第29話 あの悪魔の囁きは、あれは夢だ/アルブラ発売日+7日 日曜日の夕方2
どれだけそうしていたか分からない。
気がつけば、白かったガードレールがオレンジ色に染まり、周囲はすっかり夕焼けの色に変わっていた。
「……香澄……」
香澄の消えた辺りを眺めて、もう一度名前を呼んだ。
もしかしたらこの名前を口に出して呼ぶのは、これで最後かもしれない。そう思うと、またじわりと涙が滲んできた。
横瀬のしたことは間違ってはいない。
たぶん、間違ってはいない。
なのに俺は、ひどいことを言ってしまった。
明日、横瀬に謝ろう。
まだ、感謝はできないけど、謝ろう。
そう自分の心に決着をつけたとき、不意に、香澄とはまた会えるような気がした。
香澄とも、きっとまた会える。
それは、俺が死んだときかもしれないし、香澄が生まれ変わってくるのかもしれない。幽霊っていうものがあったんだから、生まれ変わることだってあるはずだ。
この別れは、始まりのための終わりなんだと思うことにした。将来、もしも香澄が俺の子供として生まれ変わってきたら、必ず大切に育ててやろうと思った。
「……香澄、俺の勘はけっこう当たるんだぜ? また会おうな、香澄……」
そう呟いて俺は、香澄の光を握りこんだままだった拳を開いた。
当然のことながら、そこにはなにもなかった。
だが。
「……勝馬ぁぁ……!」
遠い呼び声に、反射的に顔をあげると、涙に曇った眼に、遠くから覚束ない足どりで女の子が歩いてくるのが映った。
信じられなかった。
「……どうして……?」
香澄だった。
何故だか分からないけれど、成仏させられてしまったはずの香澄が、こちらに向かって歩いてくる。俺はふらつきながら立ち上がり、彼女に向かって駆けだした。
これは夢か? 夢なのか?
「あっ……!」
香澄がつまづき、転びそうになった。俺が咄嗟に手を伸ばすと、その腕の中に香澄は倒れ込んできた。確かな触感と重みが、俺の腕に伝わる。
夢じゃない。
柔らかく、温かい生身の肉体だ。
「香澄……?」
「あは……。あたし、幽霊じゃなかった。死んでなかったよ」
聞けば、成仏させられたと思った瞬間、病院で眠っていた元の身体に引き戻されたのだという。
香澄はそこで、看護婦に自分の身に起こった出来事を聞いた。
手術中に停電になり、どういうわけか自家発電も不調で、血圧が低下した状態が長く続いたためか、手術は成功したのに目覚めなかったのだ。
つまり、幽霊じゃなくて、幽体離脱ってことか。
確かに、手術中に死んだことに気付かずに、現世をさまよう霊がいる。
なら、逆に身体はまだ生きているのに、死んだと思い込んでさまよう幽体がいたって不思議じゃない。
「三か月も眠ってたおかげで足腰立たなくてさ、もうヘロヘロ。病院すぐそこなのに、ここまで二時間もかかっちゃった」
香澄は暑そうに手で扇ぎながら、俺にも〝扇げ〟と言わんばかりに、俺がポケットに入れていたパンフレットを指差した。ここは言うことを聞いておこう。せっかく生き返ったのに、熱中症で死なれたらたまったもんじゃない。
「……にしても、もう帰ってるだろうなーとか思いながら、諦め半分で来たのにさ、よく待っててくれたよね、勝馬?」
「ま……待ってなんかねぇよ」
……泣いてたんだよ、チクショウめ。
しかし、さっきまでウジウジ考えてたのが全部ムダ。
たっぷりアスファルトに吸わせた俺の涙をはどうしてくれるんだって感じだ。
……けどまぁ、泣いて奇跡が起こせるんなら、涙が枯れるまでだって泣いてやる。
よかった。
ほんとうに、よかった。
「ところで、おまえがここに来てること、病院の人は知ってるのか?」
「知ってたら出してくれるわけないでしょ」
「威張るな。そりゃヤバいだろ。三か月ぶりに目覚めた患者がいきなり行方不明になったら、医者や親が驚く。ちょっとした事件だぞ?」
俺も、この歳で誘拐犯になるのは嫌だしな。
「あはは、やっぱり?」
「おぶってやるから、一度病院に戻ろうぜ?」
「ん……んー」
「返事が悪いが?」
「あたし、こんなだから、お姫様抱っこがいい」
そう言って香澄は、自分が着ている検査着の裾をつまんだ。
確かに、これでおぶったら色々と丸見えになるな。
「……仕方がないな」
香澄をお姫様抱っこして病院に向かう。
この、お姫様抱っこって呼び名、もっとなんとかならんものかね。
名称も、行為そのものも気恥ずかしい。
抱っこしているのはかわいい女の子だし、〝誇らしい〟って気持ちもかなりあるが、それでも〝恥ずかしい〟がギリ勝ってる。
「……うわ、見た目以上に軽いな、おまえ」
でも、それは生きている身体の、嬉しい重さだ。
「そりゃ三か月眠ってたんだもの。痩せもするよ。お蔭で、胸なんかぺったんこだよ?」
笑いながら胸をなでおろす。
そう言われれば、さっきまでに比べると急に痩せているし、髪もかなり伸びていた。
