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良い旅立ちを

作者: 雉白書屋

 少数派、マイノリティの声がより響くようになった世の中。生きる自由に死ぬ自由、どんな人間であっても、その人権は尊重されるべき。死ぬ権利もまた尊重。そうして、世界の多くの国々で安楽死が認められることとなった。

 

『ようこそお越しくださいました。あなたにとって、良い旅立ちとなりますように』


 安楽死施設、ユーサネイジア・センターに青年は足を踏み入れた。

 どこからか流れてきた自動音声に出迎えられ、青年はそのスピーカーがあるであろう方向へ顔を向けた。しかし、見つけることができず彼は、ふん……、と鼻を鳴らした。緊張を隠すための虚勢だった。声がした瞬間、ビクッとしたことが恥ずかしかったのだ。

 前を向き直した青年は、正面にある受付カウンターに座る女と目が合った。女はニコッと微笑んだ。カウンターには照明が備え付けられているのだろう、その光が女の皺に影を落とした。

 青年は口角を上げようとしたが、やめて、目だけで辺りを見渡した。

 病院の待合室。あるいは大企業のロビー、それか最先端の研究所といった雰囲気だ。黒い大理石のタイルの床、壁は白。青年の後ろ、建物の正面部はガラス一面で、太陽光を大きく取り込んでいる。

 受付カウンターへ歩き出した青年は、ちらりと後ろを振り返った。

 平原とその奥に雑木林が広がっており、一本の灰色の道路が伸びている。その上を走るバスの後部が見えた。

 青年は前を向き直した。鼻から息を吐く。臆したのではないと示すように。


「ようこそお越しくださいました。安楽死をご希望の方ですね」


「……そうっす」


「では、こちらの書類にサインをお願いいたします」


 最寄りの町からここまで送迎のバスが出ていた。むろん、それ以外の交通手段、自家用車、タクシー、徒歩、なんでもいつでも歓迎される。青年は電話予約し、バスで来た。電話で伝えられた時間通り集合場所に行くと、青年の他にもう一人いた。若い女だった。バスの座席は離れて座った。青年は何度か話しかけようと思ったが、自分を抑えた。きっと後悔するだろう。自分が少し興奮状態にあることを自覚していたのだ。


「あたし……おりません。やめます! 降りません!」


 センターの前に到着したが、その女はそう言ってバスを降りようとしなかった。しかし、不思議な話ではない。安楽死希望者がそのまま町へ引き返す。これはセンターができた当初からよくあることだった。青年にもその想いがないわけではなかった。その女は一人で騒ぎ、前の席の背もたれをぐっと掴んだ。青年は「なんだ、情けない」と思い、どこか蔑むような気持ちになった。そして、自分は違うという、やや意地に突き動かされる形でバスを降りたのだった。

 

「どうぞ、奥へお進みください」


 青年は受付の女に軽く頭を下げ、建物の奥へと進んだ。わざと足音を立てて歩いたが、転びそうになったのですぐにやめた。

 ひとつ、ため息をつくと再び虚しさが、そして死にたいという思いがじわじわと胸から脳へとせり上がっていく感覚に襲われた。喉に雑巾を詰められ、額の皮膚の下ではミミズが蠢いている。死にたい。死にたい死にたい死にたい。死ぬべきだ。死んでいいんだ。

 青年は安堵した。ここへ来たことは間違いじゃなかった、と。彼の自己肯定感はこういった時にしか高まらない。


「こちらの部屋にどうぞ」


 スタッフらしき女が青年を出迎え、手のひらでドアを指し示す。青年は頷き、ドアノブに手を伸ばした。

 ベッドの数から見て、どうやら個室を与えられたようだ。ここが待機所というわけか、そういえばドアに番号が振られていたな、と青年は振り返って女を見た。

 

「105号室です。こちらがあなたのお部屋になります。ここで一週間ほど生活していただき、政府への申請等、手続きが済み次第、旅立っていただきます。食事や入浴所など、必要なものはセンターの中に全て揃っていますので、何でもご利用ください」


 女はそう言うと恭しく頭を下げ、ドアを閉めた。

 青年はとりあえず鍵を閉め、ベッドの上に腰を下ろした。

 ニスが塗られた木製のベッドに、用意されたシーツ、掛け布団、枕、マットレスはいずれも白かった。部屋も同様にシンプルな造りで、簡易宿泊所のような雰囲気だった。頭上には丸い蛍光灯の他にスピーカーのようなものもあった。おそらく、準備ができたらあそこから知らせてくれるのだろう。

