きく見える。
「あれはなんだあのへんなかおは?!」
「ご覧になったとおり、一般的に悪霊と呼ばれるものです。成仏していない霊は、悪霊化しやすいんです」
横瀬はこともなげに言った。少し寂しそうに見えるのは俺の気のせいか?
「あんなのがついていたのかこのおれに?!」
「そうです。このままいたら、危ないところでした」
「あ……ありがとう」
やっと漢字変換して句読点が打てる程度に落ち着いてきた俺は、礼を述べ、後を続けた。
「憑かれやすい体質って、本当の事だったのか……」
「はい。湿度が高いところはカビが生えやすいように、中村さんは霊を誘ってしまう体質なんです」
「人を三が日過ぎの餅や机の中に隠した給食のコッペパンみたいに言うな」
「ごめんなさい。例えが悪かったですね」
定番のツっ込みを入れただけで、別に俺は怒っていたわけじゃないのだが、彼女はまじめな性格らしい。
「冗談だ。怒ってなんかいないよ」
「冗談ですか?」
「冗談というのは、本気ではないという意味だが?」
「はい、わかります。それくらいは」
ちょっとむっとする横瀬。なんか新鮮だ。
俺の身近にいる同世代の女は、いきなり殴りかかってくるヤツと、こっちの言うことをまったく聞いてないヤツで、こういう当たり前の反応をする当たり前の女はいない。
思えば寂しい青春じゃないか。
「……でも、命が危ないって分かってんなら、別に了解を取る必要はないんじゃないか?」
「普通はそうなのですが、まれに、悪霊ダイエットをされる方がいらっしゃいますので」
そう言いながら横瀬は、カバンから取り出した白い顆粒を撒きはじめた。どうやら清めの塩のようだ。
「悪霊ダイエット?」
横瀬によると、〝牡丹灯籠のお露さん〟系の悪霊が憑くと、事故や心臓麻痺のような突然死が訪れるのではなく、段々に痩せ衰えていって死に至るので、悪霊ダイエットとやらに向いているのだそうだ。
「この種の悪霊に憑かれると、いくら食べても太りませんし、死ぬ前に止めれば副作用も殆どありません」
「よく言われる、〝精気を吸われる〟ってヤツか」
「はい。わざと憑かせているのに、祓ってしまったりしますと、後で何とかしろと言われる恐れがあります。中村さんならダイエットは必要ないとは思ったのですが、私は憑かせる術を心得ておりませんので、念のためお尋ねしたんです。……少し失礼しますね」
横瀬は、白い顆粒を俺の頭上に投げ上げた。
ペロリ。……うん、やっぱり塩だ。
「簡単にお清めはしましたので大丈夫だとは思いますが、ここは離れたほうがいいです。残滓を感じ取って、有象無象が寄ってくるかもしれません」
そう言って横瀬は、手を差し出した。
「あ……ああ、わかった」
その手を見て、いまだに腰を抜かしたままだったことにやっと気づいた。道理で横瀬が大きく見えるはずだ。
慌ててカバンを拾って立ち上がり、横瀬に促されて、再び帰路を辿りはじめる。
「……けど、本当に大丈夫なのか? 俺、精気を吸われてたんだろ? 寿命が縮んだりとかはしないのか?」
「昨日お会いしたときには憑いていませんでしたから,吸われていたとしてもごく短時間でしょう。……そうですね,献血みたいなものだと思ってください。献血はやりすぎると命にかかわりますが、ほどほどならまったく問題ありません。それと同じです」
「分かりやすい説明だな、安心したよ」
と、余裕ありげに納得してみせたが、知らず知らずの内に寿命が縮んでいたのではないだろうかと、実は冷や汗モンだったのである。
あのままだったら、マジに、次のアルブラができなくなるところだったわけだ。
「まあ、始めるのより止めるのが難しいのが欠点ですけど」
「寄生虫ダイエットの怖いバージョンって感じだな……」
「なんですか? それ? そんなものがあるんですか?」
横瀬が初めて笑った。口許から八重歯がこぼれた。