さっきまで俺が見ていた香澄は、香澄が昏睡状態になる前の身体イメージであり、現実とは違うってことで、つまり、横瀬が言っていたことが裏付けられたってわけだ。
「ははは。……でも三か月か、長いなー」
「そうでもなかったよ。今だからそう思えるのかも知れないけど、割と楽しかった。……最後の一週間は特にね」
最後の一週間というのは、アルブラをプレイしている間のことか。
横瀬が、いつかすみの存在を知ったのかは分からない。
でも、おそらく横瀬は、そのときから香澄が幽霊じゃないってことが分かっていたんだ。
横瀬が口にした〝彼女はもう〟という言葉は、多分、フーライが言う〝四十九日説〟みたいに、魂が肉体に戻ることができる限界が来ているという意味だったのだろう。
なのに俺は、弁解も聞かずに突き飛ばしたり、ケガさせたり、殴るぞなんて言ってしまったり。思い出したら汗顔ものの酷いことをした。
明日謝ろう。
そして、ありがとうって言おう。
「……結局、俺は何の役にも立ってなかったな」
「どうして?」
「だって、俺がちゃんと横瀬の話を聞いてやったら、横瀬はおまえにも説明しただろう。そうしたらおまえは、病み上がりの身体で、こんなところまで歩いてくることもなかったし、俺も病院でおまえの目覚めを見届けられたかもしれない。……なんか、軽率っていうかさ、自分が嫌になる……」
それ以上言うなとでも言わんばかりに、香澄が俺の唇に指を当てた。
「……こうやって触れるのって、嬉しいね」
「………………」
「あたしのために、泣いてくれたんでしょ?」
知ってたのかよ。
「もしかして、バレてないって思ってた? あはは。顔に涙の筋がついてるし」
香澄は、俺の頬を指先でこすりながら言った後、真顔に戻って先を続けた。
「……ありがとね。勝馬があたしの名前を何度も叫んでるのを聞いたとき、あたしはこのまま消えてもいいって思った。それだけで、勝馬に会えて良かったと思ったよ」
俺は、どんな顔をしていいのか分からなかった。
きっと今、俺の顔は朱に染まっているんだろうが、それは夕日のせいだけじゃない。
「そう言えば、最後の一週間の前はどこにいたんだ?」
照れくさかった俺は、強引に話を元の流れに戻した。……それが、墓穴を掘る行為だとは気付かずに。
「………………」
香澄は無言のまま、俺の頬をこすっていた指を、目の前に持ってきた。
嫌な予感。
「……その指は何だろう……? フレミングの右手の法則かな……?」
「だから、三か月間ずっと、勝馬んとこ」
嫌な汗が吹き出る。
「…………………………三か月間……?」
「そう。三か月間ずっと」
「俺が気付くまでの間、ずっと……?」
「うん。ずっと」
にっこり笑う香澄。頭がグルグルする。
きっとこれは、昔読んだ小説のアレだ。
目の前の美女の服を脱がせて好き放題する妄想をした後、彼女にテレパシー能力があることを明かされたときの男の気分と同じだ。
……なんて、どうでもいい考えに逃げようとするが、部屋の中で奔放に興じていたよしなしごとをすべて見られていたということは、事実が伴っている分、頭の中を覗かれていたよりもダメージが大きいことに気付き、その事実に目が眩みそうになった。
「男のひとってかわいいね。あんなに一生懸命に……」
「うわあああああっ!」
最も触れられたくない傷口にいきなり塩漬けのハバネロを押し当てられ、タバスコを染み込ませた包帯でグルグル巻きにされたような苦痛(精神的な)に、俺は叫んだ。
香澄は俺の三か月間をすべて知っている。
何気なくアニソンを歌い始めるも、サビしか歌えずフンフンフーンでごまかしたこと。
ひとりで漫画のカッコいいセリフを呟いてポーズをとってみたこと。
布団を丸めた模擬彼女に〝ジュッテーンンンムッ〟などと愛を囁いたこと。
……そして、もっと恥ずかしいことも!
俺が部屋で繰り広げたあんなことやこんなことを、香澄はすべて知っている。
香澄がそれを誰かに話すかどうかなんて関係ない。
俺か香澄がこの世にいる限り、俺は女の子に三か月間プライベートを見られ続けた男という、重い十字架を背負って生きなくてはならないのだ。
俺のために号泣しろ全米!
そのときの俺は、かなり情けない顔をしていただろう。
「………………」
突然、香澄が無言で、俺の胸に身体を預けてきた。
「……すう……すう……」
規則正しい寝息が聞こえてくる。
どうやら香澄は疲れて眠ってしまったようだ。三か月眠ってたのに、起きてすぐに二時間も歩いたんだから、そりゃ疲れるだろうな。
正直に言おう。
今のうちにこいつを亡き者にするか、はたまた恥ずかしい写真を撮って取引の材料に使うか。俺の頭に黒い考えが浮かんだ。
浮かんだが、もちろん実行はしなかった。
殺されるために走った男が思った、〝先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ〟、……ってやつだ。
後で、首を傾げる香澄に、頬を音高く殴ってもらった。