 窓がない。テレビもパソコンもないがそれらは必要ない。ここで待つ間、何をすればいいのかは知っている。あくまで漠然と、それもネットの噂でだが。


 翌日、青年は支給された服に着替え、屋外にいた。


「では、こちらの鍬を使って、土を耕していただきます」


 そう言われ、職員の女から鍬を手渡された。

 文句はなかった。むしろ噂通りだな、と青年はニヤッと笑った。

「何かございましたか?」と職員の女に訊ねられ、その否定するやりとりの方が青年は面倒に思った。

 もっともネットの噂で知らなくても、文句を言いはしなかっただろう。暇だし自分から何かを始めるよりも言われたことをする方が楽だ。それにただ言われたことを守っていれば楽に死ねるのだ。首吊り、飛び降り、手首切り、湯船にドライヤーを落とす。臆して実行に移さなかったのも含めて、どれも失敗に終わった。

 鍬など握ったことはなかったが、それらしくは動ける。青年はそう思っていただけに声をかけられた瞬間、少しムッとした。


「あー、だめだめ、こうやるんだよ! こうだよ!」


「……こうですか?」


「うん、そうそうそう。いいね、ゴホッ、ゴホッ!」


 服装からして、その中年の男も青年と同じく安楽死希望者のようだった。

 どこにでもこういった世話焼きな人間はいるのだな、と青年は思った。そして無視するなり適当にあしらうなりすればいいものを、自分もまたお人好しだなと、しゃがみ込み咳をし始めたその男の背中をさすりながら思った。


「ごほっ……いやぁありがとね。見ての通り、ってわかんないか。ははは、病気でね。ああ、うつらないやつだから大丈夫。でもまあ、わかると思うけど余命がね……」


 それが死ぬ理由、安楽死を希望する理由。青年はどこか自慢された、そして見下されたような気分になり、またそう思う自分はひねくれているなと、思った。

 だが、実際そうだったのかもしれない。男はどこか得意げな顔をし、青年に訊ねた。


「君は、どうして安楽死を希望するの?」


「……人には言いたくないです」


「ああ、そう」


 男はふふん、といった顔をして青年から離れ、自分の作業に戻った。

 どうせ、直前になって帰りたいとか言い出すんだろう。そう思われたと青年は感じた。

 太陽の光の下、土と触れ合う作業や運動、カウセリング、さらに意外と豪華な食事、大浴場など、この施設の噂話の情報源は、安楽死を希望していたが気が変わり、ここを出て行った者たちだった。

 また、記者も潜入取材と称し、この施設での体験を記事を書いた。それは冷やかしが過ぎると非難を浴びたが、どうやら情報は正しかったらしい。

 そして、もう一つ噂があった。これまで安楽死した者の数は秘匿されている。つまり、その数はゼロなのかもしれないということ。つまりここは

 

「そう、実際は更生施設のようなものだと俺は思うね」


 自由時間中、安楽死希望者たちの生活スペースにあるロビーでぼんやりしていた青年は、志田という男に声をかけられた。

 畑仕事やルームランナーなどを使用した運動時間を経て、話す気力もないのだが、相手を邪険に扱えないのも彼の気質だった。もっとも、志田はただ相槌を打つだけでペラペラと喋ってくれるので、そこまで労さなかったが。


「死にたがりどもを、ああ、安楽死希望者を更生させるのさ。ほら、カウンセラーとかがよく言うだろ? 土と触れ合うのは精神衛生上、大変よろしいってさ」


 青年は曖昧に頷いておいた。カウンセラーにかかったことなどない。その金も気力もない。


「俺がここに来た時もいたんだよねー。臭くて太ってて、もう爪なんか伸び放題で。あれはたぶん、家まで迎えに来てもらったパターンだね。引きこもりだよ引きこもり。何をする気力もなくて、男の職員がそいつの体を洗ってやって、女の職員が積極的に話しかけてやって、そしたら、ははは、『生きる希望が湧きました』ってさ! 出てっちゃったよ。ほんと、手のひらで転がされてるというかさぁ。職員も『またいつでも来てくださいねって』なんて、いや、来ちゃ駄目でしょ、はははは!」


 俺は違う。そう軽蔑するように志田は話した。青年はその話の最中「お前はどうなんだ?」と目で問われた気がしたが、ただ黙っていた。

 青年が死を切望する理由。一言でいうならば『人生詰んだ』それに尽きる。理由を並べることはできる。これまでのつらい経験、体の中に入ったまま抜けず膿み、肉を腐らせている棘の話を。ただ、どこか言い訳がましく感じるので青年は話すことを好まない。また、誰かに話したところで『つらかったね。でも君はまだ若いんだから。人生はこれからだよ』と片付けられるのが目に見えており、腹立たしかった。

 そう言うあなたは今、レールの上にいるじゃないか。目線を合わせて話しているようで、その実、見下ろしているのが分からないのか、と。


 自室では、ほとんどの時間をベッドの上で過ごした。

 天井のスピーカーからは小さい音量で音楽が流れている。何の曲かは知らないが、恐らくヒーリングミュージックというものだろう。とことん、こちらの自殺の意志を削ぐ気だなと青年は笑った。

 ここが政府主導で作られた更生施設と疑われるのも納得だった。このセンターができてから年間、自殺者はその数を大きく減らしている。苦しまずにいつでも死ねるというのはその実、心の支えになるようだ。それは青年も実感していた。実際にセンターに来てみれば、このように心身ともに健康に過ごせる場所であり、社会復帰するのにいい療養地となっているのだろう。

 政府が自殺志願者にわざわざ優しくする理由はある。労働力である国民、その命をむざむざ散らされるのは損だ。自分にその価値があるとは思えないが、ここで過ごしていると不思議と『生きて』と言われている気になる。青年は戸惑いを覚えていた。




「え?」


「ん? あのおじさんでしょ? 畑仕事に自信ありの。逝ったみたいよ」


 またある日のロビーにて、志田の話に相槌を打っていた青年だったが、プツンと会話が途切れた。それをどこか気まずく思った彼は、世話焼きの中年男の話をした。あの人、最近見ないな、と。

 もっとも、ここの住人同士が顔を合わせることは少ない。志田のような他人と関わりたがる人間もいるが、ほとんどが自室にいるためだ。それも鬱や重病を抱えているのなら当然のこと。だから実際はあまり気にしていなかった。

 

「まあ、持病があったってねぇ。そりゃそうだよねって話。許可が下りて、そんで、本人の気持ちの整理もついていたんじゃない」


「……でも、本当に安楽死ってあるんですね」


「ん? は? なに?」


「え、だって、実際に安楽死したって話は聞かないし、あなたも前にここは更生施設だと言ってたじゃないですか」


 と、青年が言い終わるか否か、志田は大笑いした。

 

「そりゃ! 死人が報告なんてできないもん! はははは!」


「え、い、いや! そうじゃなくて」


「あーはいはい。はははっ、何人殺したか、ああ、安楽死させたか発表がないって話でしょ? そりゃね、数を公表して『ああ、こんなにいるんなら自分も……』ってなるのは、あまりよくないんじゃない? まあ、よその国じゃ公表しているところもあるし、この国も後追いでそのうちし出すんじゃないかなぁ。安楽死希望者大募集! ってね! はははははは!」


 今日の志田は特に躁状態のようだ、と青年は思った。

 不快な笑い声に軽薄な態度は水風船のように危うげだった。青年はそっと席を立ち、自分の部屋に戻った。あまり関わらないようにしようと思った。それでもある時から志田の姿を一切見かけなくなると、彼はどこか喪失感のようなものを抱いた。

 しかし、青年は職員に志田がどうなったか聞こうとはしなかった。個人情報だ。教えてくれると限らない上に、それにどうでもよくなった。そう、他人のことなど。



「それで、どうなさいますか?」


 準備ができました。そう告げられた時、彼は一瞬、細く高い崖の上に立っているような気分になった。

 お願いします。そう言った後は美容院のように手際よく事を済ませてくれるだろう。ここまで長かったようで、実際は一週間くらいだ。死にたいと思い始めてからの期間を含めてからはもっと長い。待ち焦がれていた瞬間が来たのだ。


『ようこそお越しくださいました。あなたにとって、良い旅立ちとなりますように』


 だが、彼が踏み出したのは太陽の下。見上げたのは青空であった。

 ただの、かまってほしがり。よくあるパターン。そう思われたかもしれない。だが、考え直させて欲しいと口にしたとき、思いのほか心地よかった。今でもそうだ。

 青年は正面から吹く風に瞼を閉じ、草木のさざめきに耳を澄まし、今、自分はこの世に生まれ直した。そう思い、歩きだした。少し待てばバスが来ると言われたが、断った。歩きたかった。そのバスが乗せた安楽死希望者に白い目で見られることを恐れたのではなく、もっと陽の光を浴びていたい気分だった。

 ……結局、こんなオチか。自分はとことん普通の人間だな。彼はそう思い、声を出して笑った。







「よろしかったのですか、所長。また帰還者を出して」


「ん、なぜ? 彼に死んでほしかった個人的な理由でも?」


「いえいえ、まさか。知りませんし。ただ今月分が……」


「心配ない。国から許可が下りて死刑囚を回せるようになった」


「ああ、それはよかったです。でも、そう多くはないでしょう。いずれまた……。それに、この先彼らはもっと数を要求するのでは……」


「ああ、でも問題ない。あの青年もそのうちまた戻ってくるんじゃないかな。生きたいなんて一瞬の錯覚だったと思い直して。ははは、彼の細胞は死にたがっているよ。そういう人間だ。そして、そんな人間はこれから多く生み出されるだろう。政府がそういう社会を作っていくのだから」


「ノルマを達成するために、ですね……。この国に課せられた……達成できなければ……ああ、恐ろしい……」


「そうだ。でなければ安楽死制度など認められないさ。しかし、そう悠長なことを言ってられないのは事実だ。死刑囚の次はホームレスに生活保護者に他の犯罪者も。あと、もっと強制的に運動させたほうがいいな。彼らは締まった肉がお好みのようだから……」

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